渋谷ユーロスペースで、パンドラ配給の「タルコフスキー生誕80周年記念映画祭」
8月4日から始まりました。
A.タルコフスキーは、熱烈なファンがいる監督、寡作ですが美術史に燦然と輝く美しい映像なので、芸術関係者、愛好家にとっては、必見のもの。
時々、このような形で集中的に公開されてきました。
4日の初日に「ノスタルジア」、今日「サクリファイス」「惑星ソラリス」と3本観ました。これからまだ観ますが。
どの作品も、私自身過去に1回以上は観ています。学生時代に一度観てずっと見ていない作品もありますが。初めて見たときの鮮烈な印象を忘れることができません。
こんな美しい映像が、こんな暗示的な詩や場面が、こんな俳優のアップの表情が・・・
と驚きました。おまけに「能」上演を観るときによく似た睡魔への誘いも。
久しぶりに観た、タルコフスキーの世界は、若い頃の衝撃とはまた違った感情を沸き立たせるものでした。歳を取るって、こういうことなのか。と一人ごちたりしました。
どの回もかなり込んでいて、若い女性が一人できている姿が多かったのが印象的でした。圧倒的に男性好きのする作家だと思っていたので。一人で、渋谷ユーロスペースに古い映画を見に来るきれいで若い女性、がたくさんいるのは、ちょっと嬉しいことです。
今改めて発見したこと。
水の表現の美しさは言わずもがなですが、特に美しいのは汚れて淀んだ水、本来なら汚いはずのものをこの上なく美しく表現できるのだと言うこと。
若いときにはその手法や映像美ばかりに目がいきましたが、今観ると、この監督は人間を、人間だけをナイフでえぐるように描いていたのだと言うこと。
女性への視線が固定的だということ。タルコフスキー自身の母親への葛藤からでしょうか。女性という存在に対してかなり硬直的なイメージで描いていますね。
女性を憎み女性を愛した人生だったのかもしれないなと思わせられました。
タルコフスキーの映画は、その哲学的、詩的、極限まで追求する美的なところに魅力を感じていましたが、とても人間をを愛し、人との関係の構築に苦しんだのだということを、今は読み取ることができました。
そして私自身を振り返り、そこまでの他の人間への愛がないことに気づかされました。
その差異には、時代、国や民族性、文化、の違いがあるはずですが、芸術というのは人間をとことん愛せないとできないものなのだと、思い知ったような気がします。もちろん愛と憎しみは表裏一体。
最近、私はちょっとセンシティブなのかもしれません。
かなりこの3作も胸に迫るものがありました。最も好きな「ストーカー」を観たときは何を感じるだろう、ちょっとドキドキします。
先日の、PMFコンサートのブラームスとR.シュトラウスといい、全身がざわざわとする感動を味わうこのごろです。