小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

記憶は何のためにあるのか

2018年05月16日 | 日記

せいぜい自分に恥をかかせたらいいだろう。恥をかかせたらいいだろう、自分の魂よ。自分を大事にする時などもうないのだ。めいめいの一生は短い。君の人生はもうほとんど終りに近づいているのに、君は自己にたいして尊敬をはらわず、君の幸福を他人の魂のなかにおくようなことをしているのだ。 マルクス・アウレーリウス『自省録』(神谷美恵子訳)より

 

▲遺伝子、種というのは、記憶の基だといえないだろうか。何世代にもわたり生命の情報が記憶され、受け継がれていく。 


「柳瀬参考人は誰とあったかを覚えられないが、アポはなかったことをはっきり覚える。不思議だ」(原文まま)と、いささか旧聞ではあるが、地震科学者のロバート・ゲラー氏は呟いていた。

この「不思議だ」という言葉は、ゲラー氏のいかにも科学者らしい揶揄の言表であり、東大の先生らしく卒業生である柳瀬参考人を戒める苦渋のことばに思える。

東大にかんたんに入る人の最大の特長は、記憶力が格段に優れていることだ。脳の構造が、人並み以上の何かをもっている、たぶん。

いちど覚えたら忘れない。覚えるときに、別に覚えたものと関連づけてインプットする。だから、覚えたもの以上の知識がストックされる。そのときのインデックスというか関連づけの記憶ファイルも増える。こんなことを無自覚的におこなえるなら気持ちいいだろう。

普通の人なら、試験のまえの暗記学習を思い出したらいかが。記号、数字、言葉だけを詰め込むだけの脳作業。ただただ忍耐を強いられた。刻苦勉励とはこのことであったはずだ。

東大にいく記憶力の優れた人なら、暗記なんて屁とも思わなかったのではないか。読む・ながめるだけで、脳髄に刻まれる。思考プロセスがない分、最短で済ませられる。一度、頭のなかに入れたらしばらく忘れない。ことほど左様に東大出の人たちの記憶力は、われわれと段違いである。

佐川前長官にしても、今回の柳瀬参考人も自身の記憶のポテンシャルを隠していた。記憶にない、忘れたので身に覚えないとか、瑣事的なことのように悪びれないで話す。それでいてボロを出さない。安倍首相に不利になることは避け、自分の立場や組織も揺るぎないよう、記憶を合理的に出し入れして答弁に努めた。(そこに高度な忖度があったことを微塵にも顔に顕わさない。その強かさ)

有利になるようなことは、事実例をあげて記憶の確かさを訴える。これらの応答は、仲間・内輪では評価が高かったのではないか。

柳瀬参考人の証言は、虚偽発言の指摘をうけないよう、事実関係の破たんをきたさないよう、適確(?)に受け答えしたということだ。

官僚の全員が東大卒で記憶力が凄いひとばかりではない。しかし、日本のトップ・エリートになる人たちは、やはり記憶の鉄人ともいうべき人がたくさんいそうだ。

そして、事務次官になられるトップ官僚は、組織における立場と自己保身にたえず専心し、記憶力をいかんなく発揮するのであろう。

かつて国や国民のことを考え、将来のビジョンを語ったトップ・エリート。たとえば、高橋是清、後藤新平らのような人たち。情熱とか献身というからだから湧きあがるものを体現していた。彼らの素晴らしい業績をたどれば、私心をこえる使命感が脈打っている。また、彼らの記憶力が桁違いに優れていたという話はない。記憶力で仕事はしてこなかったからだと思う。

 

さて。私の場合、人の顔や声を認識することにかけては他人より自信がある。顔だけでもけっこう類推して判別できる。たとえば、有名人のはじめてみる子供時代の顔は80%以上の確立で特定できる。歴史上の人物であったら、95%の確率で当てられる。記憶力そのものとは違うのだが、その特性を生かせないかと悩む。

ただ、その場で誰かが話したこともすぐ忘れるようになった。妻によく「話したわよ」と指摘される。パソコンでいえば、その場で情報を処理するフラッシュ・メモリーが劣化したか、何か別のことに使われていて余裕がないのか・・。

思うところあって、手話の中級にすすむことを断念した。あることを集中してやりたいことがあるからだが、1年手話をやってみて、「読み取り」がまったく上達しないことに気づいた。同じ内容を何度も見ても、部分的に理解不能な手話があると、頭がまっ白になり全体が飛ぶ。日常のかんたんな会話の場合、こちらから話せるのだが、相手の手話が理解できない。聞くことができないのだ。

指文字にしても自分は覚えて使えるが、相手の指文字がひとつでも読み取れないと、手話としての一連の動作が理解できない。データベースの記憶と、その場でみる情報が瞬間的にリンクしない。つまりフラッシュ・メモリーがうまく動作しないのに等しい。(※注)

集中的にやるべきこと一つに絞る。それをやらないと何事も成就しない。関心領域を多角的にひろげて、それぞれの愉しみ・歓びを見出してきた。が、加齢にともないそんな器用なことは無理だということが骨身に染みたのだ。

まあ、手話講習は1年ブランクがあっても復帰できるらしいので、この一年は一意専心でやっていこうと考えている。

ろう者とのコミュニケーションは、まず伝えられることが先決だ。筆談だったらなんとかやりとりができる。焦っても、見栄をはっても駄目だ。これはエクスキューズではない、本心だ。


▲最近いただいた蕗。以前にも頂戴した記憶があり「山梨のものでしたね」と云ったが、「諏訪ですよ」と・・。忘却というボケが、実生活に支障がでてきている。蕗はさっそく妻が下処理をして、3、4品の料理をつくる。ニンニク、ベーコンを入れオリーブで炒める。スパイスを利かせたイタ飯風の蕗は逸品である。ま、定番は煮びたしか。


(※注)脳科学では、このフラッシュ・メモリーで処理する記憶情報を「短期記憶」という。一方、ハードディスクに保存しておくべき大切な過去情報は「長期記憶」と大別する。いずれも記憶については脳幹に近い部位の「海馬」が関係しているらしいのだが、詳しいことは分かっていない。記憶術というものがあり、「短期記憶」を反復すること、個人的エピソードや物語に紐づけて「長期記憶」にして大脳皮質に保存することが知られる。とはいえ、それが記憶のメカニズムとして確定されていないし、根拠もない。

手話の読み取りが苦手であったのは、たぶん「図形記憶」の認識、処理、保存で、人よりも相当に劣っているからだ。脳科学や認識科学の本をひもとくと、そのへんの脳機能がうまく働いていない。ただ人の「顔」だけの記憶については、相当に自信があるのだが・・。

筆者に発達障害があるとしたら、以上の分野が深く関係している。6~9歳にかけて不幸な出来事があり、一時期、不定期ではあるが頭の中がガンガンと痛くなり、死んでしまうのではと、子どもながらに恐怖を感じたことがあったのである。




 


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2 コメント

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Unknown (スナフキンÀ)
2022-06-05 21:46:41
記事の内容と必ずしも相性が良くないのですが。
まんま「記憶は何の為にあるか?」について知る限りの事を書きます。
意識とは何か?と答えは合致じます。
脳(意識ではなく無意識領域)が決定した事を、事後確認して、
「意識と呼ばれてるもの」が、「自分で行動を決定したというフィクション」を信じ込ませるため!です。
何のことや? 思われるかと存じますが、現在の脳科学と認知心理学が明らかにしているところでは、我々の意識は行動を決定する当事者ではありません。「意思決定」という概念そのものが虚構です。
これは文字盤の外縁を光点が移動してゆくモニターを見ながら、任意の光点の位置で手を動かしてもらう。その時に「動かそうと思った時の光点の位置」と、手につけた筋電図。脳波計の誤差を確かめた実験で明らかになった話です。
結論から言うと、「動かそうという表層意識の決定以前」に手の筋電図は反応していました。つまり、「意識」は「行動の決定者ではない!」という事ですね。脳にある潜在意識領域が、意識の定める以前に答えを決定していて、意識はそれを追確認する役目です。何故かというと、そのように「自分(表層意識)が決めた」と錯誤する事で、
「記憶を脳に刻み込む役目」たからです。
記憶と意識と潜在意識の関係性は以上ですが、では「記憶は何の為に」ですね。それは「自分という虚構」を信じる為に存在してます。
我々の脳はニューロン先端ではケミカル物質をやり取りしてますが、
基本的には電気信号によるON-OFFのパソコンです。
そしてこの電気回路には、1/100の1000乗の電流の寸断があるそうです。それで我々の意識もそうですが、そもそも人格を形成している
脳のネットワークも僅かな時間でも寸断されている。
外界の情報を認識した私と、次の断続の私とは「別人」なのですね。
脳という「同じ車」に乗っている別人と言っても良い。寸断されてますし、
ネットワークは固有の物質ではなく、ソフトウェア、電流の流れ方に過ぎませんから。でも、一瞬前の自分と、一瞬後の自分が「別人」じゃあ、自己同一性を欠いて、人ならぬ下等動物でも生存できません。
その為に、あたかも「私という一貫した人格が存在する」という「虚構」を
脳に信じ込ませる必要があるのですね。その時に自分の脳を騙す為のネタとして「記憶というメモ帳」が存在するのだそうです。
今日は色々と書きすぎました。ペース落とします(笑)では。
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私の脳と身体 (小寄道)
2022-06-06 22:44:02
コメントありがとうございます。
「私という一貫した人格が存在する」という「虚構」を脳に信じ込ませる必要がある・・・。
いやあ、認知のメカニズムについて関心あるのですが、脳科学ではそこまで究明されているんですね。この手の分野は門外漢ですし、なんか苦手意識が先行してしまいます。
まあ、私なんか「一貫した人格」なぞないと自覚しておりますが、福岡伸一氏の「動的平衡」ですか、身体の細胞の分子は数カ月でそれまでの自分のモノとは、すっかり入れ替るというにも通じますね。
こうなると、自己の脳と身体はまったく一貫性というものはない、といえますかね。
自分で決定したこと、自分が行動したことに、それほど責任をもたなくていいんでしょうかWWW。お後がよろしいようで。
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