瀬戸際の暇人

今年も偶に更新します(汗)

桜橋~神田川を下る旅~その19

2021年07月11日 18時40分54秒 | 旅の覚書
春の神田川下りもそろそろ終盤、予定通りなら今回含めて後3回で終わるでしょう。
そういうわけで、もう暫くお付き合いください。(汗)
では前回「桜橋~神田川を下る旅~その18」に引き続き、今回は上流から数えて118番目の華水橋~129番目の船河原橋までの区間を採り上げたいと思います。
尚、撮影日は一年前の2020年3月末頃です。

源流から数えて118番目の橋…「華水橋」
読みは「はなみずばし」だそうです…漢字だと綺麗なイメージなのに、平仮名だと汚く聞えるのは何故?(笑)
前の江戸川橋から上に載っかった首都高速5号池袋線は、この先130番目の小石川橋まで背後霊の如く離れません。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、華水橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、華水橋上より下流側を向いた風景。
ぶっちゃけ118番目の華水橋~128番目の隆慶橋まで、あまり変化が無い風景が続きますので、この区間はサクサク参ります。

☆華水橋~掃部橋間に在る立ち寄りスポット…目白通りローソン江戸川橋駅前店側「稲荷神社」

…って書いた側から寄り道して申し訳無い。(汗)
目白通り方面へ橋を渡った先、メトロ江戸川橋駅側に建つローソンの前に、小さな稲荷神社が在って気になったもので…元は神田川の側に建ってたものを、首都高速道を敷く時に移転させたんじゃないでしょうか?
川の側に稲荷神社は付き物、この先も頻繁に出会う事になります。


源流から数えて119番目の橋…「掃部橋」
「かもんばし」と読みます、一発で読めた人は素晴らしい。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、掃部橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、掃部橋上より下流側を向いた風景。
…そもそも何故、川の上に首都高速道を敷いたのかっつうと、用地がそこしか無かったからです。
地下に敷くとなれば費用も時間もかかる、この先東京は人口が爆発して道路の渋滞待った無、スピード第一を求められた結果、現在の風景が生まれたわけです。
よく前回東京五輪の負の遺産説が囁かれますが、それ以前から計画は在った様です。
ただ初期の計画は、現在の様な河川や公有地の上を通過するものではなかったのも事実らしい。
そろそろ首都高速道も架け替えの時期を迎えるので、今度こそ地下に埋める計画を進めるかもしれない。
日本橋も昔の姿に戻す計画が立った事だし。


源流から数えて120番目の橋…「古川橋」
華水橋~次の石切橋までは架け替え時期が同じらしく、カラーリングが白で統一されています。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、古川橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、古川橋上より下流側を向いた風景。
橋の周囲は新旧の建物が共存しており、都市再開発が進んでいるのを実感する。
両岸とも文京区なのは、この古川橋まで…次の石切橋~128番目の隆慶橋までは、文京区と新宿区の境に架かります。


源流から数えて121番目の橋…「石切橋」
江戸時代、この橋の周辺に石工達が住んでいた事から名付けられたとの事。
昔は付近で最も幅が広く大きい橋だった為に、「江戸川大橋」と呼ばれていたと、近くに立つ案内看板に書いてありました。
神田川なのに何故「江戸川」かは前回書いた通り…神田川の中流域は昭和40年位まで「江戸川」と呼ばれていたからです。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、石切橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、石切橋上より下流側を向いた風景。

↑この辺り最近になって川沿いの歩道の幅が拡がりました!
以前は歩道の幅が極狭で、道路をビュンビュン行き交う車が怖くて、歩き辛かったのです。
願わくば船河原橋まで川沿いの歩道を開通させ、道の幅を拡げてくれ。


源流から数えて122番目の橋…「西江戸川橋」
橋名の由来は、西江戸川町と牛込五軒町との間に架かっていたから…だとして牛込五軒町どこ行った??
この橋から124番目の中之橋まで、欄干が色違いでカラフル。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、西江戸川橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、西江戸川橋上より下流側を向いた風景。
首都高速道の対岸を見ると、綺麗に整備されてて、新しい街といった印象が持てます。
残った古い建物も、近日、再開発が予定されてるんだろうなと。


源流から数えて123番目の橋…「小桜橋」
嘗てここに桜並木が在った事を伝える橋名、実は今も橋の袂にちょびっとだけ桜が植えられています。(2018、2019年記事の写真を参照)
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、小桜橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、小桜橋上より下流側を向いた風景。
橋名に合わせ、欄干が桜色に塗られています。(下の写真を参照してください)


源流から数えて124番目の橋…「中之橋」
江戸時代に石切橋と隆慶橋の間に架けられた事から、「中の橋」との意味で、この名前で呼ばれる様になったとか。
橋の袂には、大手印刷会社で知られる「株式会社トッパングラフィックコミュニケーションズ小石川事業所」のビルが建っています。
現在の「トッパン」は印刷業の他にも業種を拡げてますが、凸版印刷100周年記念事業の一環で、本社ビル内に国内の印刷の歴史を展示する「印刷博物館」を併設しています。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、中之橋上より上流側を向いた風景…上の写真で前方に架かる小桜橋の色が解るかと…ちなみに中之橋の欄干は緑色に塗られています。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、中之橋上より下流側を向いた風景…そして新白鳥橋の欄干は水色、上から観ると虹みたいで綺麗かも。


源流から数えて125番目の橋…「新白鳥橋」
橋の左側に歩道が敷かれてるものの、車の交通が優先されてる為、渡った後は対岸を歩くしか下流に向かう方法が有りません。
地形に合わせ、大きく回り込んで車道と繋がる構造になっています。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、新白鳥橋上より上流側を向いた風景…街路樹がまるで秋の様に紅葉しており綺麗。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、新白鳥橋上より下流側を向いた風景…上で書いた通り、下流側は車道なため立ち入れず、反対側の歩道からズームして撮るのが精一杯。(汗)


源流から数えて126番目の橋…「白鳥橋」
読みは「しらとり」橋です…知らなかった頃は「はくちょう」橋と読んでました。(汗)

↑白鳥橋上より上流側を向いた風景。
「この付近で神田川の流れは大きく曲がっていた為に、江戸時代には『大曲(おおまがり)』と呼ばれていました。
 明治19(1886)年にはここに『大曲橋』が架けられていましたが、その後架け替えられ、『白鳥橋』と言う名が付けられました。
 これは嘗てこの辺りに『白鳥池』と言う大きな池が在った事からと云われています。」←案内看板より抜粋。
現在も「大曲」と言う地名は残されています。
 
↑白鳥橋上流側で口を開けている「水道橋分水路」吞口。
網が邪魔して読み難いでしょうが、「水道橋分水路」と書いてありました。
検索したところ、「水道橋1号分水路」吞口だそう…ここから先、分水路の吞口が幾つも在って、ややこしい。

↑白鳥橋上より下流側を向いた風景…首都高速道が本格的に上を覆い、暗い雰囲気の通りが続きます。

 
源流から数えて127番目の橋…「新隆慶橋」
写真の橋名、「新」が見切れてしまった。(汗)
神田川に架かる中では最も若い橋、なんと平成生まれだそうです!
幅が広くて6車線も有る、川が目に入らなきゃ殆ど道路にしか見えません。
本郷側と神田川目白通りを直接繋げる目的から架橋されたとの事です。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、新隆慶橋上より上流側を向いた風景…橋下にまた口が開いてるのが見えます…ここもまた分水路の吞口か吐口なのでしょうが、調査不足で解りません。(汗)
ちなみに神田川には、高田馬場分水路、江戸川橋分水路、水道橋分水路、お茶の水分水路と、合わせて4つの分水路が在るそう。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、新隆慶橋上より下流側を向いた風景…写真の通り極めて近い距離間で次の橋が架かります。


源流から数えて128番目の橋…「隆慶橋」
前の新隆慶橋とは反対に、古びれ感半端無い橋…長年、高速道に覆われてた事から、痛むスピードが速まったもよう。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、隆慶橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、隆慶橋上より下流側を向いた風景。
江戸幕府二代将軍秀忠と三代将軍家光の書記として仕えた「大橋隆慶」が橋名の由来になってるそう。
歴史有る橋だから残してるのでしょう…しかしそれなら架け替えて綺麗にしてあげてと思う。
でも新隆慶橋が極近くに架かる現在、ここに橋を架ける必要性無という事で、耐久年数が限界を迎えたら無くしてしまうんだろうな…。
首都高速道の天井から解放された所で見えて来るのが飯田橋駅。

↑がしかし、その前に注目したいのが、隆慶橋~船河原橋間に存在する、「水道橋2号分水路吞口」。
この反対側には「江戸川橋分水路」の吐口が在るけど、その写真はまた後で。
尚、船河原橋が架かる地点は、外濠と神田川が交わる川の丁字路になってます。

☆船河原橋側の立ち寄りスポット…JR飯田橋駅東口前巨大歩道橋「ペデストリアンデッキ」
「ペデストリアンデッキ」とは、広場と横断歩道橋の両機能を併せ持ち、建物(この場合、飯田橋駅)と接続して建設された、歩行者の交通専用の高架建築物を指す言葉だそうです。(ウィキ参照)
飯田橋駅東口前の道路に覆い被さるオバケ歩道橋といった様相で、歩行者は地上を歩かず歩道橋の上を歩くルールになっとります。
歩道橋が架かる区間の地上を歩いてると、直ぐにお巡りさんから「上を通って!!」と注意されてしまうのだ。(汗)
「ペデストリアンデッキ」が出来たお蔭で、信号に待たされず駅に行けるのは良いけど、歩行者は何となく肩身の狭いエリアです。
どっちかっつうと、車が通り易い様に、邪魔な歩行者を上に誘導してる感じ受けるのよね~。
 

 
↑歩道の端に植えてある桜の1本が、歩道橋に届くまで育っていて、満開時の眺めは素晴らしいです。

↑「ペデストリアンデッキ」から眺めたJR飯田橋駅東口&駅のホーム。
で、「船河原橋」が何処に架かってるかと言うと——

 
源流から数えて129番目の橋…「船河原橋」
——JR飯田橋駅東口の右横、道路を挟んだ向う側に架かってるのですが、上流側に歩いて行く事は不可能です。
隆慶橋から直進するも途中で行き止まり、上流側は金網で封鎖されていて入れません。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真の通り、船河原橋の上流側はデッドスペースになっとります。↑
 
↑そもそも船河原橋が架かる地点は、飯田橋も加わっての三角関係を築いており、初めて訪れた人間は惑わされる事確実。
(この御方の記事をご参照ください→http://www.mport.info/kandagawa/bridges/k/funagawarabashi.html)
上の写真で解説すると、手前が船河原橋の一部で、後ろの外濠に架かる方が飯田橋になります。

↑全体像はこちら——Ⅴ字に分かれた船河原橋の間に、飯田橋が挟まれてるという構図で、良く見ると橋の欄干の色で区別が付く。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、船河原橋上より上流側を向いた風景…川の左側に口を開けてるのが、「江戸川橋分水路」の吐口です。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、船河原橋上より下流側を向いた風景です。


↑無事、船河原橋の写真を撮影出来た所で、下流へ向かう前に「小石川後楽園」へ寄りました。
世間的に後楽園=東京ドーム側の遊園地のイメージが強いですが、遊園地が出来る前からここには「後楽園」と呼ばれる名所が在り、それが地名となって今に至っています。

☆船河原橋~小石川橋間の立ち寄りスポット…「小石川後楽園
時代劇でお馴染み、水戸黄門様所縁の庭園です。
 
「小石川後楽園は、旧水戸徳川家の江戸上屋敷の後園で、林泉美に富む廻遊式築山、山水庭園である。
 江戸時代初め、徳川御三家の一つであった水戸家の祖、徳川頼房は、寛永六(1629)年、三代将軍家光から与えられたこの邸地に廻遊式庭園を築造した。
 二代目藩主の光圀も本園の築庭には力を注ぎ、当時、隣国『明』の遺臣(儒学者)で我が国に亡命していた朱舜水の意見を用い、今見る様な中国趣味豊かな手法を加味した。
 因みに『後楽園』の名は、光圀が舜水に命じて選んだもので、中国、北宋の范仲淹が著した『岳陽楼記』の中の一文『(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ』より『後楽園』と名付けた。
 その後も度々の改修や震災火災で、創築時代の壮観さこそ失われたものの、逐次手が加えられる等、幾多の時代の変遷を経て、現在に至っている。
 本園は、土の香漂う奥深い山地と、樹林に包まれた静寂な水面の中に各地の名所を写し、自然の美と人工の妙とを兼ね備えた庭園芸術の粋を見せている。
 また、園内には数々の園亭祠堂が在り、梅・桜・藤・花菖蒲など四季折々の花が豊富――ここの文章薄れて読めず(汗)――貴重な緑として、訪れる者に憩いの場を提供している。
 尚、当園は大正12年3月、国の史跡名勝地に、また昭和27年3月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定された。」(←場内の案内看板より抜粋)
特別史跡と特別名勝の重複指定を受けているのは、都立庭園では浜離宮恩賜庭園とここ小石川後楽園の二つだけ、全国でも京都市の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院、奈良県の平城京左京三条ニ坊宮跡、広島県の厳島、岩手県の毛越寺庭園、福井県の一乗谷朝倉氏庭園を合わせ9ヶ所だけだとの事。
また築地塀の石垣の一部は、江戸城鍛冶橋門北側外堀付近より発掘された江戸城外堀石垣を再利用し、園が造られた江戸時代初期の「打ち込みハギ」と呼ばれる石積みの技法で再現したそう。

↑「小石川後楽園」西門を潜った先の庭園入口。
入園料は一般の場合300円です。(シニア・団体割引、年パス有)
私が訪れた頃は一部修復工事しており、残念ながら園内の全てを廻る事は出来ませんでした。
有名な稲田とか観たかったのに…。
来年春、また桜が咲いた頃に訪れようと、今から考えています。
 
↑池の周囲に咲いてた枝垂桜。
最も古い樹は推定樹齢60年を越すのだそう。
他にソメイヨシノ等、園内には数種の桜が植えられています。

↑「西行堂跡…藩祖である頼房の時代に、御鞍打師「小野荘兵衛」作の西行法師の木像を安置した事から、『西行堂』と名付けられた。
 尚、この堂は戦災により焼失した。」(←案内看板より)
…焼失しちゃったのか~。
 

 
↑「竜田川」
百人一首にも詠まれる奈良の紅葉の名所、竜田川を再現した小川。
園内には他、京の都付近の名所や、中国の名所を再現したスポットが目白押し。
電車や飛行機が無い時代に生まれたブルジョアは、こうして憧れの名所を自分の家の庭に再現し、行った気分に浸ってたんでしょうね~。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は「駐歩泉」。
「九代斉昭が、西行堂側の流れを西行の和歌、『道のべに 清水流るる 柳陰 暫しとてこそ 立ち止まりつれ』に因み『駐歩泉』と命名し、自ら筆をとり碑を建てたもの。」(←案内看板より)
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は「延段(のべだん)」。
「中国風の素朴な石畳で、切石と玉石を巧みに組み合わせたもの。」(←案内看板より)
 
↑「木曽川」
長野から始まり、岐阜・愛知・三重を経て伊勢湾に注ぐ大河を再現したもの。
…そう見えるかは貴方の想像力次第。(笑)
 
↑「内庭…水戸藩の書院の庭だった所で、昔は唐門を隔てて、大泉水のある『後園』と分かれていました。
 江戸時代は『うちの御庭』と呼ばれ、池を中心にした純日本式の庭園です。
 昔の姿をそのまま留めていると云われています。」(←案内看板より)
目の良い方は、樹間に工事トラックが停車してるのを見付ける事が出来るでしょう。(汗)
 
↑庭の樹木の隙間から覗く高層ビル…周辺は近代的な街並みに変わっており、上から見下ろすと、ここだけに広大な緑地が残されてるのが、良く解ります。
 
↑「白雲台跡…昼なお暗い木曽の山道を過ぎて渓流を渡りここに登ると、僅かに白雲が行き交うのが見えたという高台。
 遠くは妙義・榛名の山々、近くは赤城・築土の(神)社を望む事が出来た。」(←案内看板より)
…昔は周辺に高い建物なんて無かったから…現在はビルが立ちはだかり、足元には土嚢が積み重なってました。(工事中だったから)

↑「延段」より見下ろした池。
 
↑「蓬莱島…島は亀の形をしており、先端の大きな鏡石は庭師の徳大寺佐兵衛に因んで、『徳大寺石』と名付けられ、弁財天を祀った祠が在る。」(←案内看板より)
工事中という事で、蓬莱島に建つ弁財天を祀った祠には寄れず…嗚呼、心残り。↓
 
↑庭園の後ろに屋根だけ見せてる東京ドーム。

↓「大泉水…この庭園の中心的景観。
 蓬莱島と徳大寺石を配し、琵琶湖を表現した景色を造り出したもので、昔はこの池で舟遊びをしたとの記録が残っています。」(←案内看板より)
 

 

 

 

 
↑琵琶湖を表現して造られた池なのか…この池の周りを取り囲む様に桜が植えられてて、園内では最も艶やかな眺めでした。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、「一つ松」…近江の琵琶湖を模した大泉水に対し、琵琶湖の唐崎の一つ松に因んでいるとの事。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、「丸屋」…昔の田舎の侘びた茶屋の佇まいを再現した建物で、戦災で焼失したオリジナルを昭和に入って復元したとか。

↓「小廬山…一面オカメザサで覆われた円い築山。
 その姿形が、中国の景勝地『廬山』に似ている事から、江戸の儒学者、林羅山が名付けたもので、山頂より庭園を見下ろせます。」(←案内看板より)
 

 
↑案内看板の説明通り、園内で最も見晴らしの良い場所でした。

 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、「渡月橋」。
「大堰川に架かる低い土橋で、京都嵐山の『渡月橋』の名を取った」との事。(←案内看板より)
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、「西湖の堤」。
「この石堤は中国の名勝地『西湖』を模して造られたもので、本園以後の大名庭園の『西湖の堤』の先駆けとなった。」(←案内看板より)
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、「屏風岩」。
屏風の様に真っ直ぐに屹立している事から、そう呼ばれているそう。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、「清水観音堂跡」。
「京都清水寺を写した観音堂が在ったが、大正十二年の関東大震災で焼失した。」(←案内看板より)
——清水寺まで再現したのか!!それは実際に観てみたかった!!

 

 
↑「大堰川…京都の嵐山の下を流れる大堰川に因んだもので――中略—―神田上水の水を暗渠により引き入れ、江戸時代には清き流れで、園景を引き立てていた。」(←案内看板より)
…これは何となくイメージが湧く、かなり雰囲気醸してる様に思う。

↑「通天橋…京都、東山東福寺の『通天橋』に倣い、大堰川の渓流に朱塗りの虹橋を架けた。」(←案内看板より)
橋下に工事してる人が写ってます。(汗)
秋になると周辺の楓が紅葉して、美しい眺めだそうです。

↓「涵徳(かんとく)亭…本園創築時代に造られた茅葺の茶室で、硝子紙をもって障子とした為、『硝子ノ(びーどろ)茶屋』と呼ばれていたのを、享保年間に林信篤が『涵徳亭』と名付けた。
 現在の建物は四代目で、昭和61年に再建した。」(←案内看板より)
 


↑この時代に玻璃(ハリガラス)障子紙を用いるとは、流石ハイカラで知られる黄門様!
 
↑邸の中はお休み処「涵徳亭(びいどろ茶寮)」なるカフェとして営業してます。
訪れた頃は新型コロナで騒いでいた為、寄らずに庭園を出て、隣の売店で買った餅菓子を頂きました。
 

 
↑売店「葵屋」で買った「花見団子」と「しあわせ満開餅(桜餅)」。
他に水戸黄門グッズとか売ってました。(笑)
 
↑カロリー摂取し元気を取り戻した所で、神田川下りを再開。
小石川橋を目指し、再び首都高速5号池袋線下の歩道を進みます。
高速道下を歩いてる間、隣を走る中央線が、硝子ビル越しに観えました。
上流から数えて137番目に架かる万世橋までは、中央・総武線が旅の道連れです。

コメント
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