南京支局長時代、社屋前で 従軍記者時代(みな故人)
父が大学出たころは「大学は出たけれど」という歌があるくらい不況でした。
夢破れ(司法界希望)伝手を辿って東京から名古屋へきました。
私が生まれた直後のこと(私は一応東京生まれです)
伝手とは同級生(愛知一中時代)の父上が新聞社の社長さん
会社が用意してくれた借家で3人で暮らし始めました。
新米記者はサツ回りから始めるようで、熱田警察署だった。
その借家に住んでかなり過ぎたころ、父は母に
「実はこの家は首つり自殺があった」と告げました。
母もさるもの近所の人から聞いてとうに知っていたと。
母は何も父に言わないところが面白い。二人で化かし合い?
「家賃が安くて助かった」とこのことがばれてからの父の弁でした。
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涼しくなったらあれもやろう、これもと待ち構えていたのですが
テキパキことを運べなくなりました。涼しくなりましたのに。
脱線も多いし、体も言うこと聞いてくれない。
それでも一つでも達成できた日は気分は上々です。