リョウの近況

筆不精のリョウが親・子・兄弟・親戚・友人・知人・幼なじみ達と彼らの友人達にお届けする究極のエコ便りです。

オリンピック無事終了

2008-08-26 00:00:57 | チェコ共和国
ドブリーデン!

気がついたらこのブログも3年目に入りました。
これからは少し書き方を変えてみようと思っています。
手紙形式や日記形式などです。自由気ままに書いていきます。

さて北京オリンピックも無事終了しましたね。テロもなく何よりです。

JSTVで日本選手たちを応援できると思っていたら「IOCとの決まりでNHK国際放送ではこの時間はまだ映像をお見せすることができません」と言うのです。
今はパソコンで結果は直ぐにわかるのに半日遅れ、おまけに映像は1日遅れでしか流れなくてそれまでは写真だけ。
それなのに「オリンピック情報」という特別プログラムを組んでいるのです。
「今日また新たにメダルを獲得しました」と言うと「えっ!何?」と期待しますよね。そしたら前の日のことだったり・・・。もっと見る人のこと考えて放送してよ!と何度も思いました。
せめて日本時間の何時現在では・・・とか付け加えて!
よりによって「この時間は最新の情報をお届けします」なんて言葉も付け加わっているので何度この番組を見てがっかりしたことか・・・。
でも何度がっかりさせられても見てしまうんですよね。日本語放送だから。(笑)

オリンピックの日本語放送はがっかりでしたが私はこのオリンピックを結構楽しみました。
それはチェコ放送のおかげです。日本で言うとNHK第2放送みたいなのがチェコにもあるのです。
ここでは何と24時間オリンピックだけを放送していました。
開会式から閉会式までずーとオリンピックです。

朝1番にTVをつけると午後からの競技を生放送しています。
やはりチェコ人に焦点を合わせているのは納得ですがチェコ人が出ていなくても人気の競技や決勝戦などは出来るだけ伝えようとしているのがわかります。

そのため柔道は最初から最後までずっと生で見ることができました。
柔ちゃん残念だったけどよく頑張りました。夫の「私には金色に見えます」いい言葉ですね。

水泳もチェコ放送で盛り上がりました。
言葉はほとんどわからないのに「キタジマ! キタジマ! キタジマ! キタジマ!」とものすごい声援でチェコ放送のアナウンサーも興奮していました。
金メダルを取った瞬間からアテネ、キタジマ、ペキンしか理解できませんでしたが(笑)

クレー射撃のママさん選手、中山由起枝さん最後の1発でメダルを逃してしまいました。とても残念でしたがとてもかっこよかったです。
ボートもよく頑張りました。

そうそうフェンシングの太田雄貴、チョウかっこよかったです。
ヤポンスカ(日本)という声が聞こえたのでテレビの前に行って見るとフェンシングが始まりました。

会場は真っ暗で試合中の2人だけがスポットライトを浴びて試合をしています。
時々審判の声が聞こえるのですが何と言っているのか聞き取れません。
静寂の中試合は進みました。

太田選手は残念ながら負けてしまいましたが剣を持って構えた姿(姿勢)は相手よりもずっと美しく日本の武道を見ているようでした。
積極的に攻めていく姿がまたかっこよかったです。
でも上手さはやはりドイツ人の方なのでしょう。後ろに引きながらも上手く交わしてポイントを重ねていきました。

太田選手、ロンドン大会に期待しています。頑張ってください。
日本人対ドイツ人でしたが最後まで生中継で見ることができ感激しました。
後でわかったのですがこれは決勝戦だったのです。(言葉がわからないのが少し残念) 銀メダルおめでとう!

最終日のマラソンで優勝したケニアの選手は仙台育英学院に留学していたようですね。「センダイ イクエイガクイン」と言う言葉も何度も耳にしました。
こんな所で結構宣伝効果あったかも?
インタビューは日本語でやったと聞きましたが本当ですか?
チェコテレビでも聞きたかったです。

余談ですが「北京オリンピックをなぜBeijing(ベイジン)2008と言うんだろうね?」と言ってる人がいました。
英語では北京のことをベイジン(Beijing)と言います。(チェコ語ではペキン)
因みにプラハはPrague(プラーグ)
ウィーンはVienna(ヴィエナ)です。
この際覚えておきましょう!










小旅行(ポーランド)

2008-08-19 02:21:42 | 旅行
ドブリーデン!

念願叶って行ってきました。負の世界遺産アウシュビッツに。
ここは第2次世界大戦中ナチス・ドイツが、占領した土地からユダヤ人だけでなくポーランド人や共産主義者、反ナチス、同性愛者などを強制収容し直ぐにガス室で殺したり過酷な労働の後殺したりした場所です。
28の民族、150万人の人がここで殺されたそうです。

あまりの残酷さにかなりの衝撃を受け2・3日は食事もできないかも? なんて話も聞いていたのでかなり覚悟をして行ったのですが私はそれほど衝撃は受けませんでした。
むしろ衝撃などは何もなく「今まで自分が知っていたことの事実確認をして来た」と言う感じでした。
残酷さは小学生の頃読んだ「アンネの日記」に始まり新聞や雑誌・テレビや映画などでよく見聞きしていたのでほとんどのことをすでに知っていたからだと思います。
ただユダヤ人というだけで強制収容され殺された人たちのことを思うと言葉では言い表せない複雑な気持ちになります。
可哀想という言葉を飛び越えてもっと違う言葉があるんじゃないかな?といつも考えてしまいます。

アウシュビッツの建物はそのまま保存され今は博物館になっています。
建物の中は撮影禁止なので写真はありませんが私が想像していたより明るくきれいだったので少しイメージが違ったなと思いました。
でも建物の中は修復されたものだそうです。
この修復はドイツの工科大学の学生さんが毎年休みを利用してボランティアで作業をしているそうです。とてもいいことだと思いました。

鉄の門の奥がアウシュビッツ強制収容所

 門の上に「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になれる)」の文字

収容者が蒔いた種から育った木

このアウシュビッツから約2km離れたところに第2のアウシュビッツと言われているピルケナウ強制収容所があります。
アウシュビッツに収容しきれずに改に作ったそうでかなり広い敷地に当時300棟以上のバラックが建っていたそうです。(アウシュビッツは28棟)
ここは映像でもよく見たことがある場所でした。
列車の引込み線があり当時貨物列車にすし詰め状態でユダヤ人達が連れてこられ下車と同時に強制収容所行きとガス室行きに選別されたところです。
真っ直ぐ数分歩いたところにガス室があるのです。
赤ちゃんや子供連れの人もそのままガス室に送り込まれたそうでここをガス室まで歩いた人の気持ちはどんなだったのだろうと思うと・・・・。

「死の門」を通りここで貨物列車から降ろされた
 
「死の門」を入って左側はレンガ造り。ほぼそのままの状態で残っている

右側は木造の収容棟 風化されて一部しか残っていない

機関車はまた収容者を運ぶためここで向きを変えた

 引き込み線の終点
 
画面右側にガス室と焼却炉があったが終戦時にドイツ軍が慌てて破壊しその状態で今も残っている。
今日も遺族が花を手向けていた。
画面手前には大きな国際慰霊碑がありそのそばには28の言語で書かれた慰霊の石碑がある。

レンガ造りの収容棟に入ってみました。
ここは復元ではなく当時のままの状態で残されています。
復元された所とはまた違った、ずっしりと重いものを感じました。
アウシュビッツを見学した人は是非ここも見ておくべきだと思います。
ガイドブックには「蚕棚のようなベッドにぎゅうぎゅう詰めで寝かされていた」と書かれていましたが蚕棚の方がよほどきれいだと思います。

私がとても驚いたことが一つあります。
アウシュビッツ強制収容所の330Vの電気が流れていた有刺鉄線のすぐ隣に司令官の官舎があるのです。今もそのまま残っています。
終戦後この司令官は裁判にかけられたのですが夫人はずっとここに住み続けたそうです。
そしてこの両方の強制収容所の周りには民家が沢山あり人が住んでいるのです。
有刺鉄線の奥は木が生い茂っていましたが石造りの立派な家が立ち並んでいます。
150万人の命が奪われたところなのに嫌ではないのかな?と考えてしまいます。

でもここで働いていたドイツ人の人達は悪いことをしていると言う思いはなくむしろ誇りに思っていた、だから夫人もずっとそこに住み続けることができたのではないかと聞いてものすごい衝撃を受けました。

多くのアメリカ人が日本への原爆投下を「やって良かった」と思っているのと少し似ているのかな?と思いました。(一緒にするとアメリカ人は憤慨するでしょうが)
戦争とは何か? 平和とは何か? を全く違う視点で考えたひと時でした。

世界中の人たちが争いのない穏やかな気持ちで毎日を過ごせる日が来るのだろうか?
そんな日が来るのをより強く願う今日この頃です。