『みすず書房旧社屋』の著者、潮田登久子さんの夫、島尾伸三について書く。
彼は幼い時に、両親の壮絶な軋轢と緊迫のもとで、妹を庇護し世話をしながら、必死に生き抜いてきたという奇特な経験をもつ・・。こう書くと、やっぱり仰々しくなる。
ブログではありきたりでも、飾らない文章で書こう。
戦争のさなかに伸三の両親は、南方の島で知り合い結ばれた。男は、九州帝大卒、特攻船「震洋」の隊長、島尾敏雄。女は代用教員で、島の巫女でもあったミホ。地元の人は敏雄に心酔していた(誰も死なずに敗戦をむかえたから)。出逢いを運命と感じ、愛し合った二人は、実家の神戸で結婚した。そして、一男一女を授かり、やがて夫は新進作家として注目され、東京で新生活をはじめた。
気鋭の作家、島尾敏雄は或る女性xと不倫。ばれるも清算できず、密かに関係を続けた。妻のミホは「x=アイツ」のために精神に錯乱をきたし、エスカレートさせていった。(注1)
両親が極限状態に嵌り込むのを、長男の伸三は妹マヤといっしょに、ハラハラドキドキしながら間近で見ていた。異常な環境にあっても、5,6歳の伸三は在るがままを受けいれるしかない、小康状態もあったからだ。しかし、不倫を諦めないアイツを、キリスト者の母は悪魔として見立て、狂気の坩堝と化した家の中。
xのネタ発見や幻視を見る度に、ミホは狂気・錯乱し、夫を責め人格を蹂躙した。伸三も狂気を装い、両親の諍いにストップをかけるが、自ら境界を見失うことも・・。妹はまず失語症に陥り、心身はボロボロ、崩壊寸前に迫った(※注2)。
そんな状況から家族は奄美大島へ逃れる。伸三にとって異郷ともいえる地だが、子供らしさを取りもどせる何かがあった。しぜんと強かに、ときには狡く振舞えた。いじめにあえば、いじめる側に恐怖感をあたえて撃退し、自分なりに面白く過ごす方法を見つけた。
それは、大人社会を拒絶し、じぶんの世界を作ること。つまり、己自身であるための純粋性を保つには、幼児性を忘れないこと、その「居場所」を設えることだ。伸三はそれをじぶんなりの「基準」にした。駄目になったら、「狂え」ばいい、と。
▲共に穏やかな表情である。マヤと伸三とは、2歳の差しかないのだが・・。『小高へ』にあった家族写真(名瀬市)をスマホで撮る。(画像悪し、以下同じ)
その後、家族は鹿児島に転居したが、伸三は上京をめざす。東京造形大学で写真を学び、写真家「のようなもの」になって、両親から自立して生活していた。彼女もいたらしい。20代の伸三は、酒と喧嘩で痛い日々多し。(25,6歳頃か、酒に酔ってサラリーマンと喧嘩。ボコボコにしたが、ふと相手に家族がいること気づく。その日から暴力は止めたという)
30歳になったころ、造形大や桑沢デザイン学校で講師をしていた8歳年上の潮田登久子さんと結婚。30代以降は、夫婦で香港を中心に中国社会の玩具や雑貨などを取材・撮影した。それは放浪の旅でもあり、ある意味ではフィールドワークとして異邦の地を歩いた。その間、「まほ」という娘が生まれた。中国雑貨をメインとした写真集・フォトエッセイを90年代初頭まで、10冊以上も発表している。
それらの出版物において、島尾伸三は意識的に、自分が作家島尾敏雄の息子であることは、自分からあえて公表していない、たぶん。
潮田登久子さんの写真集についてブログに書いたとき、伸三の本『生活』と『季節風』の二冊を紹介した。本には著者略歴があるが、両親に関するいっさいの情報は記されていなかった。この二冊は、1995年の11月に同時にみすず書房から刊行されているのだが、夫婦と娘だけで生活していくことの自信と余裕をもち、伸三としてのあらたな局面を見出した、その決意と宣言のように見做すことができる。
逆にいえば一方で、島尾敏雄・ミホ夫妻と妹のマヤの三人は、濃密で煮詰まった暮らしをおくっていた? ミホも作家活動に入っていた。この頃の、島尾敏雄の著作活動をまったく関知していない。
『季節風』という本は、二人で中国社会をフィールドワークしていた状況を、伸三流に書き綴ったフォト・ルポルタージュだ。いっぽう『生活』は、プライベート中心のフォト・エッセイで、両親のことや過去の出来事なんかも織り交ぜた内容といえる。島尾家のことを知っている人なら、かなり身をのりだして読んでしまう本だとおもう。
この二冊の本では、島尾伸三は自分のことを「キュウリ」といい、妻の潮田登久子さんのことを「西洋ナシ」と名づけている。その他、普通のひとだったら「ウザイ」と思うことや、恥となるあけすけな出来事も配慮なしに書く。人物のほとんどはあだ名で書かれ、何か不思議な物語を読んでいる気になってくる。それにしても粘着質な伸三は、狂気を演じると誰もが恐怖を感じ、身を引くとのこと。
伸三がまじめに端的に自分たちのことを書いているところを引用する。
西洋ナシと出会い、長年にわたって蓄積されたキュウリの精神の病は、彼女がいるだけで治癒の機会を得たのです。まず感覚器が復権しました。光に音を、音に香りを、触覚に色を感じる幸せが蘇ったのです。目の前の事態に、色を見ていると物語が構成できずに幸福感だけが時間を埋めてしまう、幼児の頃の感覚の使い方を取り戻せたのです。
ともかく伸三夫婦は、フリーランスである。自由奔放であることをヨスガに生きている方たちだ。娘の教育のこととか、ご近所づきあいの規範そのほか一般常識とは関係なく、大人社会における見識とは無縁に過ごしていた(登久子さんはその後、娘の教育に真剣に取り組んだらしい)。
こう書くと、組織のなかで働く人、地域・コミュニティのなかの枠を意識して暮らす人々にとっては、彼らを胡散臭く、大人になりきれない未熟なものをみるかもしれない。でも、そんな「至らないヒト」でも、何かを主張したい「個」はあり、「家族愛」を大切にしている。
伸三はダメ男であり、家庭のお荷物らしい、と傍から見ればそう思う。けれど、二人の女性からすこし愛され、馬鹿にされ、ほっとかれる。伸三は、自分がいい仕事をしているなんて、おくびにも出さない高潔かつ臆病者でもある。ほんとは、ちょっとぐらい認められていたであろうか。
▲妹のマヤさんは母から離れ、伸三の住まいの近くのアパートに独居していた。ワープロを打ち、医師に症状を伝えたという。成年以降のマヤさんの元気な姿。数年して召天された。享年52歳、小生と同年であった。
島尾伸三は『魚は泳ぐ』という著書のなかでこんなことを書いている。
嫌いになれないのは妹です。殺しちゃったような感じで、申しわけないんですけど、彼女が死んで私が生きているなんて、何かか間違っているような気がしてなりません。生きているだけで周囲を清楚な気持ちにさせる人でしたから、それに気づいた人には必要な人だったんです。
自分のことについては下のように書いている。
生きているのを、楽しんでいるだけで、生きていること自体にはなんの意味も見出せないんです。自分の人生をただ浪費しているだけ。なんか作っているとは全然思えない。
お母さんは、同じ場所にマクワウリも植え、数個を一度だけ収穫しました。小岩をさるころにはそれらが枯れて竹の棒にひからびたままでしがみついていました。楽しいことを考えるのが得意だったおかあさんの夢を、片っ端から壊したのは、外出が多くて難しい顔ばかりしていたおとうさんにちがいありません。私は今だって「おとうさんのバカ」と、言いたいです。(原文まま、以下同じ)
彼女(私のおかあさん)の孤独を思うと、そんな気持ちにさせる夫は、良くありませんと、怒ってしまいます。飛行機の中で、赤ちゃんを抱えて四苦八苦している奥さんを尻目に、新聞や雑誌を読みながら、他人のような顔をしている夫のようで、プンプンです。
マヤ(伸三の妹)はどこへ行っても両親の後を追いかけません。だから、私が、おしっこやうんちの世話をしなければならないのです。電車にのっていても、「おにいちゃん、うんち」って、言うんだもん。
(※注1)後年、奄美の家で、潮田登久子さんが島尾敏雄のノートを発見。不倫相手との愛を綴っていたようだが、ボロボロの状態である。『BIBLIOTHECA 本の景色』の巻頭を飾っている。奄美大島の実家2階で発見。鼠とゴキブリにより見るも無残だ。かごしま近代文学館で修復を試みているというが・・。