小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

故飯田淳次氏の、30回忌

2019年03月05日 | 日記

昨日、3月4日は、鶉屋書店の店主、故飯田淳次の命日であることがわかった(平成元年)。誕生日が3月3日で68歳を迎えて、その翌日に永眠されたわけだ。

年齢は小生と同じだが、人生に質量があるとすれば、その比重は10倍ほどもあろう。いや、それ以上に重く、濃密であったはずだ。

飯田淳次という人となりを、個人的に知りたくなった今日この頃。今は作家の森まゆみさんら4名の女性たちで作っていた地域雑誌(季刊)『谷中・根津・千駄木』(通称:谷根千)を、何気なく図書館で読んでいたら、上記のことが明らかになったのだ

その「谷根千」20号(1989年6月30日発行)に、『日本古書通信』(第717号:1989年4月)に掲載された青木正美氏の『鶉屋書店さんへの便り』が転載されていて、感慨をもって読むことができた。

先日読んだ青木氏の自著とは違って、感情を抑制した静かな筆致。在りし日の飯田淳次を淡々と回想し、畏敬をもって彼を偲ぶ文章に、思いがけなくも胸に迫るものを感じた。

その転載記事の傍らに『初音町追伸』という表題の添え書きがあり(たぶん森まゆみさんによる筆)、それによると、前号及び前々号の2回に分けて「我が町を語る」という座談会の記事を掲載し、その司会を飯田淳次が務められたことを知った。

いま、その座談会の記事を読んでいる(「谷根千」18,19号)。それは本来、町内会の広報誌に載せるためのもので、実はそれを作っているのが飯田淳次その人。脳梗塞で倒れたことで、町会誌の発行は中断したままだったのだ。埋もれたままにしてはならないと、皆の意見が一致し、「谷根千」への転載の運びになったようである。

それにしてもである、飯田淳次という人は、地元の町内会の広報までも骨身を削って尽力していたのだ。ますます、彼へのリスペクトは深まるばかりだ。一日、3,4時間ほどしか寝ないとの噂は本当だったと確信したが、還暦の若さで病魔にたおれたのも無理からぬ帰結だったのかもしれない。

1日遅れになるが、飯田淳次という不世出の古書肆家を追悼し、冥福を祈ることにしたい。合掌

 

▲新築後の鶉屋書店。飯田氏がなぜ谷中にこだわっていたのか、その理由が謎のままだ。


▲3月4日の命日は雨降りで寒冷であった。今日はうって変わって晴れわたり、随所で梅や琉球サクラなどが花咲かせていた。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。