小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

竹久夢二が求めた美とは何か

2023年09月16日 | エッセイ・コラム

前回記事の続き

竹下夢二(1884~1934年)は、画家としてだけではない、様々な才能に秀でたマルチタレントだった。ウィキをちょいと引用する。

・・数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれた。大正ロマンを代表する画家で、「大正の浮世絵師」などと呼ばれたこともある。文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作しており、中でも、詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。また、多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりともいえる。

夢二について知っていることは、ほぼ以上のことに限られていた。現代でいえば、画家、イラストレーター、装丁家、グラフィックデザイナー、詩人、作詞家、童話作家としての仕事をこなした。きわめて多彩な芸術家であることは確かだが、それは本人が望んだことであったのか知らない。なぜなら1930年代には渡米し、その後ドイツに渡っている。彼は日本画の講師を務めながらも、一意専心、油絵の美人画の創作に励んだのである(海外で描いた作品は、外人女性の裸婦が多いが、秀逸であり完成度は高い。何かのテレビでみた)。

 

さて、岡山県瀬戸内市邑久町の代々酒造業を営む家に、夢二は次男として生まれた。兄が前年に亡くなっていたため、事実上の長男として育てられたらしい。牧野富太郎の実家も酒造業であったが、植物研究に湯水のごとくお金を注いだせいか、家業は傾いてしまった。

実家は、理由は分からないが、父親が家業の造り酒屋をたたみ、夢二は操業間近な八幡製鉄所に職を求めたとある。それは夢二が16歳のとき、1900年(明治33年)。翌年、東京へ出奔(家出)した。

21歳のとき、「友人であった荒畑寒村の紹介で平民社発行の『直言』にコマ絵が掲載される。これは最初に印刷に附された夢二の絵であった。この後、『光』、日刊『平民新聞』に諷刺画などの絵を掲載された」と資料にあった。その後は順調に大正浪漫の先端に立って、先に引用した通りのマルチクリエイターへと成長した。

 

      

▲白蓮の歌集『幻の華』を装丁。初歌集『踏絵』も夢二が手がけている。

夢二が望むものは美しい女性を描くことだけだったのか。挿絵画家から一世風靡した美人画を描くまで、そう長い年月を要していない。日本画の素養があったのだろうか、洋画の色づかいにプラスして日本画の優美、繊細さを感じる。いわゆる和洋折衷の大正浪漫を体現したモガ=モダンガール。それらのどの絵もが、当時の生き生きした女性の体温、感性がつたわってくるようだ。

そんな大正ロマンを代表する詩人画家・竹久夢二が、1923年の関東大震災発災直後の様子を短文とスケッチ画で描いたルポ「東京災難画信」がある(都新聞(現東京新聞)に21日間にわたり連載)。100年目の今年、夢二のそれが再びよみがえった。東京新聞では、初回の7回を連載し、本社でもその全容を紹介する企画展が開催されたようである(未見、9月15日終了)。

小生は恥ずかしながら病後には新聞をあまり読まなくなった。記事連載も知らなかったうえに、竹下夢二美術館のそれも、訪れて初めて知った次第である。ただ、新聞は購読していてストックしていた中から拾いだした。以下、それらの主だったものを紹介したい。(スケッチの下の太字の文章は夢二が書いたもの)

▼第1回:銀座「一望、焦土と化した」

(前略)何を言うべきかも知らず、黙々として、ただ左側をそろそろと歩いてゆく。命だけ持った人、破れた鍋をさげた女、子供を負った母、老婆を車にのせた子、何処から何処へゆくのか知らない。ただ慌しく黙々として歩いてゆく。おそらく彼等自身も、何処へゆけば好いのか知らないのであろう。

▼3回:不忍池「最後のもの 売るだろう」

(前略)三日の朝、私は不忍の池の端で、おそらく二十と入っていない「朝日」の箱を持って、大地に座って煙草を売っている娘を見た。煙草をパンに換えて終(しま)ったら、この先(さき)娘はどうして暮らしてゆくのであろう。売るものをすべてなくした娘、殊に美しく生まれついた娘、最後のものまで売るであろう。この娘を思う時、心暗澹とならざるを得ない。(以下略、「朝日」は両切りのタバコ。数年前に見かけた)

▼第4回:郊外「子供達 もう止めましょう」

(前略)「万公!敵にならないと打殺(ぶちころす)ぞ」と嚇(おどか)してむりやり敵にして追かけ廻しているうち真実(ほんとう)に万ちゃんを泣くまで殴りつけてしまった。子供は戦争が好きなものだが、当節は、大人までが巡査の真似や軍人の真似をして好い気になって棒切を振りまわして、通行人の万ちゃんを困らしているのを見る。
ちょっとここで、極めて月並みの宣伝標語を試みる。「子供達よ。棒切を持って自警団ごっこをするのは、もう止やめましょう。

 

 

追記:大正浪漫の美人画で一世を風靡した竹下夢二は、はじめて「可愛い」という確かなイメージを創りだした人ではないか・・。そのようにしか思えず、やがては昭和の時代に移り、戦後から現代に至っては、単なる「可愛い=cute」では収まらない。「可愛い」なるコンセプトは、日本人にとって普遍的な意味をもち始めた。そう考えるのは、かつての王朝文学の「いとをかし」や「いとやさし」さらに「あはれ」にも一脈通ずるものがあると考えたからだ。たぶん次回に、その拙い考察をまとめてみたい。

 


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2 コメント

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可愛い (jeanlouise)
2023-09-18 19:20:09
夢二の情趣とはまったく別ものですが、昨今のアニメや漫画の影響から海外の若い世代には「KAWAII」はポピュラー化しつつある言葉でもあります。
どんな同義語や訳語に置き換えられるかいろいろ考えてみたりすると面白くなってきました。

小寄道様の続きを楽しみにしています。
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Jeanlouiseさま (小寄道)
2023-09-19 01:02:35
ありがとうございます。
そもそも「可愛い」は、現在とは真逆のネガティブな言葉でしたが、それが今では海外の若い世代から「KAWAII」と言われる「共感語」になりました。

語源やら多義的な意味を探り出すと、それこそ国語学者的に研究できる感じですね。
ということで、ちょっと困り果てているのが正直なところです。

まあ、夢二の「可愛い」を核に、自分が語れる範囲でまとめてみますね。
いつもながらのそっと背中を押してくれる温かいコメント。感謝です、こころから。
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