小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

吉村昭の遺言、作家の矜持

2021年12月18日 | エッセイ・コラム

▲『万年筆の旅 Vol.16』の表紙から。吉村昭記念文学館が発行するパンフレット

 

11月終りの頃、東日暮里にある日暮里図書館に行った。その一角に「吉村昭ギャラリー」があることを偶然に知ったのである。

いや、その前に中野京子さんのブログ「花つむひとの部屋」に、『吉村昭氏の遺言』という記事が掲載された(11月23日)。

中野京子の「花つむひとの部屋」(※)

端正かつ簡潔な記事には、「吉村昭ほどの作家でもこんな心配をするとは。。。」と、短編集『魚影の群れ』の解説にあったエピソードを紹介されていた。

「作家の死後は作品も読まれなくなり、収入は激減するから、家は手放してアパートに移り、つつましく暮らすように」と、「作家として独立した生計も営める夫人(津村節子)に対してやや失礼な言葉ともいえる」ような遺言を伝えたというのである。解説はさらに「吉村さん生来の用心深さだったのか、あるいは病による貧困妄想だったのか。それはともかく、作品が読まれなくなるという予測はみごとに外れた」(栗原正哉氏の解説を孫引)

これをうけて中野さんは「吉村昭ほどの作家でもこんな心配をするとは」と、信じられない心証をもったようだ。歴史小説家としてだけでなく、彼が表現したものは、生と死、戦争と人間の愚かさ、自然がもたらす災厄など、普遍的なテーマに絞られる。徹底的な資料な読込みと綿密な取材をかさね、愚直なまでの表現力で作品を紡いできた。吉村昭の評価は死後にもまったく衰えず、新たな読者を確実に増やしている。

作品の多くが読み継がれている今となってみれば、吉村の遺言は、まったく杞憂に等しいものであり、厳し過ぎる自己への評価なのか。遺言の真意はまた、単に彼の過剰な心配性からきたものだったのか・・。

結核になり、ろっ骨を5本とった自分の体の弱さを、終始嘆いていた吉村。飲酒は嗜んだが、常に酒量をコントロールするほど注意深かった。小心ものと揶揄されようが、健康への注意を怠らない。カキフライは好きで食べるが、当たるのが怖くて生ガキは食べない。用心深さでは、初めて家を普請したとき小さな金庫を買い、中に水の入ったコップを置いた。火事になったとき、焼け残ったあとで金庫の蓋をあけると、パッと燃え上がることのない配慮だ(商家だった吉村家の風習でもあるが・・)。

死んだ後の家族のために、金銭を心配するのは当然としても、作家として自立している津村節子夫人、残された二人の子供が、すぐさま路頭に迷うはずもない。前述した吉村の気掛かり、憂慮はまさに杞憂であり度を越している。中野さんはそう認識されたのだと思う。

いや、私にしても、吉村昭は内心では自分の書くものに絶対の自信を持っていた、と考えている。もちろん、小説を書くために何年も時間をかけた。用意周到な準備を重ね、何度でも取材をくり返し、資料も丹念に読む。さらに探求は続き、自分の納得がいくまで何度も現地におもむき、調べ、関係者を取材した。その取材メモのほとんどが残されている。細かい字でびっしりとノートに書きこまれている。文字だけでなく、図解や絵が描かれ、それにも注釈が加えられる。

とまれ、吉村昭は30代後半、何度も芥川賞の候補になった。いずれも受賞にいたらず、妻が先に芥川賞作家となった。吉村はくさることなく、執筆に励んだ。作家として徐々に認められつつも家業の仕事にも勤しみ「一家の主」(筑摩文庫、絶版?)を自認した。

さらに作家丹羽文雄が主宰していた『文学者』の編集にも携わった。後に編集長としての辣腕をふるったが、そのとき吉村は、小説というものが読む人によって、まったく異なることを痛感したという。受賞とか死後の名誉に関わらず、自らが充足するものを執筆すればいい。そんなことを、吉村は何かに書いてあった。

いま、その証拠というべき文言が手元になく、具体的に示すことができない。また、有名な歴史小説『戦艦武蔵』は、彼にとって初のベストセラー(累計100万部以上)であるが、発売当初は評価は二分していたという。粉骨砕身、全力で書き上げた作品であっても、ひと様の評価は違う、己の思惑とは違う読まれ方をするものだ、と銘記したようだ。

彼の取材にかける時間のかけ方は、編集者でも呆れるくらいに執拗だった。それほどの熱意と根気を注いだ作品が、なぜ自分の死後に読まれなくなると考え、作家として自立している妻に、借家に移ってつましい暮らしをせよと注進したのか・・。

自分の作品は、幾世代にも読むに堪えると強い矜持をもっていた、と吉村は内心思っていた。だが、それは絶対に口外すまい、自ら口にすることではない。吉村昭はそういう作家であり、誇り高い男だった。

小生は、中野さんへの記事のコメントにこう記した。「吉村昭は小説を書き続けて、それを生業として生きていけるとは確信が持てなかったタイプの人です。伴侶の妻が芥川賞作家になった。それだけで生計は成り立たない。家族を養うなんて、物を書く人間には困難極まるものだ、と知悉していました。」(中略)「吉村は、自分の書く小説が、世代をこえて読み継がれるものと、さらさら思っていなかった。」

思い込みたっぷりの小生の意見に対し、中野さんは以下の率直なる感想をよせてくれた。やはり彼女も吉村のように、表現者としての矜持を心のうちに静かに抱えている。

吉村ファンの私としては、本人がそう思っていただなんて不思議でなりません。案外、死後すぐ忘れられる小説を書いている人のほうが、自作は100年後の教科書に載るはずと幸せ気分でいられるのかもしれませんね。

 

▲吉村昭の生家のあった東日暮里にある日暮里図書館。ここに『吉村昭ギャラリー』がある。荒川区なので、最近知った。

▲図書館の一角に過ぎないが、実に悦ばしい。未読のものがけっこう並んでいた。

▲翻訳された著書。上の本の原題は分からない。「一人の 或る男の正義」とは?『背中の勲章』かな?

▲町屋の「荒川ゆいの森」にある吉村昭記念文学館。「吉村昭と東日本大震災」の企画展は日暮里図書館で知った。会期終了の1日前だった。

 

▲前回行ったときにあったか・・。撮影はNGではなかったはずだが・・。

▲50pの立派な冊子が410円。ご長男の吉村司氏が文章を寄せている。生前のスナップや原稿等の写真が豊富。

(※)中野さんのブログへのリンクの方法が間違っていたようで、改めて本記事をアップした。「花つむひとの部屋」の最新ページにリンク。そこから最新記事の『吉村昭氏の遺言』をクリックされたし。


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