小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

竹下節子氏との若干の応答 ①

2017年08月31日 | エッセイ・コラム

 

本当に弱い人は常に淘汰されてきた。今ここに生きている私たちは、歴史のどこかで強者に与して弱者を踏みにじって生きのびてきた人たちの子孫なのだろう。その意味で私たちはみな差別者、強者、または強者への追従者を先祖に持つ。その先祖の銅像を拝むことも辱めることもしたくないが、そうして命を受け継いできた者として、みなが、自分の代で少しでも他者を排除しない共生の道へと舵を切る努力をすることが「先祖」の供養ともなるのではないか。 ( 竹下節子氏ブログより L'art de croire 


上に掲げた言葉は、アメリカ・ヴァージニア州のリー将軍像撤去に伴なう、白人至上主義者が起こした騒乱・殺人事件について、畏敬する竹下節子さんが去る8月20日にご自身のブログに投稿した記事、その最後の部分から引用させていただいた。 →http://spinou.exblog.jp/26912881/

もちろん、全文を読んでいただかないと、引用した文のもつ深遠な意味合いは伝わらない。しかし、人間というものは、つねにゲームのように弱者を生みだし、そのために差別や迫害をも厭わない。そうした人間は強者、勝者のフリをして生き延びていく。かくも人間は浅ましく卑小な存在であるのか。いや、それでもまだ、未来に希望を託すことができるのだ、という人間の豊かな精神力、魂を信じようではないか! 竹下さんのメッセージにそんなインパクトを感じた。私は感想というか、南部の白人たちへの憤りを含めて、勘違いかもしれないが、以下のコメントをおくった。

「アメリカ南部の話だけなどでは、ない」のですが、あのエリアはどうも特有な何かがある印象をもちます。アメリカに行ったこともないし、詳しい知識もありません。予断を避けなければなりませんが、いわゆるアメリカの南部そしてラストベルトといわれる中西部に住む白人の人たちは、主としてキリスト教のプロテスタント系、或いは原理主義の信者が多いですよね。そうした彼らの心性には、偶像崇拝は所与のものとしてある。そのことと、自分たちの祖先の英雄、偉人の銅像を建てることに、なんらかの影響なり、関係はないでしょうか?自分たちの存立基盤とか、宗教的な属性を銅像に仮託してはいないだろうか? 

南北戦争の敗戦後、そして60年代の公民権運動の実質的な敗北のとき、先人の銅像は「雨後の筍」のように建てられました。アメリカにおけるプロテスタント系キリスト教の束縛は相当なもので、白人至上主義はそうしたものから生まれてきたのではないか、と私は考えているのですが。的はずれ、考えすぎだったら、それはそれでいい。竹下さんのお考えをお聞かせください。

アメリカ南部に白人たちが入植した歴史には、先住民虐殺と奴隷制度という迫害と血塗られた罪深い歴史も含まれる。北部に入植した敬虔なピューリタンとは似て非なる白人たち。キリスト教信者だったかもしれないが、一攫千金を夢見るがゆえに先住民の土地をはく奪し、西アフリカから買われて来た奴隷たちを酷使した、悪の経営者といえる。南北戦争は、奴隷を解放するか否かをめぐっての戦争でもあった。南部は敗北を喫した後にも、黒人たちを奴隷のように働かせていたし、南部各州では、白人至上主義は見直されるどころか、健在であり今日に至っている。KKK(クー・クラックス・クラウン)は南部の風土から生まれた象徴的かつ特殊な、黒人を標的にした殺人結社をかつて標ぼうしていた。

現在、アメリカ中西部の主要産業は衰退したが、だからと言って彼らのうっ憤晴らしには一片の道理さえない。また、彼らの言動のスタンダードなるものは、アメリカの暗い片隅でしか通用しないトランプを大統領に押し上げたのも彼ら南部の白人たちである。私はなにも恨み辛みはないが、彼ら白人至上主義者を許さないし、彼らの考え方をナチスの優生思想に近いイデオロギーとして判断し、告発したい気持ちもあるのだ。KKKを完全否定しないトランプが、なぜもっと糾弾されないのだろうか。大統領が個人的見解をツイートする、それを求め支持するのは、アメリカ南部の白人至上主義者である。

 
(二人の黒人が一緒に絞首で虐殺されている写真を掲載したが、お子さんが見たときを考えて掲出を自粛した。誰からも忠告されたわけでもない)
 
▲南部黒人へのKKKのリンチ。ビリー・ホリディの「奇妙な果実」は、現実なのだ。

竹下さんは比較文化史のみならずキリスト教史の碩学でもある。フランス在住であっても、世界の情勢を宗教文化史学的に読み解く方でもあり、瞠目すべき著書を何冊も書かれている。「スピノザという猫について」から、思いがけなく何度かコメントを交わすようになったが、こうしたコアな歴史認識に関してどう思われているか、意見をうかがったのだが・・。私のキリスト教の理解は素人レベルであるから不安であったが、竹下さんから以下のコメントをいただいた。

 

まったくおっしゃるとおりです。この件は、10月に中公新書ラクレから出る予定の『キリスト教は「宗教」ではない』や、今執筆中の単行本で「神・金・革命」の偶像化の歴史を書いているものと大いに関係があるので書きだすときりがないので、ブログでは一般論に留めておきました。

前回お話した、『フリーメイスン』のジャズの歴史にもあるのですが、ともかくアメリカのプロテスタント教会というのは、黒人教会と白人教会とに分かれていた(今は建前上分かれていませんが実質的に分かれている)時点で、全然「普遍教会」でもなく、「自由・平等・博愛」の場所でもないんですね。こう言い切ってしまうといろいろ語弊があるからこそ書いていないんですが、アメリカの中西部とか南部とかの、「普通の白人」の「宗教」は「共同体宗教」であって、氏神様を祀る町内会みたいなエスプリです。地元の英雄だとか地元の「伝統」を維持したり復活させたりするために役立つ人物はみな崇敬されるべき「聖人」なんですよね。

アッシジのフランチェスコの平和の祈りとか太陽の賛歌と、ヴィクトル・ユゴーの革命賛歌はそっくりなんですが、ユゴーは「あらゆる宗教を廃止せよ」と言っています。社会の中で「宗教」組織という形をとる時点で、「宗教」は人間のあらゆる活動と同じく「お仲間ファースト」になるからでしょう。その意味で、アッシジのフランチェスコのキリスト教は、「宗教」ではなかった、と言えます。ナザレのイエスが「キリスト教信者」でなかったのと同じですね。いつか詳しく書いていくつもりです。


私は多少舞い上がっていたかもしれない。以下のコメントをおくった。


アメリカ社会の現況を見るにつけ、トランプ大統領の誕生と、白人至上主義の表面化は間違いなく呼応しています。それは宗教的な行き詰まりというより、根本的には産業経済のそれに端を発したものでしょう。宗教と経済基盤は深く通底していて、いわばアメリカの骨格を形成している。もしそれが崩壊する軋みを見せたら、「帝国」の力を見せるのではないか、と私は畏れています。彼らのかつての主流秩序には、「自由、平等、博愛」のコードはありました。特権階級や富裕層は、そのコードを揺るぎないものとして、世界に誇示し見せていた。いま、その片鱗さえなく感じさせない。どうしたのだろう、アメリカは。この掲示板の応答を、私のブログに部分的に引用してよろしいでしょうか?(全部なら、なおのこと希望)ご氏名なども併せて紹介したいのですが、問題ありませんか?


暫くして、竹下さんから以下のコメントをいただいた。

アメリカは独立戦争においては、フランスのフリーメイスン(自由・平等・博愛はフリーメイスンの標語でした)の協力を得て、普遍主義を表明していたのですが、19世紀半ばのアンチ・フリーメイスン運動を境にしてヨーロッパ起源から分かれることになりました。

人種差別や先住民問題とマッチしなかったからですね。

フランス革命型の政教分離の啓蒙思想は、不道徳で不信心、カトリックか無神論だとして退けられ、同じ階級の成人男性が集まるアングロサクソンのクラブ文化に回帰していったのです。善きアメリカ市民共同体の利益ファースト、ですね。その辺は『フリーメイスン』第二章に書いてあります。この掲示板は一応パブリックですから、文脈の趣旨をリスペクトしてくださる分にはやり取りを転載するのは問題ありません

 
少々長くなった、また改めて続きを書くことにする。竹下節子さんの著書「フリーメイソン」をはじめ「キリスト教の謎」「陰謀論にダマされるな!」を求め、いま少しずつであるが読んでいる。年老いた頭では知の情報が過多になり、少々パンク寸前の状態となっている。整理したり、別の軽い身辺雑記を書きながら、竹下さんとの応答を掘り下げてみたい。こういうやりとりをできるのも僥倖であり、ほんとに天国にいるスピノザからの賜物としか思えないのだ。

▲いま天国にいるスピノザ。  小寄道:「スピノザという猫について」→ http://blog.goo.ne.jp/koyorin55/e/39e2d0bf4afdf22fd631fc40a4d0f58e
 
 
今回は、竹下さんとジャズやコルトレーンとの話題にも及んだので、呉に行った時に撮った銅像を載せることにした。駅から20分歩いたところに入船山公園や美術館があり、その途中の美術館通りにあったオブジェである。
 
 
 
 

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