やはり言葉だ。言葉の使い方で、社会はどっちにも回っていく。
経営から導かれた言葉だろうが、統治に根ざした言葉だろうが、その紡ぎだされたストーリーは倫理を、或いは未来を語ったのだろうか。
幻想でもいい「信頼と安心」を、人々は感じたのか。遠ざけられた人々への架け橋となる、確かな論理と裏付けはとどいたのだろうか・・。
アメリカに限ったことではないのだが、その国のトップはまず、言葉の真の使い手であらねばならない。当然のごとく、その場で真偽は問われている。
トランプ氏の語ったことが何に基づくものか知らない。いずれ近い将来に言質をとられ、予定と結果の整合性をきちんと検証されるようになる。
西欧的文脈では、事の次第が悪い方向に進めば、修正や自浄がなされなくとも、統治はいったん切れる筈である。さもなくば、圧政か衝突(戦闘か?)という歴史の轍を踏むかである。
世界はいっぱい、いっぱいだ。
武力と情報、そしてエネルギーと金融を牛耳るアメリカのさじ加減で、世界の限界がいか様にも整えられる。
すべてをトランプのせいにするのは思考停止に等しい。
アメリカ本来の、良識と知性に磨かれた「自由」を堅持していってほしい。
それにしても、0.1%の人々がアメリカの大部の資産を保有している。それを合法とするパラダイムがある限り、すべてが元の木阿弥に帰すが・・。
▲根津の梅も香しい。3月1日 沈丁花もよく匂うこの頃だ。