リョウの近況

筆不精のリョウが親・子・兄弟・親戚・友人・知人・幼なじみ達と彼らの友人達にお届けする究極のエコ便りです。

平成という時代

2019-04-25 01:22:10 | 国内
あと1週間で平成は終わり、新しい「令和」の時代になります。
皆さんは何か感じることはありますか?
昭和から平成に変わった日の事覚えていますか?


私はその日をシンガポールで迎えました。
国際電話で目が覚め昭和天皇が崩御されたという事を知りました。私は「崩御」という言葉をこの時初めて知りました。


この日は在留日本人もやはり日本からの連絡で知ったという人が多く、いろんな人から電話がかかって来ました。現在の様にネットやNHKの国際放送もなかったので同胞に日本の大きな出来事をいち早く知らせてあげようという想いだったのでしょう。一日中電話がかかって来て忙しかったことを思い出します。
特に多かったのは大使館に記帳に行きたいけれど何時から受け付けるのか? 服装はどんな服装が良いか? などでしたが正直私に聞かれても・・・ねぇ~? まるで私が窓口ででもあるかのようでしたが直接電話で問い合わせるのもちょっと敷居が高いからなどでした。


平成という時代は日本で大きな災害や事件が沢山ありましたが私自身も大きな出来事が沢山ありました。
平成元年3月に父が他界、6月にチュニジアに引っ越し、その後も日本、チェコ、モンゴル、兄の死、日本、ニュージーランドそして日本。

辛い出来事で始まった平成でしたが終わり良ければ全て良し!
今日(既に日付は変わっていますが)ママ友に誘われて亀戸天神に藤の花を見に行って来ました。
時々小雨も降りましたが思いがけずスカイツリーが目の前に大きく見え、藤の花も太鼓橋を渡る時上からの眺めになりとても見ごたえがありました。
まだ行った事の無い方は是非この連休に行ってみてはいかがでしょうか?




卒業式の思い出

2019-03-18 02:57:26 | 国内
3月は卒業シーズンですね。最近街で羽織袴の女子学生をよく見かけます。中には外国の観光客の人が羽織袴で歩いているのも見かけますが持ち物で卒業生か観光客かは分かります。

皆さんは心に残る卒業式の思い出はありますか?
私は一つだけ思い出深い卒業式があります。
沢山の知識を得、人生で一番勉強をしたな~という達成感がありとても嬉しく思った日です。

私は2000年のミレニアムの年に何か心に残る事を始めようと考えていました。
それでこの年からパソコンを始めようと思い先ずパソコンを買いました。

私の周りでパソコンを使っている人がいなかったので説明書を読みながら全て自分で設定しました。パソコン用語も知らなかったので何かと大変だったという一言に尽きますが、文字を読むことは好きなので何とか設定することが出来ました。

準備が出来れば先ずはインターネットです。その頃テレビで「放送大学」のCMを毎日のように目にしていて気になっていたのでホームページを開いてみました。そして資料を取り寄せることにしました。資料は直ぐに届きましたが気になりながらも毎日の生活に追われそのままにしていました。

ある日友人が、浅草の浅草寺への初詣に誘ってくれました。本堂の中まで入ってのお参りです。終わっておみくじを引きました。
「今一番気になっているやりたい事を始めるには今が最高の時期です。迷わず始めましょう」
と書かれていたのです。単純な私はそこで「放送大学」に入学すると決めました。家に帰ると放送大学から「迷っているようでしたらまだ間に合います。直ぐにお手続きを・・・」という内容の封書が届いていました。何てグッドタイミング。勿論直ぐに手続きをしました。

放送大学は文部省認定の大学です。主にテレビやラジオで勉強するのでNHK学園と間違えている人も多いのですがそれとは違います。普通の大学と同じように卒業するには既定の単位取得が必要ですし、教師の資格を取りたい人はそれも可能です。教育実習もあります。
何と言っても学費が安いことが魅力です。私の時は1科目(1単位)4,000円くらいだったと思います。

2000年の4月から私は大学生になりました。そして6年かかりましたが無事卒業しました。
千葉の幕張メッセで卒業式がありました。全国から集まっているので数千人いました。
空も晴れ渡り風もなくとても穏やかな春の一日でした。







観梅

2019-03-04 21:11:38 | 国内
2月はいろんなところで梅まつりが行われていました。
今年は3回も梅まつりに行って来ました。

1回目は2月20日(水)湯島天神の梅まつりです。梅の樹は約300本だそうです。
25年前に知り合った息子のママ友と一緒です。
5分咲きと言ったところでしょうか。雲一つない青空で気温も20℃近くまであり暑いくらいでした。
人が多くて中々納得のいく写真が撮れませんでした。

その後、重要文化財に指定されている旧岩崎邸庭園が直ぐ近くにあることを知り急遽そこにも行って来ました。急に提案した旧岩崎邸庭園行きですが気心知れたママ友も即承諾してくれました。
ここはず~と前から一度行ってみたいと思いながらまだ足を運んだことがなかったのです。写真を撮ってこなかった事が心残りです。

2回目は2日後の22日(金)、世田谷区羽根木公園の梅まつりです。
この公園はパソコン教室の近くにありますが私は一度も行った事がありませんでした。
教室の人たちが書いているブログには1年を通して何度も羽根木公園の事がUPされています。
その中でも梅まつりは盛大で今年は42回目とのことです。公園には700本以上の紅白の梅があるそうです。
天気予報では日中曇り、夕方から雨となっていましたが予想を反してほとんど雲の無い青空で暖かく良い天気になりました。

この日の本来の目的はやはり同じパソコン教室の先輩でブログを通して知り合ったSさんとおしゃべりをすることでした。同じ教室でも曜日も時間も違うのでお会いしたことは無かったのですが先月「三土代會(みとしろかい)」という伝統あるお餅つきの件で初めてお目にかかりお世話になりました。
この「三土代會」についてはまた改めて記事にしたいと思っています。

羽根木公園の直ぐ近くにお住いのSさんと待ち合わせ、園内を案内していただきました。売店で毎年一番人気で売り切れることが多いという「梅大福」と「梅まつり」というお饅頭を買って帰りました。どちらも掛け値なしに美味しかったです。どちらも梅そのものが丸ごと1個入っています。酸っぱくないけれど甘すぎでもなく絶妙の美味しさです。甘い物はあまり口にしない夫も「これは美味しい」と言っていました。

その後近くの人気のカフェで美味しいケーキとコーヒーをご馳走になりました。人生の在り方に共感することが多かったので是非お話をしたいと時間を割いていただきました。この日も本当に充実した実りある良い1日でした。ご馳走さまでした。

3回目は2月24日の日曜日です。
再び羽根木公園に行って来ました。この日も穏やかな暖かい日に恵まれました。
Sさんが送ってくれた梅まつり実行委員会作成の「世田谷梅まつり」の小冊子に24日にお餅つきが3回あると書かれていました。このお餅つきは毎年「三土代會」が担当するとSさんから聞いていたのです。
この日は梅よりも、お餅つきを見たくて正午からの時間に合わせて行きました。
出来上がったお餅は無料で配られるそうで長蛇の列でした。
私は写真を撮りたかったので人が並んでいない所に行き広い所で見ることが出来ました。
お餅を搗く時間は1回で約5分です。正午の回だけでも5~6回(もっとかな?)は搗いていたと思います。
その後1時半からの受付が始まったので私も並びました。2個のお餅、あんこときなこは搗き立てでどちらも美味しかったのは言うまでもありません。

たまたま隣に並んだ地元のおばさま(大阪のおばちゃんとは違います)とずっとおしゃべりをして思いがけなく貴重な時間を過ごしました。
隣の駅の豪徳寺という所に住んでいるとの事。豪徳寺も訪ねてみたい所の一つだったのでいろいろ教えて頂きました。招き猫はいつでも沢山おかれていること、春も良いけれど秋は紅葉がとてもきれいなので秋にも是非行ってほしいとの事でした。
この豪徳寺もブログには良く出てくるところなので行ってみようと思っています。
梅大福も梅まつりというお饅頭も完売で買えませんでした。来年に期待!


パソコンの調子が悪く急にメールの送受信ができなくなりました。今は全く問題はありませんがブログUPの出鼻をくじかれました。

下の写真の1枚目は湯島天神の梅です。
2枚目と3枚目は羽根木公園の梅です。24日はほぼ満開でした。












記録的な寒気

2019-02-10 02:31:15 | 国内
9日(土)は観察が始まって以来の記録的な寒気がやって来るらしい。都心でも雪が降り2㎝~5㎝位は積もるとのこでした。東京でも私が住んでいる所は日付が10日に変わる頃やっと降り始めました。

ワイドショウなどでもー10℃、ー20℃ではバナナやタオル、洋服などは数分でこうなりますと実演して見せてくれていました。
正直「凄いな~」とただ驚き!でしたが私は実際それ以上に凄い所に住んでいたんだな~と他人事の様に見ていました。

2009年11月末に気温+6度のチェコのプラハからモスクワ経由でモンゴルのウランバートルに引っ越しました。夫の転勤の為です。

到着したのは早朝で地上の気温は-27℃とアナウンスがありました。
飛行場の中は暖かく-27℃の実感はありませんでしたが一歩外に出た瞬間に実感しました。
それは顔に小さい何かがプチプチプチっと当たったのです。痛かったです。
外があまりにも寒かったので瞬間的に「うわ~っ!」と悲鳴を上げてしまいました。その時吐き出された息が凍って丸い粒になって私の顔に当たったのでした。後で説明を受けて納得しました。

モンゴルでは-20℃、-30℃では驚きもしません。流石に-40℃、-45℃となるとモンゴル人は家畜の事が心配で心配でどこに行ってもその話ばかりです。

私たちが行った最初の年はゾド(雪害)と言って気温は-45℃までになった所がありました。
そして真冬はあまり降らない雪が50㎝も積もったのです。そして家畜がたくさん死にました。家畜は彼らの財産なので本当に深刻な問題です。世界中から援助の手が差し伸べられました。勿論日本からも援助を受けました。

モンゴル人がなぜ50㎝ごときで顔色を変えてそんなに心配するのかと顔には出しませんでしたが最初私は内心呆れていました。日本では1mや2m積もる所も沢山あるよと言いたかったのですがモンゴル語がほとんど話せなかったので黙って聞いていました。

なぜ真剣なのかは直ぐにわかりました。
家畜の餌は草原に生えている草なのです。冬場は枯れてはいますがそれでも夏に生えた残りがあるのです。そのまだ生えている草を求めて遊牧するのですが冬の草は丈が短いので雪が積もるとヤギや羊は雪を取り除くことが出来ず飢え死にしてしまうのです。
少しの雪なら牛や馬は足で雪を取り除いて食べることが出来るそうですが50㎝は馬でも大変でその年は多くの家畜が死に遊牧民が財産を失いました。

テレビの画面はいつも現在の外の気温を表示


表示を拡大


我が家のベランダ側から家の内側に向けて温度計(日本製)を張り付け外出する時はいつでも確認


車の外気温が-30℃の表示になっているのに気付きパチリ! しかしこの車はトヨタのランドクルーザーなのですが日本仕様なので-30℃までしか表示できないのでは? この日は本当はもっと気温は低かったのでは?との声もあり


母の様子

2019-01-31 23:12:20 | 国内
昨年11月中旬、母が入居している施設から電話がありました。
母がその頃熱を出すことが度々あり病院に連れて行ってはいるけれどこの先の事を考えておいて欲しいと。早い話終活をどうするかという事を聞かせておいて欲しいとのことでした。
身内や近い親戚、友人などに相談して全員一致で延命治療はしないことを施設に伝えることにしました。
何よりも母が延命治療は望んでいなかったという事もありました。
若いころから度々口にしていたからです。ですから私もそれ程抵抗もなく、やはり神様の思し召しに納得しようと思いました。

そして12月上旬その事を伝えるために母の所に行きました。
そこでとてもショックな出来事があり私はかなり落ち込んでしまいました。

この日私は甥と一緒に母の所に行き母にいろいろ話しかけていました。その時この施設常駐の看護士さんが母の部屋に来て母の頭のすぐ側で
「○○○○さんの最期の看取りをどこでしますか? 病院に連れて行きますか? それともこの施設で最後を看取りますか?」など、今にも母が最期の時を迎えるような話をするのです。

私も甥もびっくりしました。何もそんな話をここでしなくても! 私は泣きそうで立っているのが精一杯でした。母は聞こえていたと思います。
その日帰る時、母は目に一ぱい涙を溜めていて最後にポロっと頬を伝いました。今まで別れる時に泣いたことは一度もなかったのに。
この日から母の涙顔が頭から消えなくて私を苦しめていました。

新年を迎えても何か落ち着かず居てもたってもいられず夫に相談して1月21日(月)~25日(金)まで母に会いに九州に行って来ました。

1日目の母は今までになく上機嫌でニコニコして迎えてくれました。。
最近は声を出して話はできない程になっていて、こちらから問いかけると頷いたり、首を振ったりするくらいでした。
一緒に面会に行った従妹が去年台湾に行って来たという話をすると生き生きした目で嬉しそうでした。
「おばちゃんも行きたい?」と問いかけるとはっきりした声で「行きたい!」と言ったのです。
母は台湾で生まれ終戦までの20年間台湾に住んでいました。台湾の話にはとても興味を示しました。

2日目はお風呂の順番を待っている時でした。ちょっと周りがざわざわしていた為かあまり反応はなく、お風呂上りも眠いようだったので2時間くらいで帰って来ました。日によって体調には波があるようです。

3日目は甥と行きました。甥には台湾の話をするととても喜んだという事を伝えていたので学生時代の同窓会名簿があったはず、と探して一つだけ見つけ見せました。タイトルを読んであげるとこれまた大きな声で「あ~っ!」と言ってとても嬉しそうでした。

また私が10年以上前にパソコン教室に通い始めた頃作ったカレンダーの写真を切り取って側に置いていました。その写真は母のお父さん(台湾で亡くなったので面識はありませんが)の写真です。その写真を目の前で見せながら名前を告げると「分かる」と言って何度も頷きながらずっと眺めていました。
やはり台湾の事はとても良く覚えているようで目の輝きも違っていました。

4日目は最後の日でしたが涙を流すこともなく「また一緒に台湾に行こうね」と言うと「うん、行きたい!」と言って笑顔で別れてきました。

ずっと心に重くのしかかっていた私の心は見違えるようにすっきりしました。いつ何が起こってもきっと母の笑顔だけが心に残ることと思います。
空を見上げると私の大好きな雲一つない青空でした。

初日に12月の失礼な看護士さんのことを事務局の人に言っておいたのでその人を特定できたようです。事務局に居た人たちが申し訳なかったと頭を下げてくれ、2度とこのような失礼なことが起きないように気を付けますと言ってくれました。新人さんだったようです。

今回母に会って来て本当に良かったと思いました。
今は心身共にスッキリ元気になりました。

初日の出

2019-01-21 20:52:59 | 国内



おはようございます。
我が家から見た初日の出です(1月1日撮影)

お天気も良く、スカイツリーもはっきり見えて今年は良い年になりそうです。
スカイツリー分かりますか? ちょっと分かりにくいですが、2本並んで見える塔の右側の塔がスカイツリーです。

母に会いに今日九州に来ました。
何時もiPadを持参していたのですがいろいろ使い方が分からず四苦八苦していました。
やっと今回使えそうな予感がします。
ホテルにチェックインした後、先ずはブログをUPしてみます。
上手くいけばお慰み❗️

2019年ブログ始め

2019-01-19 16:02:53 | 国内
新しい年2019年もスタートし1月も半分が過ぎてしまったというのにスロー・スタートでごめんなさい。

皆様は穏やかに新しい年をお迎えの事とお慶び申し上げます。
遅ればせながらおめでとうございます。
今年も宜しくお願いします。


さてこの私の去年は500日くらいあったのでは? と思うほどなかなか1年が終わらないような感じでした。長い長い1年でした。
3月末帰国し糖尿病の定期検診に行ったところ、すい臓に異変を表す数値が極端に高く、すい臓ガンを疑っていろいろ検査をしました。結果はガンではなく引っ越しや環境の変化で数値が上がっただけだったようです。
またメラノーマの疑いで5月に足のホクロ1個、7月に顔のホクロ3個の摘出手術を受けました。こちらも全てガンではなかったのでホッとしました。

検査の結果が出る前の4月中旬に九州に居る母の所に行って来ました。
NZに出発する前は自分で歩いて玄関まで見送ってくれた母はすっかり元気をなくして寝たきりの状態でした。その間遺漏(いろう)の手術もしていました。寝たきりで話すことはあまりできませんでしたが私が話すことは理解していました。
7月中旬に施設の方から電話があり、最近母の体調があまり良くないとのことだったので9月になって(顔に絆創膏などがまだペタペタあるも)母の所に行って来ました。
11月、母は入退院を繰り返しているとの連絡があり今後の母の在り方(人生の終わり方)を少しづつ考えておいて欲しいとの連絡がありました。最初は具体的に何のことか分からなかったのですがいわゆる延命治療をするかしないという事でした。

母は健康な若い時から延命治療は嫌だと声を大にして言っていたので分かっていたのですがそれを私が最終通告の様に言って良いのだろうかと悩みます。でも家族やいつも交流のある近い親戚の人たちと相談して決断しました。
12月また九州に行き延命治療はしませんと伝えました。
母は今年4月に93才になります。神様が決めてくれる通りに自然に任せてあげた方がいいのでは?という多くの人が言う言葉にホッとしました。

こんな日々を過ごした1年でしたが11月の3連休には息子と娘家族で伊勢神宮に行き、年末は夫も加わって1泊2日で伊豆高原に、新年の1月5・6日は八ヶ岳に行って来ました。
夫の母もあまり体調が良くないので遠出はできません。近場を皆で楽しんで来ました。
3回とも富士山と空が素晴らしく綺麗で本当に癒されました。

落ち込んだ日々も沢山ありましたが何かが吹っ切れ、皆に癒されて、残された人生を楽しく生きて行こうと思っています。
明後日からまた九州に行って来ます。

キリル文字のメール

2018-11-16 22:40:38 | 国内
先日、突然キリル文字でメールが届きました。
キリル文字とは主にロシアで使われている文字の事です。

めったにないことですが時々英語でメールのやり取りをすることがあります。しかしキリル文字でメールのやり取りをしたことは一度もないしできません。(少しは読めます)
迷惑メールかと思って削除しようと思った時、送信者の名前に心当たりがあったので取り敢えず保留にしておきました。なぜならモンゴルでもキリル文字を使っているからです。
でも私がモンゴル人とメールのやり取りをするときは日本語かローマ字だけでした。

その後すっかり忘れていたのですが思い出して開いてみました。
するとその送信者は紛れもなく我が家で雇っていた運転手からでした。
友人から私のアドレスを教えてもらったのかもしれません。私がモンゴルに居る時は彼はまだインターネットはしていなかったのでメールでやり取りをしたことはなかったのです。

私は彼の家族とはとても親しくなり沢山のモンゴル語を覚えました。彼の3人の幼い子供たちとは孫の様によく遊びました。奥さんも子供たちも日本語は全くできませんが何とか意志は通じていました。
メールには サェンバイノー?(こんにちは)から始まって私の夫や息子、娘家族のこともどうしているのかと書いていました。(息子も娘家族もモンゴルに遊びに来たので良く知っているのです)
そして自分の子供も4人になり現在の状況も書かれていました。最後にヤポニー・エメー(日本のおばあちゃん)にまた会いたい。またモンゴルに遊びに来て欲しいといつも子供たちが話していると書かれていました。
モンゴルの孫たちがまだ私の事を覚えていてくれているという事はとても嬉しく思いました。
まだモンゴル語を忘れていなかったことも嬉しかったです。

さて返事はどうしましょう? 私はキリル文字で文章は書けないのです。

先週の「世界ふしぎ発見」

2018-10-16 22:40:51 | 国内
暑がりの私でもこのところ外出する時は、涼しくを通り越して寒くなってきたことを実感しています。家の中ではまだ半袖ですが。
皆様は大丈夫ですか? 風邪などひかないようにお気を付けください。

先週土曜日のテレビ番組「世界ふしぎ発見」はモンゴル特集でした。そこに懐かしい人が出ていました。
モンゴルでは国民的な大スターのソソルバラムさんが歌手の八代亜紀さんのモンゴル公演をプロヂュースしたそうで、その時の様子が放送されました。

ソソルバラムさんは1990年の民主化運動の英雄でそれまでの社会・共産主義から自由を勝ち取るための改革運動を起こした人たちの一人です。その時彼はまだ30才でした。
彼は現在、歌手、俳優、舞台のプロデューサー、そして文化芸術担当の大統領顧問でもあります。小学生以上のモンゴル人で彼を知らない人はいないと言われている程の国民的スターなのです。

1990年にモンゴルは無血革命に成功し民主主義と資本主義経済になりました。そして国の名前もそれまでの「モンゴル人民共和国」から「モンゴル国」に変わりました。
革命直後、自由を勝ち取ったものの経済は大混乱していました。
その時いち早く救いの手を差し伸べたのが日本だったそうです。その為多くのモンゴル人は日本に感謝し、日本が大好きなのです。

元の話に戻ります。彼の自宅はモンゴルでの我が家と同じマンションの3つ上の階でした。
初めてお会いした時は我が家の運転手が興奮して彼の事を詳しく私に教えてくれました。
すれ違った後でしたがミーハーな私はすかさず声を掛けました。
その時以来会った時はいつも挨拶を交わし一言二言話すこともありました。お元気そうで何よりです。
ただ私が会う時はいつも私服のTシャツに短パン又はジャージ姿ばかりなのです。しかも髪は後ろで一つに束ねているのでチンギス・ハーンの姿で飛行機に乗り込んできた時は気が付かなくて失礼したこともありました。

番組でも言っていましたが、モンゴルの歌は日本人にも心に響くものがあって、私は言葉が全く分からないときはいつもテレビで歌を聴いていました。哀愁があって言葉が分からなくてもとても良い歌が沢山ありました。
その反対にモンゴル人も日本の歌は心に響くものがあるのでしょう。

日本の歌は演歌や歌謡曲に限らず、Jポップス、童謡、小学唱歌でもみんな大好きです。
最初に我が家で夫の仕事関係のモンゴル人たちをお招きしたパーティーでの時いろいろ教えてくれました。
その中でも印象深い歌は
「北国の春」この曲はアジアではほぼどこの国でも広く知られた曲ですが中国人だけはこの歌は中国人が作った歌だと言って譲らない人が多いです。モンゴル人は日本の歌と知っています。
どの国でも日本語で歌われるのは勿論ですが自国の歌詞に訳されていることも多いです。

驚いたのは「鉄道唱歌」です。「汽笛一斉新橋の~・・・?」という歌詞から始まる長い歌です。年配の人がずーっと日本語で歌ってくれました。私はこの歌を子供の頃聞いたことはありますが何番までも歌えません。かなり長いのです。

もう一つ、ピンキーとキラーズの「恋の季節」です。ほぼ全員で大合唱しました。
この曲はモンゴルがまだ社会主義国だったころの唯一の娯楽である映画で見たそうで、その中で歌われた曲だと言っていました。
私もこの曲は大好きで良く歌っていましたが、この曲と同じタイトルの映画があったことは知りませんでした。勿論ピンキーとキラーズが出演していて山高帽と黒い衣装で踊りながら歌っていたと真似をして見せてくれました。

「お馬の親子は仲良しこよし~」正確な歌のタイトルは分かりませんが、この曲はウランバートルでのごみ収集車がこの曲を鳴らしながら回っています。ゴミ収集車も日本の中古車で「これは日本国民からおくられた車です」というシールが貼ってありました。

懐かしく楽しい思い出タイムでした。

元貴乃花親方

2018-10-10 02:58:51 | 国内
お久しぶりです。
沢山の方に立ち寄っていただいていますのに更新が滞っていて申し訳なく思っています。
書くことの苦手な私は書きたいことは山々あるのになかなか筆が進みません。

さて、先日貴乃花親方が突然相撲協会を引退(退職)した事に驚いた人も多かったと思います。私もその一人です。とても残念でなりません。しかも貴乃花部屋はもうなくなってしまったのです。


私はモンゴルに4年2カ月住んでいました。
最近、貴乃花親方のことが話題になることが多く、その為かモンゴル時代に見聞きした相撲の事を良く思い出します。

モンゴル人はモンゴル相撲(ブフ)よりも日本の相撲の方が好きなようです。決着が早くつくからです。
モンゴルに行ったばかりの頃、大相撲が始まると全てのテレビ局は大相撲を生で放送していました。もちろん日本語です。しかも日本ではまだ放送されていない時間帯の幕下や十両の取り組みまでも早い時間から放送していました。多くの女性は大相撲が始まると全ての放送が相撲になるのでうんざりしていました。

朝青龍が引退してからは少し日本の大相撲の人気も下がりました。そしてテレビも2局(?)くらいでの放送になりました。

そして朝青龍はとても人気がありました。今でも国民のヒーローです。
朝青龍引退騒動の時は日本のマスコミでは多くのモンゴル人が怒っていて日本大使館に抗議に行くというような放送があったそうですが私の周りではそのようなことは全くなく皆冷静でした。
郷に入れば郷に従えで、日本の国技の横綱なんだから横綱らしい品格は持たなければいけない、暴力はどこの世界でもやってはいけない事と言っていました。
何度も注意を受けていたのだからやめるのは残念だけど仕方がないと納得していた人が多かったです。

大使館からは一応「抗議のデモがあるかもしれないので外出は控えるように」と言われましたが、我々は、抗議に来る人なんていないと思っていました。だって外は昼間でも-30℃の世界なんですから。そしてデモはありませんでした。

八百長問題が発覚した時は驚きました。多くのモンゴル人の友人たちが「八百長問題はモンゴル人が持ち込んだことだと思います。申し訳ないです。」と謝るのです。
街を歩いていても、買い物をしていても全く知らない人から同じことを言って謝られました。八百長を広めたのはモンゴル人ですと。

そして分かったのです。モンゴル相撲では勝った人が次の試合の相手を指名するそうです。相手が確実に自分より弱い人なら良いのですが同じくらいの力の時どうしても勝ちたい人は話し合いをしてお金を払って勝ち星を得るそうです。
例えば彼女やその親などに強い自分を見せたい時などです。
そしてお金で勝ちを得ることはお互い様なのでそれ程悪い事とは思っていないというのです。

私がブフに興味を持ちいろいろ聞いていた時、自分の知り合いにブフの選手がいる。彼はとてもお金持ちだというのです。なぜならトヨタのランドクルーザーを2台も持っているとのことです。
その人は強い人なのかと思ったら弱くて負けてばかりだと笑って言うのです。
なぜそれでお金持ちになるのか聞くと、いつも八百長をやっているからと笑っていました。

朝青龍が国民のヒーローというのは、家があまり裕福ではなかったので八百長はできなかったそうです。しかしモンゴル相撲の横綱までになったので本当に強い人だと皆が知っていて、日本でも横綱になりモンゴルという国を世界中に広めてくれた人だからという事のようです。

こんなことを思い出す今日この頃です。

モンゴル互助会というのがあって時々集まって飲んだり食べたりしているそうですね。
八百長をそれ程悪い事と思っていない人たちが集まっていると・・・?

元貴乃花親方が本気で今の大相撲を改革しようとしていたことは間違いないと私は思います。

暑さに強い?

2018-09-03 23:00:39 | 国内
一時期より多少涼しくなりましたね。テレビでは毎日のようにうだるような暑さ、猛暑、酷暑という言葉が何度も使われていました。
手元の温度計では38℃、39℃ 40℃越え?などという事も伝えていました。

気象庁では25℃を超えると夏日、30℃を超えると真夏日、35℃を超えると猛暑日という言葉を使っているそうです。
正式には酷暑日という言葉は使っていないそうですが、その内40℃を超える日を酷暑日などという言葉を使うようになるかもしれませんね。
また熱帯夜というのは夜間の気温が25℃以上の時の事を言うそうです。

私自身暑いことは暑いし沢山汗も掻きますがそれ程辛いとは思っていないのです。
先日家族にその事を話しました。すると我が家の皆が私と同意見なのです。
なぜそれ程でもないと思うのでしょう。

約30年前私たちはチュニジアに住んでいました。
チュニジアはアフリカ大陸の北の端、地中海に面した小さな国です。南部はサハラ砂漠の一部になっていて一年中熱いのです。

日本から持参した温度計は50℃までしか図れませんでしたが、日中直射日光に当てると2~3分で直ぐに50℃まで上がっていました。最初は50℃まで上がると温度計が破裂するのではないかと怖かったのですが破裂しないことも分かりました(笑)
車の中の温度計は70℃まで図れましたが日中屋外に駐車している時はいつも70℃のメモリを振り切っていました。
この国では暑いというより、痛いという言葉の方がふさわしい感じでした。
日中は外に居ると本当に痛さを感じるくらいに暑いのですが、夜間は外に居ると寒いくらいです。
あまりにも暑いので体を寄せ合っていた方が涼しいよと言われます。体温の方が低いからです。

一年中熱くてもエアコンや扇風機のある所は高級ホテルくらいでした。
我が家もエアコンは勿論扇風機もありませんでした。あるのはウチワだけです。
しかし石造りの家だからなのか1歩家の中に入るととても涼しく感じました。それでも室温は年中30℃ありましたが。

まだ着任したばかりの頃、暑いので窓を開けると強烈な熱風が入って来て慌てて窓を閉めたものです。前任者が「暑い時は窓を閉めておいた方がいいですよ」と言っていたのを実感しました。

車に乗る時はいつも4つのドアを全て開けエンジンをかけ、エアコンを最強にして室内の空気を入れ替えます。2~3分待って乗り込み窓を全部開けてしばらく走行します。少し落ち着いたら窓を閉めるという感じです。
近い所に行くときは車内の空気が冷える前に到着していました(笑)
懐かしい思い出です。

熱中症

2018-08-25 00:29:15 | 国内
最近テレビを観ていると「殺人的な暑さ」とか「死の危険がある暑さ」「スーパー猛暑」などという言葉が使われていますが熱中症にはなりませんでしたか?

私は先月、もしかすると熱中症? と感じる時がありました。

7月の中旬から下旬にかけて何だか胃に違和感があるのです。痛くも痒くもないのですが今まで経験したことのない違和感です。熱もなく頭痛や吐き気もなく、寝込むほどの事でもないのです。胃の違和感だけです。
こんなことが2・3回ありました。それ以上ひどくはならないのですがいくら考えてもどうなっているのかわかりません。ちょっと横になってみようと思ってもそれほど辛いわけでもないのですぐに起きてしまいます。

テレビで毎日のように言っていた「高齢者は自分が脱水症になっているという事に気が付かないことが多い」という事を思い出しました。
私も高齢者の一人。もしかして脱水症かも?と思い取り敢えず直ぐにお水を飲みました。コップ1杯くらいです。するとあ~ら不思議! 本当に直ぐ違和感はなくなりました。
軽い脱水症だったんだと思います。それ以来こまめにお水を飲んでいます。勿論それ以来体の違和感はありません。

先日娘に会った時その話をしました。すると娘も同じような感じの時があり、これは脱水症かもと思い、いつも一人の時はつけていないエアコンのスイッチを直ぐに入れたとの事です。

他にもそんな経験があったという知人が3人います。ちょっとしたことですが大事に至る前にお水を飲むかエアコンのスイッチを入れましょう!


エアコンはこまめにスイッチを切るよりはつけっぱなしの方が電気代は安いと聞きました。
それを聞いて我が家ではほぼ毎日2台のエアコンを使っています。6月中旬からはフル活用です。
それでも電気代は6月は6千円台、7月は1万2千円台でした。

2014年に日本に帰ってきた時は東京電力でした。その時の夏は1台でこまめにスイッチを切ってはいましたが電気代は1万3千円前後でした。
1・2年前?電気が自由化されたそうで我が家ではこのマンション系列の電機会社と契約をしました。エアコン自体は2014年に買った同じものを使っています。

抜糸と検査の結果

2018-08-12 00:01:01 | 国内
昨日(8月10日)、先日手術をした3ヵ所の抜糸の為病院に行ってきました。
手術の日と同じくスッピンの顔をさらすのを申し訳なく(?)思いながらも開き直って帽子を深くかぶりバス、電車、地下鉄を乗り継いで行ってきました。

傷口はきれいになっていました。大きくて白いガーゼが取れ、今度は小さく白いテープだけになりました。
これを1週間貼ってその後肌色のテープに変わります。

そして前回は1週間後の抜糸でしたが今回は一つ一つの傷の中を縫っていないので念のため2週間後の抜糸でした。
1日前に検査の結果が出たとのことです。
3つとも良性とのことで安心しました。
ご心配をおかけしましたが大丈夫ですのでご安心ください。

この内2つは成長していたのでいづれはガンになる可能性が大きかったと思います。
「今取っておいて良かったですね」と言われました。自分でもそう思います。

母の具合が以前より少し悪くなっていると施設の方より連絡がありました。
そちらも心配ですが私のメディカルチェックの予定がもう少しあります。
それが終わったらまた九州に行ってきます。

まだまだ暑い日が続きそうですね。
皆様ご自愛くださいね。

手術

2018-07-27 23:07:08 | 国内
昨日予定通り3つのホクロの除去手術をしました。

今回は顔のホクロ、もしかしたらガンかもしれないと思われる3つを除去しました。(一度に沢山は取れないとの事)
主治医だけではなく、もう一人の先輩医師と二人で執刀することになったようです。
顔だからかその先輩医師は「本当に手術をするのですか? これからも手術をする気持ちですか?」というような質問をしてきました。
私だって好きで手術をしているわけではなく、少しでもガンかもしれないと疑われるならば早く取ってしまいたいと思うだけです。

前にも書いたかもしれませんが今年になって急にホクロが増え、この日取ったホクロの2つ(左瞼と左頬)は今年の1月に出来たものです。
残りの1つ(左唇の少し上)は子供のころからあったものですが、医師同士の会話(専門用語)からはどうもこの1つはガンの可能性が大きいような気がしました。
抜糸は8月10日(金) 早ければこの時検査の結果が分かるかもしれないが、間に合わなければ再度予約を取ることになっています。

家を出る時お化粧をして出かけるか、スッピンで出かけるか迷いましたが病院でお化粧を落とすのも面倒だし、知り合いに出合う事もないだろうしとスッピンで帽子を深くかぶって出かけました。(都心までバスと電車を利用)
途中で辺りを気にしてチラッと見まわしましたが誰もこちらを見ている人はいなく、ほとんどの人はスマホを見ているか足元を見ていたので自分が心配していたことに笑ってしまいました。

今度どこかでお会いする機会があった時傷物の顔に驚かないでくださいね。(笑)



病院

2018-07-03 23:31:55 | 国内
7月2日(月) 予約していた病院に行ってきました。

消化器内科=すい臓がんの疑いでの再検査の結果全く問題がないとのことで一安心です。

内分泌代謝科=糖尿病の為の3カ月に一度の検査です。今回の数値は全て悪くなっていました。

原因は日本に帰って来て何もかもが美味しくて誘惑に負け、ついつい食べ過ぎてしまった事、
もう一つは極端に紫外線を気にして外に出たくないという引きこもり状態だったことが原因だと思っています。
一歩も外に出ない日々が続きました。体重も2KGも増えてしまいました。
反省! 次回は数値が改善されるよう努力します。

皮膚科=今回は全身のホクロを診て頂きました。

医師が気になるホクロがいくつかあるそうで、その内3つを取り除く手術を7月26日にすることになりました。
5月に足のホクロを取り除いたところの傷はほとんど分からなくなっています。(日本の医療は凄いです)

1日で3つの科を受診できるので総合病院は便利ですね。

まだまだ病院通いは続きますが日本なので何の心配もしていません。
紫外線も考えようによってはNZの8分の1ですもの、大したことは無いと思えるようになりました。これは自分に言い聞かせている言葉です。
皆さんはきちんと紫外線対策をした方が良いと思います。

多くの人から元気を頂いたので前に向かって歩き始めることが出来そうです。
今月からまたパソコン教室に通うことにしました。


心配をおかけしていますが一応ご報告しておきます。