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これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

すべてが正解

2015-01-19 21:19:59 | 心をラクに
この世のすべては、本来、無色透明のニュートラルなものですが、
それらに、評価や判断という形で、私たちは色づけをしています。

その評価や判断は、他との比較によって生み出されます。

少し真面目な話になってしまいますが、私たちはどうして「比較」
をしてしまうのでしょう。

人間社会が存続するためには、好き勝手のバラバラというわけに
いきませんので、法律や行動規範というものが設けられます。
道を大きくそらさないためには、どうしても目印となるものが
必要となってきます。
私たちは、物心つく前の小さい頃からすでにそういうものに
囲まれてきました。

それ自体は必要なものですから、否定するものではありません。
ただ、それに対する私たちの反応に問題があるわけです。
あくまで目印にとどめておくものなのに、必要以上にそれに囚われ、
縛られてしまった結果、比較という観念を強化させてしまいました。

たとえば、お行儀だったり、勉強だったり、運動だったりと、
何かにつけて比較することが染み付いてしまいました。

褒められたり怒られたり、成功報酬や懲罰を重ねるうちに、
無意識に、善し悪しの判断をするという条件反射が刷り込まれて
しまいました。


そうやって何かにつけて相対比較する癖は、ありとあらゆる場面で
出てしまうようになったわけです。

他人の言動を「良い・悪い」と評価してしまいますし、自分自身の
言動に対しても「良い・悪い」と評価してしまいます。


隣の芝生が青く見えたり、逆に、汚なく見えたりというのは
よくある話です。
あるいは「あのとき違う選択をしていればもっと良かったのに」と
後悔したり、逆に「この選択こそが一番良かったのだ」と満足したり。

でも、すでに触れたとおり、結果というものはあまり意味がなく
私たちは経過を体験するためにこの世に生まれてきました。
今を刻むために生きています。


そうなりますと、刻むこと自体に価値があるわけですから、
どの選択であってもすべて等しいわけです。


どれかが他よりも優れているということはありません。

「いまがサイコー」という表現はある意味セーフですが、
「この選択が他の選択『よりも』良かった」という表現はアウトです。
正しくは、すべてがサイコーなのです。

それならばチャランポランでもいいのかという話になりますが、
実は、べつにそれでもいいのです。
ただ、自分というものが無くてまわりに流されてしまうと、「今」が
散漫になります。心ここにあらずです。
それは、天地の視点から見れば、生きにくい状態に他ならないので、
ハッと我に返るような出来事が起きることになります。

たとえ怠惰な生き方であっても、それに善し悪しの判断をすることは
無意味です。
今を刻んでいるということに価値があるからです。


ただ、目の前の今が一番大事ということを知り、100%そこに心を
向けるようになれば、わざわざ頑張ろうとしなくても、自ずと
意識は集中することになります。
そうすれば、ラクで楽しいというだけのことです。

苦しくてしんどい生き方であっても価値としては同じ。
単に、好みの問題というだけです。

少し話はそれてしまいましたが、良いも悪いもないというのは、
自分だけに限らず、まわりの人たちに対しても同じです。
みんな、今を刻んでいるわけですから、それはそれで全てがOK
なのです。


ですから、他人のことをとやかく言う必要はないのです。
そして、他人から自分のことをとやかく言われる筋合もないわけです。

他人をあれこれ評価するのも無意味ですし、周囲からの評価を気にする
のも無意味です。
やらせとけばいいし、言わせとけばいいのです。


「これでいいのダ」「アレでいいのダ」ということです(笑)


物事に優劣をつけようとする心癖というものは、なかなか根深いもので、
それ以外にも、日常の様々な場面で現れます。

たとえば、朝のヒゲ剃りをしながら今日の仕事のことを考えていたと
しましょう。
これは、今のヒゲ剃りよりも仕事のほうが大事(心配)だと、無意識の
うちに思っている状態です。
一方で、もしこれがお見合いの日の朝ならどうでしょう。
同じヒゲ剃りなのに、ものすごい真剣になるのではないでしょうか。

つまり、私たちは知らず知らずのうちに比較によって行動してしまって
いる
わけです。

でも「今」の瞬間よりも大事なことなどありません。
ヒゲ剃りそのものが大事なのではなく、今の瞬間に心を向けることが
大事なのです。

つまり結果として、その瞬間は、仕事のことよりもヒゲ剃りに集中する
ことのほうが重要だということです。

あまり適切でないかもしれませんが、もしも優劣の比較をしたいならば、
「過去」や「未来」よりも「今」を優先させるべきなのです。

ですから決して、仕事のことを考えるなということではありません。
もしも仕事のことを考えるのならば、他の何かをしながらではなく、
100%の心を向けて考えるということです。

禅の公案は、固定観念や執着を壊すためのものですが、脳を絞り出す
ようにして無理難題の答えを考えるのは「今に100%集中」するための
訓練という意味合いもあるのではないかと思います。

そして、優劣が無いということはすべてがニュートラルということです。
「これが正解」「あれは間違い」ということはありません。
「これも正解」「あれも正解」ということです。

唯一絶対の答えなどありません。
唯一絶対の真理があるとすれば、「唯一絶対なんて無い」というのが
それでしょう(笑)

すべてが正解。
オールOK。

だからこそ、この世界には、これだけ多くの生命が溢れているのだと
思います。


感謝のこころ

2015-01-18 19:24:54 | 心をラクに
いきなりですが、「天地に感謝しましょう」なんて言われたらどのように思われるでしょうか。

なんとも空々しいというか、現実離れしたお花畑を想像してしまい、思わず距離を置いてしまうのではないでしょうか。

実際のところ、私たちは天地に生かされている実感を全く持っていませんので、なかなかピンとこないのが当然の反応ではないかと思います。
実感もないのに平気でそれを言えたとしたら、それは綺麗事にしかなりません。

以前にも書きましたが、生きとし生けるもの、あらゆる生物は、天地とのエネルギーの交流で生かされていると言えます。

この世は、すみずみまでエネルギーに満ち満ちている。
それをご神気といえば、より現実味を帯びるかもしれませんし、あるいはまた氣と表現した方が何となく分かるという人もいるかもしれません。

この場合の「氣」というのは、ご神氣の「氣」ということになりますので要するに同じものを指すことになります。

そもそもこの世では、魂というものが肉体に入り込んで天地との交流が起こっています。
魂が抜けると天地との交流ができなくなるので肉体は朽ちてしまいます。

私たちは、天地に生かされており、また魂に生かされているわけです。
まさに天地に感謝ですし、魂にも感謝ということになります。

少し脱線しますが、今こうしてアレコレ考えている自分というのは頭や意識と表現されるものです。魂ではありません。
もちろん魂も自分そのものですが、魂は自我とは異なる次元で私たちを俯瞰しています。
それを優しい表現にするならば、私たちを見守っていると言うこともできます。

そんな魂が私たちの胸の内にあります。

自分というものを大好きという人はなかなか居ませんが、それは自我を自分だと思っているからではないかと思います。
自我とは、感情に直結するものでもありますので、身勝手でワガママなイメージを持ってしまいます。
そんなワガママを大好きと平気で言えるなんてマジかいな、と思うのが良識人ならば健全と言えます。

ただ、自我ではなく魂というものが自分であると考えたならば、話が変わってくるのではないでしょうか。

私たちを生かしてくれる魂。
文句も言わずに見守ってくれている魂。

あぁ、なんて有り難い。嬉しい。もったいない。

もしもそのように自分を受け入れられたならば、私たちは他人のことも受け入れられるようになるでしょう。
他人もまた自我ではなく魂として見るということです。

「自分を愛せない人は他人も愛せない」というのは、そういう意味だと私は思っています。

愛するというのは、受け入れることだと考えています。
天地は愛そのものですが、それというのは外へと注ぐ愛情ではなく、すべてを受け入れる寛容さだと思っています。

何をしようとも温かく包みこんでいる状態。
あらゆるすべてを認めて見守っている状態。
期待も失望もせず、オールOKの大いなる心であるということです。

さて話を戻しますと、感謝の思いが起きにくいのは生かされている実感がないのが理由の一つではないかと書きました。

魂と意識(ないし心)がごちゃ混ぜになると、魂も意識もすべて自分のものだと思いこんでしまいます。
そして、自分は自分の力で生きている、となっていきます

例えば、私たちは親の加護があって生かされてきましたが、それを親の義務だから当たり前だと思い込んでしまうと、自分が生かされたという
事実はどこかへ消し飛んでしまいます。

そうして自分は自分の力で生きていると勘違いしようものなら、たちまち自由や権利を叫びだし、ますます勘違いに拍車がかかるようになって
しまうということです。

たとえどのような形であろうとも、今こうして存在しているということは私たちは親、ないしそれに代わる誰かに生かしてもらったという
ことになります。

そして親に生かしてもらったという事実が見えなくなると、それ以外の存在、すなわち目に見えない事実にはもっと気がつきにくくなります。

自立という言葉を履き違えて「自分で生きている」のが格好いいと思ってしまうと、当たり前の事実にも素直になれず「別に育ててくれと
頼んだ覚えはない」などとバカげた現実逃避まで起きてしまいます。

まだそれが親子関係であれば幼稚な憎まれ口で済むのですが、対象が少しでも大きくなると、途端に本気の思い込みになってしまうものです。

「別に国に助けてもらってなどいない」
「国など無くても生きていける」
「この国など自分に何の関係もない」
といった具合にです。

「国」を「親」という言葉に置き換えれば、すぐにその幼稚さが分かるはずです。
これは決して言葉遊びではなく、とても大事な話です。

でも今度はその「国」という言葉を、私たちに馴染みのない物事に置き換えて想像してみるとどうでしょう。

「別に◯◯に助けてもらっていない」
「◯◯など無くても生きていける」
「◯◯など自分に何の関係もない」

自分とは関係ないような物事、自分とは関係ない人々などに対して、私たちは当たり前にそのように思ってしまっているのではないでしょうか。

そして、そうした自分を取り巻く存在の最たるものが「天地」であるわけです。

私たちは、自分の身近なものであれば実感を伴うものでも、遠くなればなるほど実感が薄れてしまいます。
そうして自分には関係ないものとなり、ついにはそれらの存在そのものに気づかなくなってしまうということです。

これを正常な状態に戻すには、その逆ルートを辿ればいいということになります。
いきなり三段跳びでやろうとすると無理が生じてしまいます。

徐々に段階を追ってということが大事です。
つまり、少しずつ小刻みにスケールを変えていくということです。

自分に近いところから徐々に広げていく。

間違いなく自分に関係のあるものから順に、それが無いと自分は生きられないということを実感をともなって理解していくということです。

いきなり天地に感謝しようなどと言われても、一つ一つがバラバラだと、頭で分かっても思いがついていかないことになります。

実は、教育勅語こそがそうしたことを順を追って分かりやすく伝えていました。

両親への感謝。
兄弟・姉妹への感謝。
妻・夫への感謝。
友人への感謝。
会社や社会への感謝。
自分以外のものへの感謝。

国への隷属を洗脳するものなどという言いがかりがありますが全くトンデモありません。
そんなガセネタを知的だと感じる幻想こそが洗脳であって、それこそ国だけでなく社会も会社も、さらには両親への感謝までもがカッコ悪いもの
となってしまいます。

それこそが戦後日本の姿そのものでないかと思うばかりです。

すべて、ごく当たり前のこと。
教育勅語を初めて読んだ人は、あまりに当たり前すぎる内容に驚かれることでしよう。
でも戦後は、そういう当たり前のことを教えられずに来てしまったのです。

親に感謝するという当たり前のことを恥ずかしがりカッコ悪いと思うようになり、家族や友人、会社や社会、国のことを直視できなくなってしまいました。

さらに「自分は自分の力で生きている」という幼稚な背伸びは、ついに教育現場において「なぜ人を殺してはいけないのですか?」という絶望的
な質問を生むに至りました。

誰もこれに答えられなかったということですが、それも仕方のない話だと思います。
何故ならば、先生だけでなく社会全体が、当たり前のことを当たり前に自覚してこなかったからです。

私たちは、私たち一人一人の力ではなく、両親や愛する人たち、さらにそれ以外の多くの人たちの存在によって生かしてもらっている。
その当たり前のことを理解していれば、自分の命と同じように他の人の命が大事なことくらい、子どもにだって分かります。

ましてや、この命、この魂というものが私たちの所有物ではないという基本中の基本の話があれば説明すらも必要のないことでしょう。

戦前の方たちは、そうしたことを素直に受け入れていました。
幼稚なカッコつけなどせず、大人の思慮でもって受け入れていました。

だからこそ、今の我々と同じように我が身を惜しむ気持ちを持ちながらも、それを上まわる感謝の心に突き動かされて過ごしていたわけです。

生かされているという事実は、個人主義や西洋的思想においては難解なものかもしれません。
そのためそれらを両立させるために、中間をすっ飛ばして、神によって生かされているという教義を作り出しました。

いきなり最頂点だけを持ってきたわけですから、そこには実感も何もない。
だから信仰心という強い力でもって必死にそれを繋ぎ止めようとしたのではないかと思います。

我利我利と生きないための命綱が教義であり信仰心であった彼らからすれば、それらの無い日本とは我利我利した低俗な国に違いないと考えた
のも仕方のないことだったと言えます。

ありがたいことに私たち日本人は、教義や信仰など無くとも、生かされているということを実感をもって理解することができます。

両親に始まり、家族、親族、友人。
学校、会社といった組織、そして社会。
さらには人間社会を離れ、山や森、海や大地、風、雷、月や太陽、といった自然。

自分のまわりのあらゆる存在に対して、生かしてもらっていることを実感する。
だから、感謝する。
だから、お祀りする。


そうして私たちのご先祖様は、一族の先祖を祀ったり、社会に貢献した偉人を祀ったり、天地自然を祀ったりしてきました。

それは西洋的な神ではなく、生かされていることへの感謝の現れであり、貴さの象徴だったわけです。

神だ何だと言うと距離を感じてしまいますが、純粋な感謝の思いだと考えれば、とても身近な感覚になるのではないかと思います。

外国の人たちにはそのへんが理解しにくいところだったようですが、最近では外国の人たちも感性でもって核心を掴む方が増えてきたように
感じます。

ありがたいことに我々日本人は、戦後教育の逆風にさらされながらも、天地自然に対して畏れと感謝の心を今でもしっかりと持ち続けています。
成果主義や個人主義という自分本位な考え方が強まっていても、無意識のうちに日本人の感性は受け継がれています。

風土や環境、伝統、風習によってその感性が存続されたということです。
まさにご先祖の遺産の御蔭であります。

これまではカッコつけの恥ずかしさが心の邪魔をしていましたが、3・11を境にして、多くの人たちが自分の心に素直になり、魂が発露してきたように感じます。

これからは、もう恥ずかしがることなく、色々なことへ感謝の心が向けられます。

私たちは、もとより天地自然と交流して生きています。生かされています。

そして、そんな私たち人間も天地自然の一つなのです。






いきてるだけでオールOK

2015-01-16 23:44:48 | 心をラクに
目の前に集中しているつもりでも、知らず知らずのうちに他のことが
気になっていたりするものです。
結果を出したいと強く思ったり、あるいは失敗しないかと心配したり、
そんなことが脳裏をよぎりながら、必死にトレーニングをしたことや
勉強や仕事をした経験が誰しもあるかと思います。

頭の片隅に何かほんの少しでも気にかかっていれば、その分だけ
目の前のことへの注意力が削がれてしまいます。
「成果」「結果」あるいは「期待」「不安」は、心が未来に向いている状態。
まさに心ここにあらずなのです。


といって、目的を持つなということではありません。
一度心に描いたら、あとは天へほうって、今は目の前のことだけに
心を向けるということです。

まずはゴールへとスッと心を通す。
歩き出したら、目の前のことだけに集中する。
今の一歩だけに心を向ける。
ナビに目的地を入力したらあとはお任せで、今の景色を楽しむと
いう感じです。

期待や不安は、「結果」を意識することで生じます。
求めていた結果と現実のギャップに応じて、喜びや失望が発生します。
その喜びや失望のことを考えてしまうから、期待や不安が生じます。

ですから、結果を求めなければいいわけです。
なったら、なったです。
どこに辿り着いてもオールOKの心があれば、今を楽しむことが
できます。

不安や期待が少しでもあると、心が今から離れます。
自分では気がつかないレベルのわずかな思いであったとしても、
やはり「今」から離れてしまうことには変わりありません。
たった1%の期待感であっても、その分だけ目の前のことが散漫に
なってしまいます。

そして、この1%の差が実は非常に大きいのです。
99%と100%の差は、1%にとどまりません。

心が目の前に100%向いている時は、我執が無い状態です。
天地と一体の状態ですから、無限であり無尽蔵な状態です。

内と外が無い状態。
それは神と一つになっているとも言えます。
神ながらの状態です。
神道では「中今」といって、今に生きることを大切にしています。
今に生きるとは、目の前のことに100%心を向けるということです。

よく『過程が大事で、結果はオマケ』と言いますが、それは決して
綺麗ごとや精神論などではなく、本当にその通りなのです。

「今」「今」「今」の積み重ねは、過程あるいは経過そのものです。

私たちは色々なことを経験するためにこの世に生まれてきています。
成功や失敗というのは、あとづけの判断・評価に過ぎません。
「結果」というのは本来、無色透明のニュートラルなものです。

なんだってエエじゃないかと達観すれば、不安や期待も無くなります。

目の前のことに100%心を向けることが神人合一の状態であるならば、
この世に生まれてきたのは、結果を残すためでなく、過程を刻むため
だと言えるのではないでしょうか。

そして、過程を刻むことが生きる目的ということは、目の前のことに
心を向けているだけでオールOKということになります。

生きているということそれ自体が、すでに自分の存在意義を満たして
いるわけです。存在目的を達しているわけです。


大層な足跡を残す必要もないですし、もの凄い修行をする必要もない。
高邁な思想や深い思考を悶々と重ねる必要もないのです。
そんなことに縛られているぐらいなら、とにかく動く。
どれほど正当なことであっても、心がザワついたり頭に血が上るよう
では何の意味もない。
何も考えずそのへんをブラブラ歩いている方が遥かにマシです。

ですから、不安に駆られて、青い鳥を探し回る必要はありません。
安心しきって、今だけに心を向けていいのです。


あれをやらなきゃコレもやらなきゃ、とアレコレ考えながら仕事や
家事をやっていると非常に疲れますよね。

そう、「アレはアレ、コレはコレ」です。
一つ一つやっていれば、必ず全て片付いていきます。
早く解放されたい、早く楽になりたいと、先の結果を求めすぎないのが
ラクになるコツです。

禅では、掃除や食事など一つ一つの行ないに心を向けることを修行と
しています。
あちこちへ移り気な心の癖を正して、「今」に全てを向ける訓練です。
掃除こそが一番大事だという教えは、なんとも真理をついてます。
理屈をこねる余地も与えない潔よさが小気味いいです。

でも、作務のようなストイックな作業を行なわなくとも、私たちは
しばしば自然にそういう状態になっています。
例えば、楽しい時や幸せな時には、心に雑念が湧きません。
ただ、目の前の今があるだけです。

だから、自分がワクワクすることをやればいいんだ、という話になって
くるわけです。

楽しいことに没頭している時は、神ながらの状態にあると言えます。
あるいは、集中しきっている時も、そうです。
他のことへと心が動き回らない状態にあります。

そうなると、長湯に浸かっている時なんかも同じことが言えるかもしれ
ません。
色々な雑念が、浮かんでは消え浮かんでは消え、そのうち何も無い状態に
なっていきます。
その場に溶け込んでいくようなボーッとした状態になります。
まさに神ながらの状態ではないでしょうか。

神社に行った時や、大自然の中に行った時もそんな感じになりますね。
神ながらの状態はそこかしこにあるわけです。

温泉でボーッとしてれば神ながらの道だなんて、随分と都合のいい話で
ありますが、まぁそういうことです(笑)

自分なりの神ながらを探してみると、もっともっと人生がラクになっていく
かもしれませんね。

行きやすさと生きやすさ

2015-01-14 22:35:22 | 心をラクに
「あの頃は楽しかったなぁ」「またあの頃に戻れたら」と思うことがあります。
特に、子供の頃を思い出すとそのような気持ちが強くなるものです。
小学生の頃、中学生の頃、そしてもう大人のつもりでいた高校生や大学生の頃
でさえそうです。

色々なことがあったけど、その時は何も考えず毎日を楽しんでいました。
いま思い返しても、ワクワクというか、ふわふわというか、ポカポカした温かい
感覚に包まれます。

もしかしたら今この瞬間のことも、死んだあとに振り返ってみると、それと同じ
ような感覚になるのかもしれませんが(笑)


それにしても、なんで子どもの頃はそんなに楽しかったのでしょう。

まず頭に浮かぶことといえば、「悩みも不安もなかった」「まわりのことは気に
していなかった」「知らないがゆえに幸せだった」といったところでしょうか。

たしかに子どもの頃は、明日どころか、わずか数分後のことすらも考えず、いま
楽しめることがないかと四六時中探し回っていました。
その結果「またこの子はなんでそんなことするの!」「あと少しなんだからジッ
としてなさい!」と怒られたり、あるいは翌日の宿題のことなどスッカラカンで
その日になって怒られたりしたものです。

実際、楽しいことを探さずにはいられなかったですし、大人から見ればショーモ
ナイことでもそれを何とか楽しくしようと必死でした。


ある意味、生き方としては核心をついていると言えます。

そんな子ども時代に想いを抱くのは、あの無垢な心でワクワクを求めている瞬間の
高揚感を肌が覚えているからなのかもしれませんし、あるいはそれが今となっては
叶わぬものになったという切なさからなのかもしれません。

人は、成長とともに色々な失敗や成功を重ね、同時に自分以外のまわりへと視野が
広がり、家族や友達そして社会へと、周囲との関係性を強く意識するようになって
いきます。
そうした知識や経験をもとに、明日や明後日を安全に過ごせるように自分をコント
ロールするようになります。
しかし、それは大なり小なりストレスや悩みを生むことにもなりました。

子どもの頃は、大人から見れば簡単に予測できるような失敗やケガをしていました。
その代わりストレスや悩みとはほとんど無縁でした。
それが、ケガや失敗を避けようとするうちに様々な雑念や執着に囚われやすくなっ
ていきました。
生きやすさを求めた結果、心は様々なストレスに苦しむようになったわけです。


果たして、子どもの頃のキラキラは、過去の夢なのでしょうか。
手放しでの無防備な生き方は、保護者が居たからこそ出来たことなのでしょうか。

そんなことはありません。
不安やこだわりから離れれば、いつでもよみがえります。

不安やこだわりは全て自分の外にあるものです。
将来や過去へ心を向けたり、他人や理想に心を向けることで生じます。
どれも今との比較によって生れるものです。

つまり、心が「今」の外にあるわけです。

思えば、子どもの頃はいつも瞬間瞬間に心が向いていました。
「今」しかありませんでした。

大人が何を言おうと耳に届きませんでしたし、「今」のあとのことなどスッカラ
カンでした。
空間的にも時間的にも、「今」しかありませんでした。

さて、そうなるとさらなる疑問が生まれます。
「今」しか見えない子どもが良くて、「今」以外見えてしまう大人はダメということ
なのかと。

答えはノーです。

まわりや将来へ心を通すことは、やはり大事なことだと思います。
ただ、それに執着しすぎるからおかしくなるのです。

まわりに対しても、将来に向けても、最初に心をスッと通すだけで十分。
あとはそれを完全に手離し、心を「今」に100%向けるのです。
その時こそ、子どもの頃の自分をお手本にすればいいのです。

まわりや将来のことがチラチラと頭に浮かんでしまうと今が散漫になってしまい
ます。
とにかく大事なのは、一度スッと心を向けたあとはそれを忘れるという切り替え
です。

忘れてしまって大丈夫。
手放しの無防備で大丈夫なのです。
心配しなくても保護者がいます。

自分の魂がそうですし、天地がそうです。
疑うまでもありません。
生きているというのはそういうことなのですから。
保護者なしではそもそも存在できません(笑)

そのように一つ一つのことに心を100%向けて過ごしていると、文字どおり、
一喜一憂の日々になるでしょう。
先々のことやまわりのことなど、その瞬間には無縁のことだからです。
はたから見れば、それはまるで子どものように映ることでしょう。
大人げなく、みっともないと感じるかもしれません。

でも、それこそが、夢にまで描いた子どもの頃のあのキラキラなのです。

宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』に、そのものズバリが書かれてます。

 日照リノ時ハ涙ヲ流シ
 寒サノ夏ハオロオロ歩キ
 ミンナニ木偶ノ坊ト呼バレ
 ホメラレモセズ
 苦ニモサレズ
 ソウイウ者ニ
 私ハナリタイ

・・・これ以上ないほどに世渡り下手な生き方です。
いちいち大袈裟に反応し、そしてまわりからは陰口を叩かれる。
まさに、世の中を行く(生く)には難しい姿です。

でも、その一方で心は常に「今」だけに向いているので、ストレスとは無縁です。
生きることに苦しみが伴わないわけですから、それは生きやすいということに
なります。


どこに幸せを見出だすかは人それぞれです。

ただ、その気になればいつでもあの頃に戻れると思うだけでも、なんだか少し
ポカポカしてきませんか?


神ながらの道

2015-01-12 17:37:35 | 心をラクに
昨晩テレビを観ていましたら、特攻隊の生き残りの方の半生が流れていました。
当時二十歳のその方はエンジントラブルにより不時着を余儀なくされ、同隊の中でただ一人だけ生き残ったのでした。

そして自分一人だけ死ななかったという自責の念に苦しみ、何十年もの間、戦死した仲間の遺族のもとを慰問し続けて、せめて隊員たちの生活
ぶりを話すことで、彼らの息吹を御家族に伝えようとされたといいます。

終戦直後の貧困にあえぐ中、おまけに情報もほとんど無いなか、全国をまわるのはどれだけ大変なことだったか想像することもできません。

正義が一夜にして悪に変わった時代、言われなき中傷も数知れなかったことでしょう。
それでもその方は自分の家庭も顧みず、稼ぎも休日も全てそのことに費やして生きたそうです。
それからのちも退職金を投げうち、仲間たちの記憶を残すために資料館の設立に奔走して、ついに知覧にてそれを実現させました。

時間もお金も、そして家庭をも犠牲にして70年間それだけに生きたことに、奥様は一つの文句も言われなかったそうです。
それどころか御主人のその一途な姿に惚れ込み、敬意すら評しているのでした。

いかにも不器用そうなその御主人が、カメラを前に長年苦労をかけたことをボソボソと奥様に謝ったのでしたが、それに対してはその奥様は、
ただ一言、御主人の信念を素晴らしいとおっしゃられました。

それを聞いた時の御主人の笑顔というのは、もはや言葉に表すことができません。
まさに神様そのものでした。

誰かに理解してもらおうとか、そういう次元では無かったでしょう。
我を忘れて一心を貫き通した、それが全てだったはずです。
そして奥様は御主人が何をしたかではなく、その透き通った姿にこそ美しさを感じたのだと思います。

神道では、自分の仕事に一所懸命につとめるなかに救済があると考えられています。

それぞれの仕事は神様から委ねられたもので、その神聖な仕事につとめる中で人間は神と一体になるというものです。

これは神が降りてくるというのではなく、自らの内にある神性が発露していくということだと思います。
本来、人間は神と一心同体であるものの、我執というものがそれを曇らせてしまい神が隠れてしまう。
しかし、何かに心を向け続けることにより私たちは執着心から解放されて、元の姿に戻ることができるわけです。

確かに頑固で一途な職人ほど、その顔は神様のように見えるものです。
これは職人でなくとも、普通の会社員でも普通の主婦でも同じことが言えるのではないでしょうか。

理由や理屈など抜きにして、ひたすら何かに心を向け続ける。
その結果として心が晴れて神性が発露していくということです。


元特攻隊の方のその笑顔を見たとき、画面に向かって本当に手を合わせたくなりました。

もちろん、そこまで脇目もふれず一心不乱に何かに心を向け続けるのは、なかなかできないことです。
ただ、仕事でも家事でも、一つ一つの些細なことに100%心を向けることならば自分にもできそうです。

なんとなくボンヤリと考えごとをしながら、あるいは不安や不満を抱えながらルーチンにやってしまうのは、まさに我執の真っただ中です。

ガムシャラに必死にやるのが難しいなら、せめて瞬間だけでも目の前のことに100%心を向ける。

それもまた「一所懸命」と言えるのではないかと思います。