小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

『エチカ』ふたたび

2018年12月08日 | エッセイ・コラム

 

酔いしれることを求める人は、忘却という以外の希望をあきらめてしまっている。そういう人の場合、真っ先になすべきことは、幸福は望ましいものだ、ということを納得することである。不幸な人たちは、不眠症の人たちと同様に、いつもそのことを自慢している。   (B.ラッセル『幸福論』より)

前回の記事は、10点満点でいうと、1点である。そんな程度の低い恥かしき記事を載せ、削除しないのは、不本意ではあるがそれなりの理由がある。しかるべき理由は書かないが、自分では得心できる心情的理由がある。子供や孫がいない、そのことが不幸であるはずはない。子孫がいることで、不幸な目に合う人もいる。

幸福であることは、多様な心理的要因がもたらすものであり、不幸なこともまたおなじだ。ただ、人間というものは、たった一つの不満、憤怒があるとすると、そのことだけを考え過ぎる傾向がある。それを忘却するために酒を呑むとか、憂さ晴らしをしたりする。

(「幸福」とは、経済的な繁栄をセットにして考える、それが世間では当たり前であるし、ある種の論理的帰結だ。小生は、内的な精神性の「幸福」を一義として考える人間なので、理性的・論理的に「幸福」を考える方は、小生の記事は読むに堪えないものだと推察される。「人生」を考えるうえでの基本OS『オペレーティングシステム』が異なるのだからしょうがない。そのOSはいくつかあり、知っておいて不便はない)

バートランド・ラッセルというイギリスの分析哲学者は、関心を内に向けるのでなく外界に振り向け、あらゆることに好奇心を抱けと言っている。酒を呑んでいる場合ではない、そんなものは不平・不満の一時的な停止に過ぎない。泥酔なぞしようものなら、それは一時的な自殺行為だという(「飲みニケーション」について、ラッセルの見解はなかったかな?)

家族や仕事を念頭にいれて幸福の要因を見出すのは、これまでの人間の常道であり、そこに「価値観」とか「信条」などその人なりの幸福度をはかることができる。ラッセルは、それは結構なことだが、「利己的」なものであってはならない、と言っている。

自分以外の外部の人間の幸福を考え、その成就を願い、達成に向けて努力せよと・・。あたりまえのようで、とても難しいことだ。人間はつねに「我」を中心に設定し、そこから他者との関係性を考えるからだ。

 

ラッセルの『哲学入門』は、小生が高校の頃に読んで、ぐんぐん頭に入ってきた飛び切りの本。論理的に考え、書くとは、こういうことなんだと感動した。では、何が語られ何をすべき、という肝心なことは2,3年してすっぽり抜け落ちてしまった。基本的に自分は地頭が弱く、記憶力が劣っているのだと自己分析した。結果、小生のいま、成れの果てがある。自嘲的にはなってはいない、自省的なのだ。

最近、NHK・Eテレの「100分de名著」でスピノザの『エチカ』がはじまった。以前、挫折した哲学書なので、初心者にもやさしく読みとき、解説するこの番組に期待している。小生は、ラッセルの淵源を、彼の宗教観から、スピノザに求めているのだが、そんなことを言う人はいない(『エチカ』を読むことを断念した者がなにをかいわんやであるが・・)。

「100分de名著」では、世界の名著というべき古典をとりあげ、専門の先生による講義だけでなく、俳優による朗読やアニメーションなども取り入れ、難解な古典も分かりやすく噛み砕くように学べることができる。観ながらにして、脳内が整理されるというか、頭がすっきりして気持ちがいい。放送前に『エチカ』をとりあげることが分かったので、テキストも買ってわくわくしていたのである。

 

テキストの著者は、國分功一郎という若い哲学者兼学者で、第1回の放送を見たかぎりではとても良かった。スピノザの読み方は、前述した「OS」をマスターすることで難しいものではない、と解説していた。また、自然(宇宙)のすべてが「神」であり、すべての生きとし生けるものが「神」に包摂されていること、つまり「八百万の神」に通ずる「汎神論」者であり、スピノザは当時「無神論」者として社会から孤立していた、そんなことにもふれていた。

なによりも『エチカ』の語源がギリシャ語の「エートス」(M.ウェーバー)であり、それがどのように「倫理」として変容されたのか・・。國分功一郎という人は、5部構成されている『エチカ』の第4部「人間の隷属あるいは感情のちからについて」から読み解くのがベストだとして、テキストを書いたという。愉しみがまた一つ生まれた。

 

前回の記事を書いた日にルーベンス展に行った。その感動や考えたことを反芻していたら、最終的に「幸福論」を思いえがき、ラッセルの本をひもといてみた。同時に、スピノザ、アレクサンドル・ジョリアン(『人間という仕事』はまだ読書中)などから、日本の今を考えていて思考停止になった。これほどに、迂遠な方法で思索している自己を晒すのはみっともないのだが、それが性分なのでご海容ねがいたい。「100分de名著」のスピノザは、その突破口になると判断したが・・。これもまた老人の世迷言なのか?

 

 

 

 ▲秋こそ「考える人」に似つかわしい季節なのか・・


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