秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

奥祖谷夏点描 暮らしの初夏 梅雨に歩いて久保集落

2011年06月22日 | Weblog
青葉やま背負ひし老婦に笑顔あり

万緑に埋もれしままに生きており




向かい側に聳える三嶺ー天狗塚ー牛の背は確かに素晴らしいやまなみであるが
久保集落の裏山も、大した風貌をしている。

標高こそ、里山なみであるが、綺麗な山容をして、頂上付近は自然林に
包まれている。
山懐に包まれて、しずかに、慎ましい暮らしをしている、トキばあばは
80歳になり、しんどなったわ、と云いながらも奥祖谷でも働き者である。

雨でも降らない限り、大抵は畑に出ていることが多い、草取りから
植えている野菜の手入れ、次に植える作物の段取りとすることが何でも
あるからである。

一年中の段取りは身体が覚えているが、そうそう上手くは事は運ばない
ことが、多々ある、自然の気候の気まぐれに翻弄されるからであるが
そこは体験済みであるから、慌てることはない。

悠々たるもので、自然に逆らうと碌なことは無いことを知っているというか
此れまでの生活が体験となって、すべてを受け入れている
自然体なのである、僕などは、頭で受け入れているのであるが、トキばあばは
頭より先にこころで受け入れているから、到底僕などは敵わないわけだ。

この地で暮らしてゆくには、人間の都合に合わせて物事を考えるのでは無くて
自然の側、即ち自然とともに暮らしていかなければ、生きてゆけない訳で
不便、不自由は当たり前のこと、というか、必然的にあるべきなのだ。

不便、不自由をあまりにも排除し過ぎた今の僕の暮らしは寧ろ歪な生き方なのでは
ないだろうか、そのために本来の本能的な五感、六感、内在しているこころまでも
鈍感になり、最低の生き方をしているようだ。

人間にとって、不便、不自由はなくてはならないものなのであろう。

自然の都合に合わせてともに生きていけば、自ずからそのような感覚は無くなって
それ自体が無意味な比較となるのであろう。
どちらにしろ、トキばあばには、難しいことなどないわけで、悠々と畑仕事に
精を出し、向かいの天狗塚を眺めながら、明日は雨が降りそうじゃと呟いていた。



「働いて、笑って、泣いて、お酒を飲んで、寝て、しずかに座ってお茶を飲む」











































































コメント (6)
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