秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

菜菜子の気ままにエッセイ(彼女に寄せて・後編)我が愛しの友へ

2011年10月08日 | Weblog
夕べ 書き下ろしのまま、彼女の事を書きながら、今日ふと、思い出した事があった。
彼女が入学した私を、何故…友達の一人として、迎えてくれたのか…
あれは、早い話しが、一人の友人の秘密の相談を私は、受けていた。
私は、昔からくちが固い、女子だった。
彼女が、私に近付いて聞いた。

「〇〇ちゃんが、直接〇〇〇に※私に
聞いたらええわって、言よるけん、詳しく教えて?」
※彼女はカマをかけてきた

私は、少々怖かったが、彼女にこう言った。
『なんの?話し?
私は何も知らんよ!私が知っているって、デタラメじゃないん!知らない事は、言えんし!』
そんな、返答をした。
彼女は、あれをきっかけに、下級生の私を、認めてくれたんだ。

彼女の、病名は
膠原病だった。
正確に言えば、
全身性エリテマトーデス
特定疾患の一つだ。

発病したのは、20歳の頃。

剣山の民宿で、ある夏の日、
お皿を洗う手を止めて、彼女がぽつりと言った。

『食器洗いの洗剤…合わんのかなあ…?手の皮が剥けて、最近痛い…』

私は、軽く聞き流していた。

まさか、その症状に、難病が隠れていたなんて、知るよしもなく、高校卒業し、街に就職し、一年余りで、発病。やがては、故郷に戻り、入退院の繰り返し。
治療の為に使われる、ステロイド剤は、強い副作用を伴い、股関節への人工金具。

太陽の光線を浴びない為に、夏でも長袖。
縁の深めの帽子に、白い手袋。
片手には、ロフストランドクラッチ杖。

様々なアイテムは、彼女の生活の必需品となった。

彼女の通院日と、私の母の通院日を、同じ日に併せて、私の娘達も一緒に、私達は、通院の日を、買い物がてらに、楽しんだ。

彼女と私と娘達。
車で行ける範囲の、日帰りも、楽しんだ。

遊園地…海辺…
レジャー施設。

何十回、娘達は、彼女に抱っこしてもらったんだろう。
どれ程、大切にして貰ったことか…

結婚を諦め、母親になる事も、諦め、全てを諦め
尚且つ、愚痴はこぼさないで、病院と自宅を往復するだけの、最期の数年間。

26年間の闘病生活だった。

私達は、ある日。ある約束をした。
お互い、どちらかが、病気で余命いくばくも無い状態になって、どちらかが、それぞれに1番逢いたかった人を、連れて行くと言う、滑稽な約束だった。

口にしなくても、
彼女が、誰に逢いたかったかは、私にはわかっていた。

彼女が、亡くなる二週間位前…

数本の点滴に繋がれ、モニターを置かれ、
痛みに、唇を真一文字に結び、布団で顔半分を隠すように、ベットに沈まる、彼女の姿を見た時、

私はあの約束は、果たせないと…思った。

同じ女として、今の自分の姿は、誰にも見られたくない筈だから。
何度も、悩みながら、私は、躊躇した。

まだ、自力歩行が出来ていた時…大学病院の中庭を、歩きながら、彼女はぼつりと…呟いた

『この桜…来年は見れんな…』

中庭でコーヒーを、飲みながら…
黙ったまま…
降り注ぐ、桜の花びらを、いつまでも、二人で見ていた


あの私達の、時間の中にも、主人は、いつも、車の中で待っていてくれた。

私達の車が、敷地の門を曲がるまで、病室の窓から、手を振って見送ってくれた。

泣きながら、帰る私に、主人はいつも、傍で黙っていてくれた。


あれから、六年が過ぎようとしている。

彼女も
私の中に、生きている。
私と共に、見えない歳を、重ねている。

心の中で、いつでも、様々な場面が、プレーヤーなんて要らない。
リアルタイムで、蘇ってくる。


彼女の産まれ、育った小学校の、
明日は、最後の運動会。
主人も、小学五年生まで、通った場所だ。

幾つもの、卒業生達の、
それぞれの想い出の場所が、
今、集結した、新たな保護者、若者達の手に寄って、フィナーレを迎える。

人は
『無』の時間を、生きている。
全ては、水のように流れ去り
風のように、吹きさり…
心のままに
心のままに
誰かの 生きられなかった 今と言う時間を
大切に 生きよう

最愛なる 友へ

貴女から聞かされている、大切な秘密の話しは、遠い昔のように、お口の固い 女子は、このまま…墓場まで、持っていきます。

追伸
そちらに桜は
咲いていましたか…
こちらは、そろそろ色付き始めましたよ…
故郷の山々が…

合 掌















































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