天地というのはエネルギー(氣・神気)に満ち満ちています。
「水の中にいる魚は水の存在に気づけない」と言いますが、さしずめ「『お蔭さま』の中にいる私たちは『お蔭さま』の存在に気づけない」と
いったところかとしれません。
天地のエネルギーをその水に喩えるなら、私たちは大海の中に両手を入れて水をすくおうとしているようなものだと言えます。
手の中の水を自分の力と思ってしまい、それを使いきるまい、逃すまいとして必死に指を閉じているわけです。
心や体が疲れ果てている時というのは、そのエネルギーが枯れかけている状態です。
仕事や生活にガリガリ(我利我利)しすぎて指を閉じてしまっているため、水が枯れかけているということです。
このことは、水の中にソッと手をいれたまま優しく包んでみればよくわかります。
指の隙間(透き間)はスカスカにあいてます。
そのままに放っとけば、指に関係なく水は漂っています。
手の中も、手の外も、どちらも同じ水ということです。
便宜上はエネルギーが交流するという言い方をしていますが、実際は流れているのではなく、溶け(解け)合った一つの状態であるわけです。
しかし天地を忘れ、自分だけになってしまうと、手をガチガチに固くして壁を作ってしまいます。
天地と自分とを隔てる壁とは、我執のことです。
自我の執着が強いと、雑念が詰まり詰まって天地と隔たりができてしまいます。
たとえば、人里離れた大自然の中に行くと、天地のエネルギーが自分の中に流れ込んできて清々しい気持ちになります。
これは様々な雑念を呼び起こす要素に溢れる日常から切り離されたことで、心の雑味が薄まったからだと言えます。
もちろん、大自然に満ちるエネルギーの純度が強いために、それが呼び水になって囚われから解放されたという面もあるでしょうが、やはり
私たち自身の変化が一番の要因だと思います。
つまり、こういうことです。
「天地のエネルギーは、都会であっても大自然の中であっても、等しく満ち満ちている」
「ただ都会の方が、私たちがあれこれと囚われやすいために、天地のエネルギーを感じ取りにくくなっている」
といって、都会で悶々と暮らしていることが不幸で、田舎のナチュラルライフが健全だということにはなりません。
たまたま縁があってそうなるのであれば別ですが、今の環境を否定してナチュラルライフを求めるのは、目的を履き違えてしまっていると
いうことです。
執着や囚われが少ければ天地と一体となって生きやすいのは確かですが、人生は生きやすくなるのが目的ではないからです。
私たちは、生きやすくなるために生きているわけではありません。
都会であれ田舎であれ、あるいは過酷な仕事であれ楽勝な仕事であれ、執着や囚われを生み出す誘惑や出来事に囲まれていればこそ私たちは
自分の心の状態に気が付けるわけですし、今に集中することの大切さと素晴らしさを感じられるわけです。
そして、その結果として、天地と溶け合って一つになるのです。
あくまで結果として、生きやすくなるだけなのです。
そこまでの「過程」つまり「今を刻む」ことをすっ飛ばして、天地と溶け合って一つになることだけを求めるのは本末転倒ということです。
それは灯台の明かりのような、道を進むための目印ではありますが、本当の目的ではありません。
本当の目的は、この足元の一歩一歩です。
ですから、ある瞬間に天地との一体感を覚えたのに、その次の瞬間また執着に囚われてしまったとしても、それでいいのです。
常に天地と一体でなければいけないということではないのです。
執着の素は外ではなく内にあります。
囚われや執着のネタを排除しようと奥山にこもったとしても、それは外のものを排除し続けるという、終わりなきイタチごっこでしかなく、時々たまたま天地のエネルギーと一つになれるか
どうかでしかないわけです。
確かに、それが清々しい状態なのは間違いありません。
でもそれは、誰でも普通に生きて普通に死んだらそうなるわけです。
私たちは最初からその状態になっているというのならば、なぜこの世であえて再びそれを目指そうとするのかというところにまさしく答えが
あります。
つまり、それ自体はただの目標に過ぎず、大事なのは足元の一歩のほう。
「今」ということなのです。
そうすると、私たちがすでに知っているその大きな心に立ち返ってみれば、囚われや執着すらも有りがたく、あるいは愛おしく思えてくると
いうことになります。
しかし、私たちは囚われたくない執着したくないという思いが強すぎるあまり、それを忌み嫌って、遠ざけよう、切り捨てよう、フタをして
しまおうとしてしまいます。
「雑念や感情が湧いてきたらそのまま流す」というものも解釈を間違ってしまうと、遠いところに置いたり無視したりしてしまいます。
正しく言うならば、むしろ積極的にジャンジャン受け入れていくことが、流すことになります。
見ないようにしよう、心を向けないようにしようと思えば思うほど、その思いに囚われてしまいます。
執着しないようにしようとすればするほど「執着しないようにしよう」という思いに執着してしまいます。
雑念や感情を流すというのは結果的に「流した」形になっているだけであって、実はそれは「受け入れる」ということであるわけです。
流れを止めないためには、それらを受け入れることです。
そして受け入れるということは、それを否定も肯定もしないということです。
見ないというのは拒絶です。
すなわち、拒絶にエネルギーを注いでいる状態です。
あるいは肯定というものもまた、囚われになりかねません。
よく「天(宇宙、神)の愛」という表現において、ポジティブやプラスや積極性、肯定、出力という意味合いにとられることがありますが、
残念ながらそれらはどれも色がつきすぎてしまっています。
四の五の言わず、ただ、受け入れる。100%そのままの今を認める。
その寛容さだと思います。
注がれるものや出されるものではなく、ただ、在る。
まさに、この天地宇宙に満ちているエネルギーと同じであるということです。
愛というものは、その言葉のイメージに引っ張られて勘違いしやすいものですが、それというのはエネルギーであり「状態」だと言えます。
まさしく、天地宇宙に満ちる寛容性こそが愛であるわけです。
寛容に満ち溢れたこの世に生まれ出て、今こうして存在している、ただ生かされているというその時点で、私たちは全てひっくるめてOK
されているということです。
そんなにあわてて一足飛びに上を目指そうとしなくてもいいのです。
目の前にある執着や囚われを、時には上手く流し、時には飲み込まれ、悶々としたりスッキリしたりしながら日々を刻んでいく。
それでイイのです。
それがイイのです。
湧きあがる執着から逃れることができず苦しくて仕方がない時、私たちはどうしてもそれを否定し、拒絶したくなります。
でも、それをすればするほど執着は強化されてしまいます。
そんな時にこそ、天地の心であるわけです。
「これでいいのダ」
「囚われてしまいがちでもイイのダ」
何もかも受け入れてくれる天地の優しさというのは、まるで揺りかごのようです。
そうやってホッとした気持ちになった時、私たちは天地そのものとなっているのです。
「水の中にいる魚は水の存在に気づけない」と言いますが、さしずめ「『お蔭さま』の中にいる私たちは『お蔭さま』の存在に気づけない」と
いったところかとしれません。
天地のエネルギーをその水に喩えるなら、私たちは大海の中に両手を入れて水をすくおうとしているようなものだと言えます。
手の中の水を自分の力と思ってしまい、それを使いきるまい、逃すまいとして必死に指を閉じているわけです。
心や体が疲れ果てている時というのは、そのエネルギーが枯れかけている状態です。
仕事や生活にガリガリ(我利我利)しすぎて指を閉じてしまっているため、水が枯れかけているということです。
このことは、水の中にソッと手をいれたまま優しく包んでみればよくわかります。
指の隙間(透き間)はスカスカにあいてます。
そのままに放っとけば、指に関係なく水は漂っています。
手の中も、手の外も、どちらも同じ水ということです。
便宜上はエネルギーが交流するという言い方をしていますが、実際は流れているのではなく、溶け(解け)合った一つの状態であるわけです。
しかし天地を忘れ、自分だけになってしまうと、手をガチガチに固くして壁を作ってしまいます。
天地と自分とを隔てる壁とは、我執のことです。
自我の執着が強いと、雑念が詰まり詰まって天地と隔たりができてしまいます。
たとえば、人里離れた大自然の中に行くと、天地のエネルギーが自分の中に流れ込んできて清々しい気持ちになります。
これは様々な雑念を呼び起こす要素に溢れる日常から切り離されたことで、心の雑味が薄まったからだと言えます。
もちろん、大自然に満ちるエネルギーの純度が強いために、それが呼び水になって囚われから解放されたという面もあるでしょうが、やはり
私たち自身の変化が一番の要因だと思います。
つまり、こういうことです。
「天地のエネルギーは、都会であっても大自然の中であっても、等しく満ち満ちている」
「ただ都会の方が、私たちがあれこれと囚われやすいために、天地のエネルギーを感じ取りにくくなっている」
といって、都会で悶々と暮らしていることが不幸で、田舎のナチュラルライフが健全だということにはなりません。
たまたま縁があってそうなるのであれば別ですが、今の環境を否定してナチュラルライフを求めるのは、目的を履き違えてしまっていると
いうことです。
執着や囚われが少ければ天地と一体となって生きやすいのは確かですが、人生は生きやすくなるのが目的ではないからです。
私たちは、生きやすくなるために生きているわけではありません。
都会であれ田舎であれ、あるいは過酷な仕事であれ楽勝な仕事であれ、執着や囚われを生み出す誘惑や出来事に囲まれていればこそ私たちは
自分の心の状態に気が付けるわけですし、今に集中することの大切さと素晴らしさを感じられるわけです。
そして、その結果として、天地と溶け合って一つになるのです。
あくまで結果として、生きやすくなるだけなのです。
そこまでの「過程」つまり「今を刻む」ことをすっ飛ばして、天地と溶け合って一つになることだけを求めるのは本末転倒ということです。
それは灯台の明かりのような、道を進むための目印ではありますが、本当の目的ではありません。
本当の目的は、この足元の一歩一歩です。
ですから、ある瞬間に天地との一体感を覚えたのに、その次の瞬間また執着に囚われてしまったとしても、それでいいのです。
常に天地と一体でなければいけないということではないのです。
執着の素は外ではなく内にあります。
囚われや執着のネタを排除しようと奥山にこもったとしても、それは外のものを排除し続けるという、終わりなきイタチごっこでしかなく、時々たまたま天地のエネルギーと一つになれるか
どうかでしかないわけです。
確かに、それが清々しい状態なのは間違いありません。
でもそれは、誰でも普通に生きて普通に死んだらそうなるわけです。
私たちは最初からその状態になっているというのならば、なぜこの世であえて再びそれを目指そうとするのかというところにまさしく答えが
あります。
つまり、それ自体はただの目標に過ぎず、大事なのは足元の一歩のほう。
「今」ということなのです。
そうすると、私たちがすでに知っているその大きな心に立ち返ってみれば、囚われや執着すらも有りがたく、あるいは愛おしく思えてくると
いうことになります。
しかし、私たちは囚われたくない執着したくないという思いが強すぎるあまり、それを忌み嫌って、遠ざけよう、切り捨てよう、フタをして
しまおうとしてしまいます。
「雑念や感情が湧いてきたらそのまま流す」というものも解釈を間違ってしまうと、遠いところに置いたり無視したりしてしまいます。
正しく言うならば、むしろ積極的にジャンジャン受け入れていくことが、流すことになります。
見ないようにしよう、心を向けないようにしようと思えば思うほど、その思いに囚われてしまいます。
執着しないようにしようとすればするほど「執着しないようにしよう」という思いに執着してしまいます。
雑念や感情を流すというのは結果的に「流した」形になっているだけであって、実はそれは「受け入れる」ということであるわけです。
流れを止めないためには、それらを受け入れることです。
そして受け入れるということは、それを否定も肯定もしないということです。
見ないというのは拒絶です。
すなわち、拒絶にエネルギーを注いでいる状態です。
あるいは肯定というものもまた、囚われになりかねません。
よく「天(宇宙、神)の愛」という表現において、ポジティブやプラスや積極性、肯定、出力という意味合いにとられることがありますが、
残念ながらそれらはどれも色がつきすぎてしまっています。
四の五の言わず、ただ、受け入れる。100%そのままの今を認める。
その寛容さだと思います。
注がれるものや出されるものではなく、ただ、在る。
まさに、この天地宇宙に満ちているエネルギーと同じであるということです。
愛というものは、その言葉のイメージに引っ張られて勘違いしやすいものですが、それというのはエネルギーであり「状態」だと言えます。
まさしく、天地宇宙に満ちる寛容性こそが愛であるわけです。
寛容に満ち溢れたこの世に生まれ出て、今こうして存在している、ただ生かされているというその時点で、私たちは全てひっくるめてOK
されているということです。
そんなにあわてて一足飛びに上を目指そうとしなくてもいいのです。
目の前にある執着や囚われを、時には上手く流し、時には飲み込まれ、悶々としたりスッキリしたりしながら日々を刻んでいく。
それでイイのです。
それがイイのです。
湧きあがる執着から逃れることができず苦しくて仕方がない時、私たちはどうしてもそれを否定し、拒絶したくなります。
でも、それをすればするほど執着は強化されてしまいます。
そんな時にこそ、天地の心であるわけです。
「これでいいのダ」
「囚われてしまいがちでもイイのダ」
何もかも受け入れてくれる天地の優しさというのは、まるで揺りかごのようです。
そうやってホッとした気持ちになった時、私たちは天地そのものとなっているのです。