先日上野でゲットして超!!浮かれた「上野山内月のまつ」不忍池の「上野清水堂不忍ノ池」にも登場しているのですけど、
江戸時代からの丸い松がてっきり残っているのだと単純に喜んだけど、実は清水堂の粋な住職様の仕業だったことが判明。
とはいえ植木職人さんにお願いして大事に作ったとか、しかも予備の松までスタンバイしているというから、、なーんだ、、と思う反面。感謝感謝ありがたいなぁと思った。
ちょうどテレビ欄で見つけた「浮世絵ツアー江戸の町歩き」という林家三平師匠と森泉さんが江戸の名所を浮世絵と重ねながら訪ねるというもので亀戸や浅草などの情報も紹介されていた。
三平師匠いわく「浮世絵は芸術というよりもタウン誌とか情報誌みたいな庶民に密着したものだった」らしい。
そして「謎とき江戸のススメ」で特集していた「広重と浮世絵」を見てちゃんとまとめておこうと思ったことをメモっておこうと。(あまりの暑さで衣替え延期につき暇なので)
「歌川広重」が晩年に描いた「一世一代」の大作が「名所江戸百景」は斬新な構図で大人気だった119枚の風景画です。
広重が30景「亀戸梅屋敷」(1854年)を描いた30年後にゴッホが「花咲く梅の木」(1887年ごろ)とか。ゴッホは日本人の大胆な構図に(@_@;)トレースしたそうです。
広重は2年半で118枚の名所を描いている。2代目が「赤坂桐畑雨中夕けい」(1枚追加して119枚となったそうです。これは近くゲットしに行く予定!
なぜ空前の大ヒットになったのか?
描き始めたのは絵師として円熟味を増した60歳のこと江戸市中から郊外まで100か所以上を描く浮世絵壮大な計画だった。
亀がぶら下がる絵にヒントがある亀と橋、これは「亀は万年」で深川の萬年橋と江戸っ子はピンとこなくちゃいけない(笑)ちょっとした知的な遊びでもあった。
晩年といえ大御所ならではのこだわりもあって、風景画にはまず無かった縦書きに挑戦したとのこと。
多用しているのは縦書きにして上下が空くと間が抜けるので何か人目を引く大きなものや誰もが知っている名物などを描いた構図が多いとのこと。
ただの景色ではなく、江戸庶民の遊びや楽しみを絵の中に盛り込んでいる。
この江戸末期は大きな時代の変わり目、黒船来航で江戸幕府が揺らぎ始め、未曾有の天災が江戸を襲った頃で、(M6.9の大地震で一万人が亡くなった)吉原や浅草の芝居小屋など庶民の娯楽の場所もなくなってしまった。深い悲しみを乗り越えて復興に向かう江戸の町その中で、絵師として復興に立ち向かった逞しい庶民の暮らしを生き生きと一本の筆で描いたとのこと。
巻頭は日本橋新年の晴れやかな風景、、活気の戻った魚市場に大量の魚を積んだ船が次々に入ってくる。
江戸時代この近くに市場があったのは先日、日本橋クルーズに乗った時に説明があった。「西河岸橋」だったかな。関東大震災で焼けて、築地へ移転してしまったが。
そびえる富士に江戸城、川のブルーを江戸城に向かって縁起良い末広がりに描いた復興を願うメッセージという説明も。
浅草寺雷門の絵は7月に描かれたのに雪化粧、(辰七安政三年七月に作られたことを表す表記がある)なぜ雪の浅草を描いたのか?
復興をしていく江戸を紅白で愛でるためだったそうです。半年前の地震で五重の九輪の塔が曲がってしまったが、この作品のできる少し前に復元した修復のお祝いをしたのではないか?
このほかにも猿若の夜景など面白いエピソードがあるがこれからゲットしたときに書いておこうかな。
「写真(しょううつし)をなして是に筆意を加ふる」写生をしてそれに気持ちを加えるという広重の精神、、お見事です。