科研費基盤Cの研究課題「学校の多文化化で求められる教員の日本語教育の資質・能力とその育成に関する研究」で進められている研究の公開活動として、京都教育大学でフォーラムが開催されました。
今回の京都出張の目玉です。
東京学芸大学、宮城教育大学、横浜国立大学、信州大学、京都教育大学、愛知教育大学の研究者が集まって研究を進めています。愛知教育大学では、私の前任であった岡田先生がメンバーのお一人で、私も研究会などに参加しています。
今回は、東京の区立中学校で日本語学級を担当なさっている先生、愛知県豊橋市の小学校の校長先生、京都教育大学の浜田先生が報告をなさり、奈良教育大学の田淵先生がコメントをくださいました。参加者のディスカッションも、熱の入ったものでした。
各地域で外国人児童がどのような形で学校現場に入ってきているのかは、少しずつ状況が異なっています。学校現場の対応、自治体の対応も、それぞれ異なっており、話を伺って、さまざまな試行錯誤が続けられていることが分かりました。
自治体の制度変更が現場にどのような影響を与えているのか、そんなことにも話が及び、子ども達のためにいい方向に進んでいるのだろうかと考えさせられることも多かった一日でした。
前にも書きましたが、私は現場の先生方は勿論、大学の教員、さまざまな役場の方々が「子ども達のため」という言葉をお使いになると、少し胸が痛くなります。
戦前、朝鮮半島で日本語教育に関わった方、教師ではなくても、子ども達に関わっていた方などの話をお聞きすると、「子ども達のためだと思って」というフレーズがよく出てくるからです。その「子ども達のためだと思って」行った行動が、子ども達の母語や母文化を奪ったと指摘されているのを知っているだけに気になります。
今の日本で生きていくためには、日本語教育や、日本文化、日本の習慣を日本人以上に身につけなければ、というご意見は、今、食を探している日系人の方々が共通して痛感していらっしゃることと重なります。でも、戦前の朝鮮半島でも、日本語ができなければ仕事がない、或いは、いい仕事がない、社会的に不利益をこうむるという状況は大して変わらなかったのではないかと思うのです。
もちろん、背景が大きく違うということは分かります。
「子ども達のために」をどう捉えるかは、実は、一人一人違うことであって、ひとまとめにして考えることではないのかもしれません。
でも、それだけに、多くの現場の方からこの言葉を聞くと、やはり、気になるのです。
日本語教育がどう関わっていくのか、子ども達の母語保持をどう行っていくのか、課題は山積みです。悲観的なことを書くと、決定的な解決策は出てこないのではないかと感じているのです。最大多数の最大幸福という言葉もありますが、そこに含まれない人々をどうするのか、そんなことも考えます。
昨日の田渕先生のコメントで、「日本人の子どもも、外国人の子どもも、平等に扱うということは、外国人の子どもに非常に不利になっている」というお話がありました。これは、私が博士論文で書いた結論の中心部分です。平等に、の基準がどこに置かれているのか、そこまで考えている人はどのくらいいるのでしょう。
外国人の子どもを助けてあげましょう、とおっしゃる方も多いのですが、外国人の子どもは常に助けられる立場で負担はないのでしょうか。
変な話ですが、「理想」と考えられていることが本当に目標なのか、そんなことも気になりました。
予断ですが、件の田渕先生、広島女子大学で助手として働いていたとき、仕事を教えてくださった田渕先生のご主人でした。世界は狭いものです。
今回の京都出張の目玉です。
東京学芸大学、宮城教育大学、横浜国立大学、信州大学、京都教育大学、愛知教育大学の研究者が集まって研究を進めています。愛知教育大学では、私の前任であった岡田先生がメンバーのお一人で、私も研究会などに参加しています。
今回は、東京の区立中学校で日本語学級を担当なさっている先生、愛知県豊橋市の小学校の校長先生、京都教育大学の浜田先生が報告をなさり、奈良教育大学の田淵先生がコメントをくださいました。参加者のディスカッションも、熱の入ったものでした。
各地域で外国人児童がどのような形で学校現場に入ってきているのかは、少しずつ状況が異なっています。学校現場の対応、自治体の対応も、それぞれ異なっており、話を伺って、さまざまな試行錯誤が続けられていることが分かりました。
自治体の制度変更が現場にどのような影響を与えているのか、そんなことにも話が及び、子ども達のためにいい方向に進んでいるのだろうかと考えさせられることも多かった一日でした。
前にも書きましたが、私は現場の先生方は勿論、大学の教員、さまざまな役場の方々が「子ども達のため」という言葉をお使いになると、少し胸が痛くなります。
戦前、朝鮮半島で日本語教育に関わった方、教師ではなくても、子ども達に関わっていた方などの話をお聞きすると、「子ども達のためだと思って」というフレーズがよく出てくるからです。その「子ども達のためだと思って」行った行動が、子ども達の母語や母文化を奪ったと指摘されているのを知っているだけに気になります。
今の日本で生きていくためには、日本語教育や、日本文化、日本の習慣を日本人以上に身につけなければ、というご意見は、今、食を探している日系人の方々が共通して痛感していらっしゃることと重なります。でも、戦前の朝鮮半島でも、日本語ができなければ仕事がない、或いは、いい仕事がない、社会的に不利益をこうむるという状況は大して変わらなかったのではないかと思うのです。
もちろん、背景が大きく違うということは分かります。
「子ども達のために」をどう捉えるかは、実は、一人一人違うことであって、ひとまとめにして考えることではないのかもしれません。
でも、それだけに、多くの現場の方からこの言葉を聞くと、やはり、気になるのです。
日本語教育がどう関わっていくのか、子ども達の母語保持をどう行っていくのか、課題は山積みです。悲観的なことを書くと、決定的な解決策は出てこないのではないかと感じているのです。最大多数の最大幸福という言葉もありますが、そこに含まれない人々をどうするのか、そんなことも考えます。
昨日の田渕先生のコメントで、「日本人の子どもも、外国人の子どもも、平等に扱うということは、外国人の子どもに非常に不利になっている」というお話がありました。これは、私が博士論文で書いた結論の中心部分です。平等に、の基準がどこに置かれているのか、そこまで考えている人はどのくらいいるのでしょう。
外国人の子どもを助けてあげましょう、とおっしゃる方も多いのですが、外国人の子どもは常に助けられる立場で負担はないのでしょうか。
変な話ですが、「理想」と考えられていることが本当に目標なのか、そんなことも気になりました。
予断ですが、件の田渕先生、広島女子大学で助手として働いていたとき、仕事を教えてくださった田渕先生のご主人でした。世界は狭いものです。