ホウジョウキ  ++ 小さな引籠り部屋から ~ ゆく川の流れは絶えないね

考えつつ振り返り、走りながらうずくまる日々。刻々と変わる自分と今の時代と大好きなこの国

文化財レスキューをぜひ。

2011-06-07 08:52:10 | 日本文化
国立公文書館の展示を見に行きました。
「はたらく動物」



人間とともに、労働をになってきた様々な動物たちについての解説や記録の古文書を公開でしていました(公開は6月3日で終了)

私は、紙が好きなので、古文書や書画、文書を見るときは
ほぼ、内容ではなくて、紙とその記録の方法(墨書きなのか、版本なのか、など)に注目、
そちらを見に行っているといってもいいのです。

この展示も、やはり版本の綺麗さとか、公文書にどのような文字を書いているのかなあ、とかそちらに目が行きましたが、動物の細密な版画は面白かったです。

もうひとつ、常設展示に、法律の発布に関する文書が展示されていました。

古いものから麻生太郎元総理大臣が決裁した、法律の公布の文書もありましたが
大臣の決裁は今でも「花押」なのですね!印章じゃないのですね…
知りませんでした。
大臣になると花押を作るのか。
そうして、花押にもいろいろ、うまい下手があるなあ~と笑ってしまいました。

そして、たくさんあった公文書館関連のチラシを見ていると

文化財レスキュー

のものが。

東日本大震災の被害は広域に渡っていて、様々な文化財が被災し、破壊されたのです。
公立の博物館がそっくり津波に流されてしまったり
書画や美術品が破損したり
古文書や公文書が水に浸かったり
文化的価値の高い建築物もたくさん壊れてしまいました。

東北地方の特有の文化的な歴史の記録が、大きな被害に遭っているということは
歴史の記録から、東北地方のものに大き穴が開くことになってしまいます。

東北地方は、関東、近畿以西のものとは違なる固有の歴史、文化、風土を持っていますから
その歴史の記録が失われることは、他の地方の記録に替えられるものではないのです。

文化財修復は、今に生きるために、今すぐに必要とはされないことだけに
忘れられがち、後回しにされがちですが
このこともまた、時間との戦いなのです。

きっと、この国の政府(政治家)には見落とされるであろう
文化財修復の分野。

日本が、文化立国、観光立国を目指すなら尚更、心を向けてほしい。
文化庁は頑張ってほしい。

そして民間に実はたくさんある、文化財修復の企業や技術者、機構にも頑張ってほしい。

“非常時“と“いつも”のこと

2011-06-01 09:05:09 | 日本文化
今日から6月、衣替えの日です。
季節の節目をまた一つ通って、次の季節へと進んでいく感じがします。
衣替えの今日、東京はまだ肌寒いまま、夏は遠くにある感じです。

今年の春は、寒いのか暑いのか、気候が安定しないからか
私もすっかり体調を崩してしまい、周りも風や胃腸の調子の悪い人が多いです。

体調が悪いのであまり運動もできませんが、強張った心と体を温めるのに
家でヨガのポーズをとっています。

ヨガのクラスは、お休み中です。
ヨガの先生が、震災被災地のボランティアへ参加しているのです。

このことを知った時、
そうか、先生も頑張っているのだな、という応援の気持ちと
少し寂しい感情が湧きました。

ここにも「プチ被災者」がいて、ヨガを、先生を必要としているんだけどな…

そんな思いです。

東日本大震災で、東京は直接の甚大な被害は少なく(天井が落ちて亡くなられた方も居ました)
被災地ではありません。
震災のショック、交通や電力の麻痺、関東圏に近い福島での原発事故
などで、不安が大きくなり心理的疲労を感じている方が少なくないように想います。

私自身も震災から1カ月くらいは、精神的に不安でとても疲労が溜まっていました。

そんな時に、「ああ、ヨガで心身をほぐしたい」とよく思ったのです。

でも、ヨガクラスはお休み。とても残念でした。
ああ、今こそ私はヨガでリラックスしたいのに、と。
「置いていかれてしまった」そんな寂しさを感じたのです。

被災地の悲惨な被害の状況を目の当たりにしたヨガの先生が、自分が少しでも役に立てば
と考えて、ボランティアに参加した気持ちはとてもよくわかるのです。
そういう人がいてこそ、ボランティアが成り立つことも。

一方、先生の「いつも」の生徒、も「いつも通り」存在している。

この非常時に、何を優先するか、ということ、それはその人の価値観そのものだと思います。

非常時に、非常なこと、を率先して行う人もいる。
非常時に、いつものこと、を優先させる人もいるのです。

「いつものこと」はいつもそこにある、普通のことです。
私の生活にも、「いつもの普通のこと」震災とはあまり関係ないような、「いつもの仕事」もあります。

私は、震災直後から、その「いつもの普通の仕事」を「普通に」することに、普段以上の心を砕いて丁寧に行うようにしていました。
なぜだか、自分でもよくわかりませんが、そうすることが私の最もすべきこと、のように思えたからです。
私にとって「いつもの仕事」は、
とても大切にするべきこと、そして社会つながっている大事な出入り口として
私が出来るもっとも効果的な社会貢献の手段、でもあると考えていえるのです。
だから、私は「いつも」の仕事を、今優先させる。


非常な時に、はるか遠くを見ようとする人もいますが、自分の足元を見る人もいる。

私は、非常時に自分の身の回りを整えることが、結果的には全体の復興に寄与することだ、と思ったのです。
だからと言って、非常時に非常なところに身を置き活動する人の価値観がおかしいとも思いません。
そういう人がいること、そういう行動方法も、必要なのだと思います。

自分自身にとって、大事なこと、優先することは何なのか、という簡単にして難しい問いを
震災という非常事態は、問いかけているように思います。
そして、人の価値観がそれぞれだということも、平常時より顕わにして突きつけているように感じるのです。

東北復興の旗印の甘いお菓子

2011-05-18 10:45:10 | 日本文化
仙台の知人から、
大船渡銘菓「かもめの玉子」
宮城銘菓「白松がヨーカン」

が届きました。

ああ、仙台も少し落ち着いてきたのかしら、ととても嬉しくいただきました。


もう1カ月以上前、被災したその方に、とても必要としているものなのに
被災した仙台ではその時手に入らなかったもの
を、お届けしました。

交通事情もまだあまり回復していなくて、ゆうパックが、局留めでしか届けられず、
少し遠い郵便局まで取りに行ってもらうのが、そうではなくても忙しい方に、とても申し訳なかったこと

でも、届いた時には、とても喜んでいただけたこと

昨日のことのようでもあり、なんだか遠い昔のことのようでもあり

あの大震災そのものも、直接の被害が無かった東京の私にとっては、現実のことから少し霞がかっているように思えます。
家族や友人を亡くして悲しみの中に居る方、未だ避難所で暮らしている方、仕事を失って茫然としている方
多くの方がまだその現実の渦中にいるというのに…

人間とはなんと非情なものだろうかと思います。

この、忘れるという機能が無ければ、人間は動物は生きてはいけないだろうとは思うのですが

まだ、国難のさ中にある、ことを霞ませてはいけませんね!



このかもめの玉子を製造している製菓メーカーは大船渡にあります。
本社も工場も店舗も被災して、壊れてしまったあと、もう生産するまでに立ち上がっています。

お菓子は人の心を穏やかにします。

この銘菓は、全国に知られている東北土産品です。

素朴な白餡のお饅頭とホワイトチョコレートのコーティングのバランスが絶妙で
単純なものほど難しい、という鉄則を思い出してしまします。

大船渡産のこの菓子はお土産品として全国の人々を和ませてきました。
そして、今復興の象徴となるべく、奮闘していることを知りました。

お菓子を作ることで、立ち上がる勇気がでる。
そのお菓子を食べることで、勇気を分かち合える。

「もの」という実態のあるもの、だけにできる力があるように思います。

作ること、使うこと、手に取ること。

手の温かみが、必ず伝わるはずです。

薩摩琵琶@gallery園

2011-04-19 22:12:32 | 日本文化
お付き合いをさせていいただいている
護国寺の裏手、昔から続く住宅地のなかに、古いまま残ったお宅をgalleryにされている
gallery園

薩摩琵琶の演奏会を聞きました。
薩摩琵琶の奏者は、榎本百香さん 
お一人での独演会です。





とてもチャーミングな奏者さんですが、演奏を聴いてその技術の高さに、引き込まれました。
和楽器は、元来楽譜がない世界であったり、口伝だったり、(もちろん現代の教授法は違うはずですが)
奏者も聴衆もとても感性に頼る部分が大きくて、難しいと思います。

ややもすれば、感性に流されてしまいがちな、難しい演奏を、
とても理知的にされている、という印象を受けました。

演奏は、
祇園精舎
敦盛
の2曲に
サービスで、ご自身の作曲の1曲

平曲の2曲のプログラム
祇園精舎も敦盛も、大学時代に平家物語を学んだ身としては、有名な一説として筋は知っていますが
琵琶の曲としてはどのように語られるのか、なかなか琵琶の演奏に接する機会がないので、とても興味津々でした。

特に敦盛は、出だしが祇園精舎で始まる長い曲でしたが
謡曲で知っている敦盛と似た節回しを発見して、とても納得したり、
琵琶特有の、バチで楽器をたたく表現手法をなるほどと感心したり、
20分があっという間に過ぎました。

和室の一間に、奏者とすぐ近くにお座布団を並べて聞くスタイルなので
榎本さんが、琵琶について色々な解説をしてくださったり、質問を受けてくださったり
和やかに充実した時間が流れました。

次回は、演目 太田道灌 とのことですし、
舞台美術を設営するとのことでしたので
縁側を背にした和室の中でそういうセットをされるのか、それも楽しみに是非伺いたいと思っています。

次回は
5月15日(日)
gallery園 での演奏です。

上野のお山は花盛り

2011-04-10 17:36:47 | 日本文化
行ってきましたとも、毎年恒例のお花見。

花見自粛令などが出て、お花見スポットには「東日本大震災の被災者の方を考えて自粛を」
という看板があちこちに立っていましたが、大勢の人たちがそんなことを気にする風もなく、
桜の下でお弁当を広げていました。



ただ、大騒ぎの団体はなく、みなさん和やかに静かに桜を楽しんでいる風情。
ああ。これは私の理想のお花見の風景だ、と思いつつ、
同じように私も桜の木の下でお弁当を広げ、缶ビールと日本酒を飲み少し酔いました。

今日は、とても暖かく、桜も最後の散り際で、お昼も大分廻ると、ひらひら、ひらひら、花びらが舞散って、ざわざわと賑やかでしたが、騒がしくはなく、
老若男女が思い思いに桜を楽しんでいる、とても心安らぐ平和な光景でした。






震災後、不安なことばかり続き、神経が少々疲れていたので
お日様の下、舞散る桜の花びらを見て、心底平和を感じました。

ただ、被災した方々にとって、桜はどう見えるのだろう。
不安でいっぱいの気持ちで眺める桜は、果たして心癒してくれるのか、
逆に不安が増すのかもしれない。
穏やかな気持ちでは、桜を見ることはできないでしょう
悲しみが増すかもしれない。
そんな桜でも今年も来年も咲く。
そして今年の桜と、来年の桜は違うのだ、と思います。



昨晩のうちに、おばあちゃんの煮物、といった素朴な煮しめを仕込み
昨日の買い物は、山のように買い込み(やや大げさ)
今朝は朝ごはん終了とともに、稲荷寿司と太巻きの準備にとりかかり
よいしょ、っと巻き寿司を巻いて
お茶を水筒に淹れて

お花見は、お花見をいつにしようか考える時から、お弁当の準備から
平凡な毎日の中の華やかなで穏やかな行事です。

そんな毎日を積み重ねて、何か事が成るのだと信じています。

井戸端着物マーケット 夏着物の季節が幕開け

2011-04-06 21:29:44 | 日本文化
滋賀県彦根市、琵琶湖の湖畔で伝統的織物「近江上布」を織っている織元さん

「大西新之助商店」

上布は夏の麻織物、夏着物や浴衣として着る着物地です。

私自身は、上布を用いて着物に通じる日本らしい夏の洋服を、提案しています。

いよいよ夏に向けての、展示会シーズンが幕開けます。

4月15日~17日 
目白の古民家ギャラリーゆうど

にて開催されるインディーズ着物のブランドが
一緒に展示会を開きます。そこに「大西新之助商店」も参加出展します。

http://kimonoindies.blog.fc2.com/

―インディーズショップの井戸端着物マーケット―


私は、日本が、着物を着ることが特別ではない社会環境になればいいな
と本気で考えています。

着物を着ることが特別ではない環境

それは、さまざまな意味で、もっとゆっくりした社会。
スローというと、とても今っぽいのですが、あえてスローとは言いません。
日本語をもっと使いたい、というのも、着物にふさわしいと思うし
流れや、目新しさではなく、社会構造が変わればいいと思うからです。

日本の風土、国民性を改めて認識することができればいいと思います。
高度成長期から続いている経済成長神話から、一つ階段を上がればいいと思います。

着物を着て生活できる社会
生活で着ることのできる着心地のいい普段着のきもの。

そんなことを考えて、私もこの展示会を少しだけお手伝いします。

棉麻の着物を着て、
着物にかかわっている方たちと、いろいろなお話ができればいいな。


桜がいつ咲くか、楽しみにしているのが日本人。

2011-03-30 10:40:38 | 日本文化
世の中にたえて桜のなかりせば 
    春の景色はのどけからまし
              ―在原業平

世の中に、桜の花というものが全くなかったなら、春に桜は今か今かと待ち望むこともなく
心安らかに春を迎えられるであろうに…(私の意訳です)


平安時代、いえそれ以前から、日本の人は、春の桜を楽しみにしていました。
桜は日本人にとって、特別な花なのです。

私も、やはり満開の桜を見るとその美しさに心震える思いをします。

こんな大災害に見舞われた日本列島にも、桜前線はいつもの年と同じように
北上しています。

今は関東が開花し、もう少ししたら、東北にも桜が咲くでしょう。
自然は、人間社会がどうあろうと、そんなこととは関係なく淡々と自分の命を引き継いでいくのです。
だからこそ、人間は自然を求めるのではないかと思います。

そうして、お花見シーズンが関東にもやってきました。

私は元々アウトドアの宴会が好きではありませんので、
夜、自家発電機を持ち込んで、大勢で(本当は寒さに震えつつ)桜の下で酒を呑み、
歌い騒ぐのが
どうなのかなあ~といつも思っていました。

桜なんか見ちゃいないだろう?と冷ややかに見ていました。

そんな私の毎年のお花見は、昼間の公園や霊園の桜の木の下で、手作りのお弁当を広げて
缶ビールと日本酒を少しのんでほろ酔いで桜の木を眺める
という、地味で少しさびし気なお花見でした。

でも、満開の桜の下で、お弁当を広げる心楽しさを、毎年楽しみにしています。

考えてみれば、夜桜の下の大宴会の人も、毎年それを楽しみにしているという点では
同じですね。
お花見は、年中行事です。
一種の祭りみたいなものです。

今年は、悲惨な大災害が起こったばかり、原発もどうなるかわからない不安の中にいます。
これから、日本は本当に大変な苦難の道のりが待っているのでしょう。
被災された方は、飢えや寒さや、トイレさえ我慢するという究極の状況にいます。

でも、桜は咲くんです。
桜を見て楽しい気持ちになることは、マイナスでも悪でもないはず。

今年の桜は、被災された方、福島で奮闘している原発の方を思いながら、
これからどうやって復興しようか?という話をしながら、前向きに楽しく酒を呑みたいなと思います。






「不安」に克つ。

2011-03-26 23:00:47 | 日本文化
ツイッターで、糸井重里氏が福島県の相馬市長のメールマガジンを紹介していた。
http://bit.ly/h3GDwd
私自身、日々洪水のように押し寄せてくる「不安」と戦うことに疲労困憊だ。

もう事態がこうなってしまうと、情報を判別して自分なりに正しいと思う判断をするのも難しい。

「不安」を煽る情報の波の被害を被っている被災地の苦しみ。
よく考えれば、当事者とは遠いところにいる東京の私たちでさえ、「不安」の洪水の中でちゃんと立っているのが難しくなってしまっている。

ちゃんと考えるということを、自分で止めてしまっているみたいだ。


今試されているのは「日本」という国ではなく、個人個人の、思考能力だと思う。
「国」なんて曖昧なものに転嫁してはいけない。
試されているのは、自分自身だ。

正視することが、あまりに辛いと、見ることをやめてしまう
考えることに疲れてしまうと、思考停止に陥ってしまう
なんて弱い人間という存在。

自分というものの存在意義の根底をなしている、思考や価値観に
ちゃんと対峙すること、
それを試されているのだと思う。

誰に何と批判されても、自分で考え抜いて出した結論は、自信を持って行動に移すことができる。
そういう行動をしたい。
戦う相手は、やはり自分自身。




浅草は三社祭が来ると夏です

2010-05-15 08:59:46 | 日本文化
お祭りシーズンが来ました。

ここ下町は、ここのところ毎週末、お祭りの賑やかさが続きます。
この週末15日 16日に集中しているんですけどね。

北海道に居たころには、お祭りがこんなに特別なものとして人々に想われているなんて
思ってもみませんでした。開拓して開けた北海道には、地域のお祭り文化が薄いのです。

ここはお江戸の真っただ中、お祭りは一年で一番の行事。

三社祭のあいだ、浅草はお祭りに参加する人、見物する人で溢れかえります。
昔は、あまりの大騒ぎに、ここまでするものなのか?とビックリしたものです。

お祭りの、恰好が素敵なんですよね。
特に三社は、御神輿担ぎのメッカですから、バッチリお祭り衣装で決めた人たちが、御神輿を担ぎます。
これがまた、粋なファッションです。
ファッションって、アイコンなんだなあ。と実感できます。

お祭りに参加する意志の表明
同じ町会のしるし
粋な江戸っこのオシャレ

考えれば考えるほど、アイコンですね。


今年は、浅草の真っただ中の弥姫乎ショップで、賑やかなお祭りの気配を感じつつ
お店でお客様をお迎えしています。

御神輿が通るし、ちょっとだけ参加の気分。

弥姫乎さんは、御神輿担ぎです!カッコイイ。

薩摩琵琶と橋本治

2009-12-13 22:52:56 | 日本文化
薩摩琵琶奏者 友吉鶴心さんと作家橋本治氏のライブ+対談ライブ
が、浅草のギャラリーカフェefでありました。

ライブスペースは、狭い蔵の中。25人しか入れませんが、すぐそこで演奏者が見られて、一体感がありますね。

薩摩琵琶の曲は、赤穂浪士の討ち入りの情景を描いた「雪晴れ」

薩摩琵琶は、平家琵琶ほどガンガン打ち鳴らす感じではありませんでした。
しっとりとした曲だったと思います。
歌うな、語れ と師匠にいつも言われていたという友吉さん。
橋本氏曰く「声がよすぎるから、歌たっちゃうんだよ」

1曲演奏が終わると、対談でした。

私は元来、橋本治の日本文化論は大好きです。
今回のライブで印象的だった言葉

作家は、「ここ大事」というセンテンスとセンテンスの間の、適当に流す部分を
書くことがの方が重要だよね。

その、「適当」な部分と、「大事」な部分の境目を読者に分からないように、書くのがプロの作家のすることだ。
大事な部分が分からないいように書いておいて、読者にはそこをさっと読み流されてしまっても
あとから何かあったな?と感じられればいい。

そうか、物事ってそういう風に作っていくものなのだ。
それを作為的にならずに出来るのが、プロの仕事なんだな。

小説に限らず、他のことにも言えること。

それから…
古典って、すぐできるものじゃない。少しずつ、ここ違うよね、と修正していきながら、だんだんと出来ていくものだよね。

そうなんですよね~(私の感想)
古典だけじゃないですね。
すぐできてしまうモノなんか、意味ない。少しずつ、少しずつ、マイナーチャンジをしながら、形作られていくもの。本当にいいものは、すぐになんかできません。
時間や多くの人の目や、色々なものに洗われて、出来ていくものなんですね。

いろいろ発見がありました、橋本先生ありがとう。

次回のライブは、橋本治氏の作品だそうです、ぜひまた聴きたい。