草刈女絶えて道なき廃家かな
瑠璃鳥を聞きし廃家の哀れ知り
がぶりと飲み干してもカオス
梅雨に歩いて廃家を訪ねる、わたしは静かなこの時期がいいものである
故あって住み慣れた家を棄てていかねばならなかった家族の気持ちを
推し量るには梅雨はいいのかも知れない。
一つ一つの廃家はそれぞれに趣が違い、過って過ごしたであろう人たちの
個性が僅かながらも残っているのを見つけると、どのような家族が生活して
いたのだろうと、想いは遥かに駆け巡るものである。
廃家の残骸に、遠い人の温もりや悲しみや喜びがある。
どんな山奥に住もうと、人はしがらみから逃れることはできない。
山の中の侘しい生活は、薪を探し食料を確保する日々が果てしなく続く
今日の無事は明日の平安を約束しない。
とりあえず何事もなく暮らせているというだけなのだ。
そんな廃家にどんな家族の風景があったのだろうか
佇みて、周辺の風景と廃家を眺めて、時間の経過を忘れ、しずかに古に
想いを馳せる、心豊かな空間は、好ましい限りである。
そのようなときに瑠璃鳥が何処からとの知れず、鳴き声が聞こえてきたりすると
過ってはもっと素晴らしい自然の風景であったろうと偲ばれて哀れを知る。
混沌としたいまの世の生業をがぶりと飲み干しても混沌は尽きず終りそうに無い
無秩序に生成変化しているカオスは水の流れのようだ。
奥祖谷の自然に委ねてみたところでカオスはカオスでしかない
廃家は崩れ去るだけなのであろう、コスモスは無いのだ。