小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

手話とジェスチャー

2017年09月06日 | 日記

 

手話を学ぶようになって、5か月目になった。なんとか落伍せずに付いていっている。週に1回、2時間のレッスンだが、生活のなかの習慣としてリズムになった気がする。

三歩進んで二歩後退だが、手話の楽しさも分かりはじめ、自然と身につきはじめた。今は、簡単な自己紹介ができ、同様に学び始めた仲間たちの手話も読み取ることができる。次の段階では、一日の出来事を普通に話せるように、手話のロングバージョンに向かっているところだ。

この2週にわたって、楽しい授業になるように講師がジェスチャー・ゲームを取り入れた。伝言ゲームのようなもので、5,6人のグループをつくる。皆が見ている前で課題となった言葉を、うまく伝わるか競うのであるが・・。ルールは一つある。手話を使ってはいけないこと。

先週は、「ブルゾンちえみ」の課題も出た。そのグループのみんなが見事に演じて、大うけとなり盛り上がった。24時間テレビでマラソンを走ったらしいが、ブルゾンの気取った歩き方をするだけで、誰もがピンときたわけだ。

私のグループでは、トップが私になった。最初に課題を読みとき、基本のしぐさを考え出さなければならない。責任重大である。的確なジェスチャーで伝える、その制限時間は1分だ。

お題は「甲子園野球」。どう表現したらいいか思い浮かばず、頭が真っ白になってしまった。とにかく一所懸命に野球をやるしぐさを繰り返すのみの、だらしない結果となって1分経過。次の番が同年齢の男性で、わたしのそれをバッターと投手の両刀使い、大谷選手と思い込んだらしい。私がやったジェスチャーは、女性たちにはまったく伝わらない。

3番目の方がまったく理解できずに立ち往生となり、見かねた講師が思わず助け船を出してくれた。しゃがんで砂を集める仕草を教えたのである。途方にくれていた方は、砂を集める仕草を加えたら、ものの見事に伝わった。最後に課題を読み取る方は、ホワイトボードに答えを書いた、「甲子園野球」と。講師には、温かい拍手があつまった。

帰ってからわたしは自分の想像力のなさを嘆くとともに、手話の凄さを痛感するに至った。

なぜ、与えられた課題を冷静に判断して、それを正確に伝えるべきジェスチャーの組み立てができなかったのか。まず、野球らしき仕草をし、大袈裟に泣く男たちを演じ、そして地面にしゃがんで砂を集める。その3パターンのジェスチャーをすれば、たぶん「甲子園野球」だと理解できたはずであった。自分の不甲斐なさを悔やむのみ。

それにしても、手話は言語であり、便利な道具であることを思い知らされる。意味や文脈はもちろん、話し手の感情表現さえも込められる。手話がもっと認知され、聴覚障害者の世界が広がるといい。

手話は意外にも歴史が浅く、お年寄りのろう者のなかでできない人もいるらしい。また、万国共通ではないし、国内によっては地方でも手話の形態が多少異なるらしい。

しっかり確立しているとは言い難いなか、この間のデフリンピックが弾みとなって、ろうあ者への差別がなくなればいいと思う。見た目では判断できないだけに、道路では必要以上に車のクラクションがなる場合がある。そんなときは、音に気づかない聴覚障害の方が歩いていたりする。

日常的な場面でも、私たちは言葉だけでコミュニケーションしがちだ。顔の表情、体の仕草などを取り入れると、豊かな会話になりはしないか。身体的表現と言語を組み合わせることで、会話は生き生きとしたものになる。日本人は大袈裟に表現することは恥ずかしいとして、それがかえって誤解を生むことになりやすい。誰であるかと言いたくないが、それは私も含めての話である。

長生きなんかしたくないが、指と頭を使うのは老化防止にてきめん、とのことらしい。近々、ろう者のゲストを招いて、実際の対話にチャレンジするプログラムが組まれている。伝えることはできると思うが、読み取れるかが心配である。


追記:今週のジェスチャーのお題は「車椅子バスケット」だった。私は最後から2番目でなんとか真似するだけで、理解していなかった。分からないジェスチャーでも、それを想像して導きだすような頭の回転が求められる。前向きに、がんばろう!


▲妻の発案でトイレに貼った「指文字」。実際の手話では、実は出番が少ない。だが、基本中の基本。







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