93歳・老大娘の日記

晩年を生きる

週休3日

2024-03-16 21:14:31 | 新聞

新聞に週休3日制導入の記事がでました。

「労働は美徳」と言われたかどうか知りませんが、戦後国民一丸となり復興を成し遂げ、

世界中から称賛されました。

私の時代は官公庁も会社、学校も土曜半日、半ドンと言われていた。

さらにその後これらはみな土曜休みになりました。週休2日制です

今また週休3日制が言われるようになりました

「♪月月火水木金金♪」この歌を知る人は極く少数になりました。

厳しい訓練で知られる海軍から出た言葉のようです。

土曜も日曜もなく働くということです。自宅でオンラインで仕事をし、出社は

週1回2回のケースもあるわけですから、時代は変わりました。

インターネット出現で第3次産業革命というのだそうですが、次なる第4次には

私はもうこの世の人ではないかもしれない。

亡夫他界25年、当時娘の家にはすでにパソコンがあり夫と訪問時に見せて

もらった。その後夫まもなく他界、ついにPCは手にしなかった。

まもなく私はPCを弄るようになりました。言うなれば私の「玩具」ですが

多くのことを教えてくれています。社会と繋がっている感もあり、私には

過ぎた「玩具」です。

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憧憬の原点

2024-03-13 20:54:52 | 想い出

四川省、玉龍雪山の山並み

主峰は未踏峰 5596M 法律で登頂は禁じられているらしい。

中国四川省旅した時、麓の村まで行った ↓ 少数民族の衣装借りて。

途中4500Mまでロープウエイで行けるらしいが、ツアーだったので乗れなくて残念!

御嶽教信者の祖父(父方)の霊神碑除幕式に「講」の皆さんや父と参加、 

右端の「包帯」巻いている碑が祖父のです。  ↓

写真は父が撮ったらしい。最前列真ん中辺りに帽子被っている私(4合目付近) ↑

8歳だったらしい。1939年

「六根清浄」とは言わなかったと思います。

高い山へは登ったことはありませんが、涸沢、焼岳(途中まで)

千畳式カール(木曽駒)その他低地はたくさん歩きました。

お山憧憬はもしかしてこの御嶽山が原点にあるのかと思います。

時代は下って道路もできてすぐ近くまで車で行けました。母や弟たちと。

雨の1日、写真整理していて1枚を除いてまた二枚でてきました。

しばし、昔の思い出に浸りました。

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難行苦行の旅行記

2024-03-05 18:09:55 | 読書

女性旅行作家イザベラ(英国)と日本人通訳の(伊東鶴吉)東北から北海道までの旅行記

イザベラの希望で日本人も歩いたことのない道をと望む。

文学作品としての評価は別として、私も知らない東北の貧しい村々に驚かされた。

時は文明開化華やかな明治初め、江戸から東京になり、特に横浜は西洋館が並ぶ街。

これらは誰もが歴史の一貫として知っています。

ところがイザベラたちは道なき道を行くのです。宿場宿場の「駅逓」で馬を乗り継ぐ。

馬子つきで三頭借りる。二頭に二人が乗り、一頭は荷物用。「駅逓」が交通手段。

雨の日はびしょぬれになり、蚤や蚊にも悩まされる。男女混浴にも驚く。

通訳伊東は立ち寄る宿場町の貧しさをイザベラに見せたくない。

整った表街道を勧めるがイザベラは聞く耳持たない。

通訳伊東は侍として矜持もあり葛藤する。旅行記にはこの貧しさ書かないでと頼む。

最初は全幅の信頼を置いていたわけではないイザベラ、

次第に信用して彼にお金を預けるようになる。また、治安の良さにも驚く。

当時すでに長崎、上海間に電信ケーブルが敷かれていたほど進んでいた。

この時代になぜ探検冒険のような旅をと尋ねる伊東、

達成感を得たいからと答えるイザベラ。

通訳伊東の父親は榎本軍の一員として函館戦争に参加、戦死したらしい。

伊東にはその真相を調べたい。イザベラの好意もあり突き止められた。

北海道は、もう旅の終り、二人は信頼の絆で固く結ばれていた。

もちろんこの旅行記は『日本奥地紀行』の邦題で出版された。

どのように描かれているか読んでみたい。

通訳の草分け的存在の伊東は第一人者となり高名な人の通訳も。

高齢になって再来日したイザベラは伊東と再会を果たし、喜び合った。

私の知らない日本が描かれていて、とても面白かった。

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タンゴ好きの私を知っている妹が誘ってくれました。

昼間なので行くことができました。女性歌手はアルゼンチン生まれ

アルゼンチンタンゴの名にもあるように「本場」から来た人らしい。

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間歇歩行

2024-03-02 11:11:18 | 想い出

門横のハナモモが咲きました。 

亡夫の故郷信州は夫の両親が生存中は毎年訪れていました。スキーに温泉にと。

地獄谷温泉後楽館の前の噴泉

この噴泉は「間歇泉」と教えられ、その時「間歇」なる言葉を知りました

時間をおいて起こったり止んだりすることです。今は間欠と書くらしい。

止まったかと思うとまた噴き上げるのです。

猿が温泉へ入ることで知られています。亡夫の親戚で確か先々代女将が従姉妹。

泊めてもらったことも。窓には猿除けの金網が張ってありました。今はどうか?

昔訪れたとき猿に何回も手に持った買い物袋をひったくられそうになりました。

後年、荷物を預けるロッカーができていました。

安心して手ぶらで野猿公苑を歩けます

今は90歳を何年か過ぎて杖ついて歩いています。「間歇歩行」です。

連続は無理ですが、しばらく休めばまた歩けます。

間歇的ですが5,000歩でも歩いています。間歇という言葉の思い出です。

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