そういう訳で、「オペラ座の怪人」読了しました。
■おフランスってトレビアン
ミステリーっぽい出だしにコナン・ドイルやエドガー・アラン・ポーを思い出し、ドキュメンタリー風の構成にはブラム・ストーカーの『ドラキュラ』っぽいなと思ってたんですが。
ファントムがクリスティーヌを地下の隠れ家に連れてった辺りから、モーリス・ルブランのルパンシリーズが頭から離れなくなりました(ルパンシリーズ、3冊くらいしか読んだ事ないんですけどね)。
あの場面、映画では絵的に映えるようにわざと派手派手な演出にしてるんだろうなーと思ってたら、原作はもっと派手だった。
そういや『奇岩城』もこんな感じだったっけと懐かしく思い出してしまいました。ファントムが姿を現さずに、手紙で指示を与える所は『八点鐘』っぽい。
これがおフランスのミステリーなのね、と妙に納得。
■たのしいダンジョン大冒険
ALW版の舞台&映画では話を三角関係に絞っているため、冒険活劇的な要素はごそっと省かれてますが、原作ではすごいです。ていうか楽しいです。
オペラ座の地下ってそこんじょらの地下室とはスケールが違うんですねー。地下五階のややこしく入り組んだ壮大な空間に舞台装置のからくりあり、貯蔵庫あり、地下水脈&地底湖あり、パリ・コミューン時代の牢獄あり。ワンダリングモンスターみたいな得体の知れない連中も住み着いている。そこへペルシア帰りの稀代の奇術師・落とし穴大好き&からくり大好きのファントムくんが住み着いて勝手に改装を重ねてる(ていうか、建築段階ですでに潜り込んでたらしい。あんたいったい歳いくつなんだ)。これはもうダンジョンですよ。ウィザードリィの世界ですよ。
これ、ピーター・ジャクソン辺りに原作準拠で違う映画を作って貰ったらそれはそれで楽しいだろうなーと思いました。ロマンス:ラウルくんの不思議のダンジョンの比率が2:8くらいで。でも巨大ゴリラでロマンスが描けるPJだったら、原作版の歩く腐乱死体みたいなファントムでも普通にラブロマンスがやれそうです。ていうか、嬉々として原作に忠実なファントムを撮りそう。
もちろんゲームも出します。ラウルになってダンジョンを攻略するヤツ(バイオハザードみたいなの)か、ファントムになって侵入者を罠にハメまくるヤツ(影牢みたいなの)。あー楽しい。
■それでも最後は愛なのね
そんなこんなで冒険者気分を楽しんでたら、最後がいきなり映画と同じようなオチでびっくりしました。
原作のファントムくんは映画のようなダンディーなおじさまではなく腐乱死体で、しかも見た目が死体っぽいからって棺桶の中で寝るお茶目さんで、芸術と心中しそうな映画版と違って、クリスティーヌとの平凡な新婚生活を夢見る小市民的な側面も持ってたりする愉快なヤツです。
そして原作のクリスティーヌは、ファントムの正体を知ってからはひたすら怖がる一方で(歌には惹かれてたみたいですが)、ラウル一筋。
だからまさか、そんなクリスティーヌが最後の最後にファントムの想いを受け止めてやるとは思ってなくて、不意を突かれてしまいました。
しかもそれに対するファントムが……たった1回のキスと涙ですべてをゆるせてしまうほど、そんなにも愛に餓えてたのかと思うといじらしいやら不憫やらで、なんとも言えない気持ちになってしまいました。
あと、映画と原作では後日談も違うんですが、よく考えたらファントムがあの後もずっとクリスティーヌに魂を捧げてたって意味では一緒なんだなあと思いました。
■映画と原作
映画の方で気になったのは、途中まで恩着せがましく「お前の歌に翼を与えてやった」と歌っていたファントムが、一番最後には「きみが私の歌に翼をくれた」に変わっていたこと。一方的な師弟関係ではなく、クリスティーヌもまたミューズとして、ファントムの芸術の成就に欠かせない存在だったことが伺えます。
これに対して原作では、何せファントムくんの野望は「平凡な新婚生活」なので……魅惑の声もクリスティーヌを釣る餌でしかないのかも。クリスティーヌは覚醒した後も、お師匠様には叶わないと思ってたみたいですしね。スゴ過ぎる原作ファントムの歌は、人間には多分再現不可能。
この点に関しては映画の方が好きですね。音楽による魂の結びつきが表現されてて。
ちなみに舞台&映画では劇中劇のオペラもオリジナルですが、原作では実在のオペラになってました。クリスティーヌの歌う夜の女王のアリアとか、ちょっと聞いてみたかったかもと思いました。『魔笛』って魔術的な内容だから、この話に似合うと思います。
追記:原作ファントムの野望が『平凡な新婚生活』っていうのも、考えてみたら切ないですね。人の羨む才能に恵まれていながら、普通の人が普通に手に入れている『平凡な一市民としての生活』だけがどうしても手に入らなかったっていう所が。
例によって、スケートのよくわからない語りです。
フィギュアスケートで言うところの「表現力」って、私の思う「表現」と多分違うよね、ということをずっと考えてて、でも考えがまとまりません。
私にとって一番大事なのは、私自身の感性なので。他人がなんて言おうが思おうが、自分が美しいと思うものを好きなように楽しめばいい、というのが私のスタンスです。
(それでもやっぱりこんな所で書き散らしてるのは、ちょっとくらいは他人様にも同意して欲しいと思ってるってことなんでしょうが)
だから実を言うと、「審査員の考えてることなんて私の知ったことか!」というのが私の本音でした。
審査員が評価するのって、結局「形」だと思うのです。仕方のないことではあります。競技としてやる以上、「形」になって現れたものを見るしかないと思います。
でも私は、表現の本質って形じゃないと思う訳です。
センスの有無っていうのは、形にならない本質を感覚的に掴めるかどうかってことになるのかな。センスって平等じゃないです。技術は訓練で補えるけど、センスってものはある人にはあるし、ない人にはない。
センスのない人は形しか見ないので崩せないけど、センスがあれば本質だけ押さえて、形の方はどうにでもできる。お手本を忠実に再現できるのが技術、お手本を応用して、本質を損なわずに自分なりの表現を創れるのがセンスってことじゃないかと思うんですが。
高橋くんの「ノクターン」を見た時、その表現の自由さに衝撃を受けました。「感じるままに滑ります」という言葉がハッタリでもなんでもなく、本当にその時の感覚をそのまま表現しているような演技。
表現の本質みたいなものを押さえてるから、形の方は自由に変えられるんだろうなと思います。
多分このプログラムには決まった完成形はなくて、演じる度にその時、その時の感覚を反映した違うもので、そしてそのどれもが正解なんだと不思議な気分になりました。ひとつの決まった理想形へ向かって完成度を高めて行くのとは根本的に違うというか。
そして多分オペラ座でも、彼はそれをやろうとしている(ような気がする)。キャンベルとスケートカナダで、もう違いますから。キャンベルの時には三人の間で揺れ動いていた意識が、スケートカナダでは終始ファントムに共鳴していた。「オペラ座」の物語自体曖昧な部分が多くて、角度によって色んな見方ができるんですよね。見る度に感想が変わるというか。彼はその、変化して行く感覚を演技に反映させているのかも知れません。ファントムに対する見方も視点によって変化する可能性はあるし(何せファントムは色々面倒な人だから)、次見る時にはまた違ったものになるかも。
そういう訳で、オペラ座原作読了しました。原作ファントムも結構好きです、私。
そういえば、「のだめカンタービレ」は音大が舞台の漫画ですが、あんまり技術的な話はしませんよね。表現の本質を捉える、感覚的な話が主軸になってます。実際の音大ではもっと技術的な勉強をするんだろうけど、それを漫画にしてもきっと素人は楽しめないだろうし、上手いなあと感心したのをふと思い出しました。大ちゃんって、ついラフマニノフつながりで千秋さんに重ねたくなるんですが、本質的には寧ろのだめや峰くんに近い人なのかも知れないと思ったりすることもあります。どうでしょう。
***
J:comマガジンの表紙がいきなりフィギュアスケートでびっくりしました。特集は日本女子中心ですが、男子も紹介してくれてます。「なまめかしい表情」って……。
***
拍手コメントへのお返事
ありがとうございます! こんな所で何ですが、お礼を申し上げたいと思います。
「目には見えないものが見えている」というのは、こういう意味でもあったりします。
ちなみに私が言う所の「妖精」って、結構怖いヤツが多いですよー(笑)。
フィギュアスケートで言うところの「表現力」って、私の思う「表現」と多分違うよね、ということをずっと考えてて、でも考えがまとまりません。
私にとって一番大事なのは、私自身の感性なので。他人がなんて言おうが思おうが、自分が美しいと思うものを好きなように楽しめばいい、というのが私のスタンスです。
(それでもやっぱりこんな所で書き散らしてるのは、ちょっとくらいは他人様にも同意して欲しいと思ってるってことなんでしょうが)
だから実を言うと、「審査員の考えてることなんて私の知ったことか!」というのが私の本音でした。
審査員が評価するのって、結局「形」だと思うのです。仕方のないことではあります。競技としてやる以上、「形」になって現れたものを見るしかないと思います。
でも私は、表現の本質って形じゃないと思う訳です。
センスの有無っていうのは、形にならない本質を感覚的に掴めるかどうかってことになるのかな。センスって平等じゃないです。技術は訓練で補えるけど、センスってものはある人にはあるし、ない人にはない。
センスのない人は形しか見ないので崩せないけど、センスがあれば本質だけ押さえて、形の方はどうにでもできる。お手本を忠実に再現できるのが技術、お手本を応用して、本質を損なわずに自分なりの表現を創れるのがセンスってことじゃないかと思うんですが。
高橋くんの「ノクターン」を見た時、その表現の自由さに衝撃を受けました。「感じるままに滑ります」という言葉がハッタリでもなんでもなく、本当にその時の感覚をそのまま表現しているような演技。
表現の本質みたいなものを押さえてるから、形の方は自由に変えられるんだろうなと思います。
多分このプログラムには決まった完成形はなくて、演じる度にその時、その時の感覚を反映した違うもので、そしてそのどれもが正解なんだと不思議な気分になりました。ひとつの決まった理想形へ向かって完成度を高めて行くのとは根本的に違うというか。
そして多分オペラ座でも、彼はそれをやろうとしている(ような気がする)。キャンベルとスケートカナダで、もう違いますから。キャンベルの時には三人の間で揺れ動いていた意識が、スケートカナダでは終始ファントムに共鳴していた。「オペラ座」の物語自体曖昧な部分が多くて、角度によって色んな見方ができるんですよね。見る度に感想が変わるというか。彼はその、変化して行く感覚を演技に反映させているのかも知れません。ファントムに対する見方も視点によって変化する可能性はあるし(何せファントムは色々面倒な人だから)、次見る時にはまた違ったものになるかも。
そういう訳で、オペラ座原作読了しました。原作ファントムも結構好きです、私。
そういえば、「のだめカンタービレ」は音大が舞台の漫画ですが、あんまり技術的な話はしませんよね。表現の本質を捉える、感覚的な話が主軸になってます。実際の音大ではもっと技術的な勉強をするんだろうけど、それを漫画にしてもきっと素人は楽しめないだろうし、上手いなあと感心したのをふと思い出しました。大ちゃんって、ついラフマニノフつながりで千秋さんに重ねたくなるんですが、本質的には寧ろのだめや峰くんに近い人なのかも知れないと思ったりすることもあります。どうでしょう。
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J:comマガジンの表紙がいきなりフィギュアスケートでびっくりしました。特集は日本女子中心ですが、男子も紹介してくれてます。「なまめかしい表情」って……。
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拍手コメントへのお返事
ありがとうございます! こんな所で何ですが、お礼を申し上げたいと思います。
「目には見えないものが見えている」というのは、こういう意味でもあったりします。
ちなみに私が言う所の「妖精」って、結構怖いヤツが多いですよー(笑)。