広島の原爆ドームや平和記念資料館などに行く願いは叶った。そこへ行くことは、日本人としての義務でもなんでもない。すべてではないが、戦争のあらゆること、被爆の怖ろしさなどは、現地に行かなくても知り、理解はできる。
ただ、広島を訪れたことがない、それが永年のしこりのように燻っていたのである。そんな思いを一挙に払拭してくれたのが、原作漫画『この世界の片隅に』であった。
▲原作の最後から2頁前にある見開きのカラー頁。孤児を背負って呉に帰ってきたすずさん夫婦。これを見て、わが広島行きが決定となった。転写するにあたり、双葉社の編集部に問い合わせをし、了承を得た。こうの史代先生も悦ばれるはずだと言っていただく。
私の精神の片隅にも、戦争のイメージはある。父は海軍少尉でゼロ戦に乗っていたが、なぜ生き残ったのか知らない。(※)
祖母、母や叔母からも空襲の実体験を聞かされていたし、伯父や叔母からは満洲での凄惨な体験を聞かされている。彼らからすれば、ほんの一部分であり「それ以上のことは子供のお前が知ることではない」と、話は突然に終わった・・。
この私にしても戦後の生れであるが、日本軍・兵器の優秀性はインプットされていた。少年雑誌をみればゼロ戦や戦艦大和の記事は必ず特集されていたし、兵器や兵隊をヒーローのように扱う映画や漫画も多かった。
日本軍の負である加害者としての面、戦地における民間人への虐殺などは、大人の領域として子どもたちには隠されていたのだ・・。学校では反対に、被害者としての広島・長崎の原爆体験や無差別空襲が強調され、それゆえの平和教育が熱心に実践されたような気がする。
私の子供時代は、今となれば不思議な時代だ。決定的な「敗戦」にもかかわらず「終戦」という言葉が使われた(今も同じだが)。巷には戦争を忌避するムードはあまりなく、犯罪性を問う意識も薄かった。作戦を指揮し自分の兵隊を無残な死に追いやった、生き残りの元将校たちは軍人としての悔いを見せても、人間としての責任を自覚し反省する弁はほとんどなかった。
彼らの威厳、何ごとも臆することのない言動に、ドキュメンタリー制作者、メディア取材者たちも一目を置かざるを得なかったのかもしれない。
「ゆきゆきて、神軍」の頃からか、いや戦争責任をもっとも問われるべき方が崩御されたからか、やっと戦争の真の実態が見えてくるようになった。そうだ、平成の世になってからだ。
ともあれ、戦艦大和の雄姿はわが幼少期の憧れの最たるもので、4,5歳頃に買ってもらった海軍軍艦の写真集は小学校の低学年までは必携アイテムであった。
原爆を落とされた広島市と、海軍軍港のある呉をあつかった『この世界の片隅に』は、戦争をもう一度考えるきっかけをくれたし、映画だけでなく原作の漫画もまた、今までにない「感動」をもたらしてくれた。
それがどういうものか、書きだすと長くなるので止めるが、とにかく永年のもやもやを解消するべく、わが広島行きを決意させてくれたのである。
▲大和ミュージアム隣のフェリー乗り場にある展望台から見る呉の山並み。原作にある山の名前を確認できなかったのが、ちょっと残念。
▲呉駅前から徒歩で30分。山間部の住宅をめざして、すずさんの嫁ぎ先を勝手にイメージ。
広島から呉には普通列車で約1時間。ちょっとした距離であり、広島から嫁いできたすずさんにとって、漫画にあった通り、生活習慣の多少の違いがあったかもしれない。広島が洗練された都会であったとすれば、軍港はあるけれど、呉は、海が広がり背後には山々の峰がつながる自然豊かな地だ。
そうした意味でも、呉の港や山々をひと目見ることは、わたしの老いた心の片隅に、ごく自然に芽生えた新たな感情であった。
広島についた頃から、日本中のそれまでの天気がうって変わった晴天というか、猛烈な暑さとなった。ギンギンギラギラの夏の呉であったが、少年のときの煌めくような印象をもたらしてくれた。