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お成り街道から、信号のある交差点を左折し、北田島に入った。
すると、角の建物の先、すぐ左手に新しい石碑が立っていた。
あわてて振り返ると、白い大きな石碑で、周りに柵も設けられている。
中央の石には、黒い文字で「舜海入定塚」と書かれている。
角の家の南側に空き地があり、石碑はその角に立っていた。
石碑の前の農道の先には、JAいるま野の施設が見えた。
石碑の裏を見ると、次のような文章が彫られていた。
「当時この堂に舜海という僧が住んでいた。すでに老齢で大悟徹底したものか、庭前に入定塚を築いてある日近隣を訪いわしも長らく仏道に仕えて来たがすでに余命も短い。ここに悟りを開いて近日中に入定する考えであるが、入定後はかねを打ちつつひとえに心経を奉誦するが、もしかねの音が聞えなくなれば、わしは仏のみ手にすがって彼岸におもむいたものと承知されたい。かねの音のやむまでは決して塚の戸は開けましく、今生のお別れとしてご挨拶申すと伝えた。近隣の人々は、事の意外に驚いたが、元より道心堅固の僧のこととて、これに対してただ七字の名号を繰りかえすばかりであった。そして舜海は一両日の後入定してしまった。その後かねの音は昼夜をわかたず塚の中から響いて来た。この事が一村に伝えられて、村人はかわるがわるひそかにこの塚を訪い、名号を唱えながら安否を確かめるのであった。そうしてかねの音は七夜に至ってついに絶えてしまった。よって村人は合議の末、塚の戸を開いてみると、僧舜海は端然として左手に珠数を持ち右手にかねたたきを握ってすでに往生遷化の後であった。村人はただちに円満寺に報告し円満寺からも住職が参加して、丁重に棺に納め懇ろに葬送を終わった。これが舜海入定の顛末である。」
この碑築造の由来の後、平成十五年十月吉日建之と記されていた。
この話は、
川越の民話と伝説(新井博著)
にも載っているが、こんな所にあるとは思っていなかった。
入定塚とあるが平地である。
碑文にこの堂とあるお堂もない。この空き地に建っていたのだろうか。
円満寺はこの道を更に南下した左側にあるが、まだ行った事はないが、現在無住のようである。