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人はみな自分の“たいまつ”を持っている @ むのたけじ


 むのたけじのいわゆるたいまつシリーズは、短い「詞」の中に真理がちりばめられていましたが、この『たいまつ16年』は、戦前の記者時代から1960年代に至る時代に、秋田の片隅からまったくその中心軸を変化させることなく、鋭く時代を「撃ちつづけてきた」比較的長い文章です。

 なるほど、うんうんとうなずきっぱなしの本でしたが、とりわけ、今あらためて重要と思ったのが「憲法をどう活かすか」ということ。むのは、この本で「憲法は絹ハンカチではない 台所を朝昼晩清めるぞうきんのように使え」と喝破してます。

 というのは、昨今、立憲主義の説明で「憲法は時の権力を縛るもの」という議論が流行してますよね。それは制度論としては全く正しいと思います。だけど「憲法は国を規定し縛るものであり、国民がまもるべきものではない」という意見も、様々な団体の機関紙などで「活字」で見かけるようになりました。

 僕は、それはちと違うんじゃないかと思っています。かつて京都府庁舎には「憲法をくらしにいかそう」という大懸垂幕がありました。憲法(の理念)を日常の中で活かしてゆくことが大切だと思うのです。

 たとえば、思想信条の自由。国は国民の思想信条の自由を保障しなけてはならないし、国は思想信条で国民を差別してはならないのですが、国民同士だってそうじゃないの?と思います。

 任意団体である町内会の役員会で、選挙で特定の候補者の推薦決定をしようとすれば、僕は「それは憲法違反です」と言います。これ、たいていの場合は保守系候補の推薦強要が問題になるわけですが、革新系候補の場合だって同じ。選挙で特定候補の支持を隣人に押し付けてはならないのです。

 みなさん「個」になってくださいという、奥田愛基氏の呼びかけに、耳を傾けるべきですね。確立した「個」をもつ人々が集まった組織こそ最強です。

 それから、むのが「支配層が国民に竹ヤリ戦術を強いるには、竹ヤリ以外に武器がなくなったからではなく、竹ヤリ以外の武器を持たせると 国民はそれを自分たちに向って使用することがわかっているから、竹ヤリ以外のものを国民にも持たせようとしなかったのだ」との指摘も、天晴れ!です。


 
↓「人はみな自分のたいまつを持っている」
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