小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

野分来て孕む幼時の哀しみや

2019年09月09日 | 日記

あまり使わない机の抽斗にある箱、そのまた奥に閉まっておいたエピソードをひとつ。個人的な領域の話だが、大仰なことでもないのでご安心されたい

告白は恥ずかしいものとは思わない。まして罪深いことでもない。敢えてここに書くのは、箸にも棒にもかからない老人の、永年、心の喉に引っ掛かった小骨を抜きたくなっただけの、取るに足らない話である。

両親の離婚は、小学校2年生のときに突然知らされたのだが、それ以前の春か夏休みのころの話。

あまり家にいることのない父親が、私の前に現れてこんな提案をしてきた。

「空港に行って、飛行機を見にいくか。それとも、山に行って川遊びをしたり、虫を捕まえたりしようか。おまえだったら、どっちを選ぶか。きょうは、おまえのしたいようにさせてあげる」と、いつもにまして笑顔だが、なんか話し方がまじめな雰囲気があって、少々驚くというか戸惑った記憶がある。

どちらも、なんでもない日にお年玉を貰えるような嬉しい話だ。で、なかなか決められないでいると、父親は美しい自然がいっぱいの山行きを推している感じがした。そういえば、家族で出かける所は、遊園地やデパートのようなところばかり。だから、美しい自然あふれる山をすすめたのか・・。

そのとき、父親のいうことは信じちゃいけない、母親のきついことばが思い浮かんできた。山行きに未練はあったが、まだ行ったことのない羽田空港を要望した。がっかりした父親の顔を垣間見たが、気を取り直したのか、おまえの希望がいちばんだからと、二人で京急電鉄に乗ったあの日がよみがえる。あのとき、なぜ母親と弟がいなかったのが、どうしても思い起こせない。

昭和の30年代はじめといえば外国旅行はまだ壁は高かった。羽田空港といえども、飛行機離着陸はそれほど多くなかった。2時間ほど屋上の展望台にいても、エンジン音はつねに聴こえていたものの、飛行機が滑空するシーンは数少なかったと思う。アメリカ製のプロペラ機はジェラルミンであることや翼の後ろで動く羽の役割、そんな解説は印象に残っている。

しかし、幼少ゆえに早く飽きがきて、その日は夕暮れが来るまえに帰宅したのではなかったか・・。その日のことはそれだけである。この父との想い出は、二人で行った空港での印象が強く残っている。二人だけで過ごした最後の日だったと想う。それから2年ほどして、父は死んだ。

父は生前、自分を特攻隊くずれだと言っていた。後年、海軍主計少尉であるが、出撃の決まった特攻隊員ではなく、まあ補欠のような特攻傭員ではあったことを確かめた。実際に、零戦に乗って飛行訓練をしたのかも分からない。戦地に赴いた話、生死を分けるような戦いの体験を聞いた覚えはない。

だからと云っては何だが、背筋にいっぽん強力な鋼が貫いている、軍人としての厳しさはまるでない人だった。とにかく静かに微笑んでいる、とても優しい父であった。

それから、自分が父親の年齢になったぐらいのとき、あの日のことを想いだして、父親は心のうちで何を思い、空港か山に連れて行きたかったのだろうか考えてみたことがある。あのときに、妻子と別れるという覚悟がなされていたとすれば、人生に躓くどころか、生きていく指針や希望もすべて失っていたはずだ。一流企業をドロップアウトした男は、気は優しく家族思いではあったが、一家を支える甲斐性はないと、伴侶からきつい宣告をうけた。これ以上は、想像の域をこえる。

父が最期に、私の要望をうけいれて空港に連れて行ってくれたこと。これは感謝すべきだし、運命的なものを感じてしまう。父はもしかしたら私を連れて、遠い何処かに行きたかったのだろうか・・。いや、これは単なる思い過ごしで、離婚をきめた男のせめてもの願望、息子と二人だけのかけがえのない時間を過ごしたかっただけかもしれない。

以上、書いたことは、自分が抱えていた闇のようなもの。ただし、他人様の同情や憐れみを誘うつもりは一切ない。昨今、自制する気力が落ちてきて、幼少のころの個人的な悲しみさえも書き残したくなった、ということにしておきたい。

幼きころに孕んだ闇に、蝋燭のちいさな火でも灯したくなった心境なのだ。お前さんそれは、齢のせいで箍が外れてきたからだ、という忠告にも甘んじて受け入れたい。残念だが、気が弱くなっている。台風が来て、轟々と風雨が窓を叩くなか、過ぎ去りし哀しき日々を回想した。


▲台風一過、からりと晴れるや、と思いきや35度の炎天に。湿気もあり、爽快とはいえない。


▲今日の夕暮れを追加する。秋はもう来ている。


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