昨年11月中旬、母が入居している施設から電話がありました。
母がその頃熱を出すことが度々あり病院に連れて行ってはいるけれどこの先の事を考えておいて欲しいと。早い話終活をどうするかという事を聞かせておいて欲しいとのことでした。
身内や近い親戚、友人などに相談して全員一致で延命治療はしないことを施設に伝えることにしました。
何よりも母が延命治療は望んでいなかったという事もありました。
若いころから度々口にしていたからです。ですから私もそれ程抵抗もなく、やはり神様の思し召しに納得しようと思いました。
そして12月上旬その事を伝えるために母の所に行きました。
そこでとてもショックな出来事があり私はかなり落ち込んでしまいました。
この日私は甥と一緒に母の所に行き母にいろいろ話しかけていました。その時この施設常駐の看護士さんが母の部屋に来て母の頭のすぐ側で
「○○○○さんの最期の看取りをどこでしますか? 病院に連れて行きますか? それともこの施設で最後を看取りますか?」など、今にも母が最期の時を迎えるような話をするのです。
私も甥もびっくりしました。何もそんな話をここでしなくても! 私は泣きそうで立っているのが精一杯でした。母は聞こえていたと思います。
その日帰る時、母は目に一ぱい涙を溜めていて最後にポロっと頬を伝いました。今まで別れる時に泣いたことは一度もなかったのに。
この日から母の涙顔が頭から消えなくて私を苦しめていました。
新年を迎えても何か落ち着かず居てもたってもいられず夫に相談して1月21日(月)~25日(金)まで母に会いに九州に行って来ました。
1日目の母は今までになく上機嫌でニコニコして迎えてくれました。。
最近は声を出して話はできない程になっていて、こちらから問いかけると頷いたり、首を振ったりするくらいでした。
一緒に面会に行った従妹が去年台湾に行って来たという話をすると生き生きした目で嬉しそうでした。
「おばちゃんも行きたい?」と問いかけるとはっきりした声で「行きたい!」と言ったのです。
母は台湾で生まれ終戦までの20年間台湾に住んでいました。台湾の話にはとても興味を示しました。
2日目はお風呂の順番を待っている時でした。ちょっと周りがざわざわしていた為かあまり反応はなく、お風呂上りも眠いようだったので2時間くらいで帰って来ました。日によって体調には波があるようです。
3日目は甥と行きました。甥には台湾の話をするととても喜んだという事を伝えていたので学生時代の同窓会名簿があったはず、と探して一つだけ見つけ見せました。タイトルを読んであげるとこれまた大きな声で「あ~っ!」と言ってとても嬉しそうでした。
また私が10年以上前にパソコン教室に通い始めた頃作ったカレンダーの写真を切り取って側に置いていました。その写真は母のお父さん(台湾で亡くなったので面識はありませんが)の写真です。その写真を目の前で見せながら名前を告げると「分かる」と言って何度も頷きながらずっと眺めていました。
やはり台湾の事はとても良く覚えているようで目の輝きも違っていました。
4日目は最後の日でしたが涙を流すこともなく「また一緒に台湾に行こうね」と言うと「うん、行きたい!」と言って笑顔で別れてきました。
ずっと心に重くのしかかっていた私の心は見違えるようにすっきりしました。いつ何が起こってもきっと母の笑顔だけが心に残ることと思います。
空を見上げると私の大好きな雲一つない青空でした。
初日に12月の失礼な看護士さんのことを事務局の人に言っておいたのでその人を特定できたようです。事務局に居た人たちが申し訳なかったと頭を下げてくれ、2度とこのような失礼なことが起きないように気を付けますと言ってくれました。新人さんだったようです。
今回母に会って来て本当に良かったと思いました。
今は心身共にスッキリ元気になりました。
母がその頃熱を出すことが度々あり病院に連れて行ってはいるけれどこの先の事を考えておいて欲しいと。早い話終活をどうするかという事を聞かせておいて欲しいとのことでした。
身内や近い親戚、友人などに相談して全員一致で延命治療はしないことを施設に伝えることにしました。
何よりも母が延命治療は望んでいなかったという事もありました。
若いころから度々口にしていたからです。ですから私もそれ程抵抗もなく、やはり神様の思し召しに納得しようと思いました。
そして12月上旬その事を伝えるために母の所に行きました。
そこでとてもショックな出来事があり私はかなり落ち込んでしまいました。
この日私は甥と一緒に母の所に行き母にいろいろ話しかけていました。その時この施設常駐の看護士さんが母の部屋に来て母の頭のすぐ側で
「○○○○さんの最期の看取りをどこでしますか? 病院に連れて行きますか? それともこの施設で最後を看取りますか?」など、今にも母が最期の時を迎えるような話をするのです。
私も甥もびっくりしました。何もそんな話をここでしなくても! 私は泣きそうで立っているのが精一杯でした。母は聞こえていたと思います。
その日帰る時、母は目に一ぱい涙を溜めていて最後にポロっと頬を伝いました。今まで別れる時に泣いたことは一度もなかったのに。
この日から母の涙顔が頭から消えなくて私を苦しめていました。
新年を迎えても何か落ち着かず居てもたってもいられず夫に相談して1月21日(月)~25日(金)まで母に会いに九州に行って来ました。
1日目の母は今までになく上機嫌でニコニコして迎えてくれました。。
最近は声を出して話はできない程になっていて、こちらから問いかけると頷いたり、首を振ったりするくらいでした。
一緒に面会に行った従妹が去年台湾に行って来たという話をすると生き生きした目で嬉しそうでした。
「おばちゃんも行きたい?」と問いかけるとはっきりした声で「行きたい!」と言ったのです。
母は台湾で生まれ終戦までの20年間台湾に住んでいました。台湾の話にはとても興味を示しました。
2日目はお風呂の順番を待っている時でした。ちょっと周りがざわざわしていた為かあまり反応はなく、お風呂上りも眠いようだったので2時間くらいで帰って来ました。日によって体調には波があるようです。
3日目は甥と行きました。甥には台湾の話をするととても喜んだという事を伝えていたので学生時代の同窓会名簿があったはず、と探して一つだけ見つけ見せました。タイトルを読んであげるとこれまた大きな声で「あ~っ!」と言ってとても嬉しそうでした。
また私が10年以上前にパソコン教室に通い始めた頃作ったカレンダーの写真を切り取って側に置いていました。その写真は母のお父さん(台湾で亡くなったので面識はありませんが)の写真です。その写真を目の前で見せながら名前を告げると「分かる」と言って何度も頷きながらずっと眺めていました。
やはり台湾の事はとても良く覚えているようで目の輝きも違っていました。
4日目は最後の日でしたが涙を流すこともなく「また一緒に台湾に行こうね」と言うと「うん、行きたい!」と言って笑顔で別れてきました。
ずっと心に重くのしかかっていた私の心は見違えるようにすっきりしました。いつ何が起こってもきっと母の笑顔だけが心に残ることと思います。
空を見上げると私の大好きな雲一つない青空でした。
初日に12月の失礼な看護士さんのことを事務局の人に言っておいたのでその人を特定できたようです。事務局に居た人たちが申し訳なかったと頭を下げてくれ、2度とこのような失礼なことが起きないように気を付けますと言ってくれました。新人さんだったようです。
今回母に会って来て本当に良かったと思いました。
今は心身共にスッキリ元気になりました。