リョウの近況

筆不精のリョウが親・子・兄弟・親戚・友人・知人・幼なじみ達と彼らの友人達にお届けする究極のエコ便りです。

チョコレート工場見学

2011-12-30 02:47:59 | 旅行
サェンバイノー!

11月13日(日)スイスアルプス登山、3泊4日の旅に出ました。
途中、Cailler(カイエ)のチョコレート工場に立ち寄り見学、試食をしました。


この工場はスイスで一番最初にできた老舗のチョコレート工場なんだそうです。
イタリアのチョコレート工場で働いていたフランソワ・ルイ・カイエは母国スイスでもチョコレートを造ろうと修行をし1819年この地にチョコレート工場を造りました。
最初は全てを手作りしていましたがこんなに美味しいものをもっと多くの人に食べてもらいたい、大量生産できないものかと考え、初めてチョコレートをオートメーション化して作ることを考えました。
そのおかげでチョコレートはたちまち一般市民にも広がりました。それまでは宮廷や上流階級の人たちの食べ物だったのです。
1929年Nestle(ネスレ、英語読みではネッスルですが何年か前全世界フランス語読みのネスレに統一したそうです)に吸収合併されましたがCailler(カイエ)はそのままの名前でチョコレートを生産しています。
工場見学は少人数のグループで回りますが言語の選択ができます。
シーズンオフのためこの日は日本語のコースはありませんでしたが夏のシーズン中は日本語でも案内をしてくれるようです。


見学の最後にチョコレートの試食コーナーがあり20種くらいのチョコレートを自由に食べることができます。
勿論とても美味しいのですがチョコレートとアイスクリームが大好きなリョウも最後の数種類はさすがに食べることができませんでした。(その場では食べることができませんでしたが最後の3種類はこっそり持ち帰り後で試食しました)
そしてその後お決まりの売店があるのですが試食のしすぎであまり購入意欲がわきませんでした。

チョコレートの1人当たりの年間消費量のトップはスイスで平均1人100gの板チョコ125枚食べているそうです。





フランスで買い物

2011-12-09 17:15:40 | 旅行
サェンバイノー!

スイスに行く前に娘から「山に登るから暖かい格好で来てね。それから靴はブーツがいいよ。」と言われたのでそれなりの格好で出かけました。
近くの小高い山にでも登るのかと思っていたら何とあの有名なスイスアルプスのユングフラウ(4,158m)とマッターホルン(4,478m)の近くの町まで2泊3日で行くと言うのです。
ネットでジュネーブの天気を調べたら10℃~15℃くらいだったので防寒着とまではいかない服装で出かけました。
ブーツも雪道用ではなく寒さ対策程度の物だったのでこちらで買うことにしました。

ジュネーブは物価が東京以上に高いところですがフランスに行けば安いので週末はフランスの方に買い物に行くと聞いていたので土曜日にS君(婿さん)の運転で行って来ました。
フランスと言っても車で10分くらい走ればもうそこはフランスです。
大きなショッピングセンターで買い物をし腹ごしらえをして帰ってきました。
日本では普通にありふれた日常でしょうが私はかなり興奮していました。

そしてダウンのスキー用ジャケット(スカイブルー)とブーツ(黒)を買いました。
スポーツ用品店で買ったのですが2つで約14,000円くらいです。とても安くて驚きました。かなり気に入っています。
スキーの本場?のためかどのお店も品揃えが豊富で迷ってしまいます。
チェコを出るときにもダウンを買ったのですが品質も暖かさも全然違います。もっともチェコではサイズが大きすぎて選択の余地がなかったと言うこともありますが・・・。

娘たちもこのお店での買い物は初めてだったようでレジのお姉さんにポイントカードを作ることを勧められ手続きをしていましたがS君もフランス語がかなり上達していて一段と頼もしく感じました。そのことを本人に言うと「大したことは言っていませんから・・・。」と謙遜していましたが私にはさっぱり分からないのでやはり大したものだと思いました。

そして翌日からスイスアルプスに出かけます。心ウキウキ、夜も眠れませんでした。

孫に会いに・・・

2011-11-30 11:37:09 | 旅行
サェンバイノー!

突然ですが11月8日(火)からスイスに来ています。
9月に遊びに行く予定にしていたのに急用でスケジュールを大幅に変更せざるを得ず11月になってしまいました。
ウランバートルからジュネーブに行くにはルート的にも金銭的にも大変ですが納得のいく格安航空券を見つけました。
しかしルートは結構大変です。孫に会いたい気持ちがそれを吹き飛ばし私は全く気になりませんでした。

ウランバートル → ソウル → パリ → ジュネーブ で同日(約24時間後)に到着するというルートです。

7日の早朝5時45分に家を出て20分後に空港到着。
チェックインの受け付けはされていないのに案内ボードは予定通りとなったままです。
数人の係の人に聞き12時30分に変更という事を信じて一旦家に帰りました。
再度空港に行くと今度は15時00分出発となっています。航空機材のトラブルとのことなのでもうこの日の出発はないと思い旅行代理店に直行して翌日のチケットに変更してもらいました。
その日のチケットを一旦キャンセルして翌日の同じフライトを購入することができました。
キャンセル料を払おうとしていた丁度その時、航空会社からその代理店に電話がかかってきて「本日のフライトはキャンセルになったので日にちの変更は無料で・・・」とのことでしたのでキャンセル料は取られませんでした。ラッキー!

気を取り直して翌日の早朝に再出発、今度は予定通り8時過ぎにウランバートルを出発しました。
約3時間でソウル着、乗り継ぎ時間は約2時間、ソウルからパリまでは約12時間のフライトです。長時間なのでミネラルウォーターを買って乗り込みました。

大韓航空の機内食で美味しいと評判の「ビビンパ」を食べてみました。辛さの調節は自分でするようになっています。程良い辛さで評判通り美味しかったです。
キャビンアテンダント(客室乗務員)も皆奇麗(男性はイケメン)でとても親切です。
長時間だからなのか座席にはミネラルウォーター(350mm)が既に配られていました。
途中何度も水やジュースのサービスをしてくれます。
結局搭乗前に買ったお水はそのまま口をつけずに降りました。
とても喉が渇いていたのですが先に乗り換えの手続きを済ませてからお水を飲もうと思っていたのに手続きと同時に荷物の検査をされ水は没収されてしまいました。(乗り換えだから大丈夫だと思っていました)
素直に渡してしまいましたが渡す前に一口飲んでから渡せば良かったと後悔しました。残念!

パリからジュネーブまでは約1時間。あっという間にジュネーブに到着です。
やっとここまで来ました。もうすぐ孫に会えると心ウキウキしていました。
しかしそう簡単に孫には会えませんでした。

私の荷物が到着していないのです。
話にはよく聞いていましたが自分の荷物が到着しないということは初めての経験です。
オフィスに行くと既に1家族が荷物が届いていないと言って手続きをしていました。
しばらく待って私の番。先ず最初に聞かれたのは普段何語で生活しているのか?でした。
日本語と言うととても申し訳なさそうに自分は日本語はできないのでフランス語か英語にしてくれと言うのです。最初からそう言えばいいのにとちょっと笑っちゃいました。
ホテルの名前を聞かれたので娘の家だと言うと今迎えに来ているならここに連れてきてくれとのこと。この言葉を聞いて私はホッとしました。娘たちが帰ってしまったらどうしようと気が気ではなかったからです。

1日前の同じ時間の頃娘から電話があり「今どこ?」「今チェックインしてるところ」「まだパリなの?」「いや、ウランバートル」という会話をしたのですが私の携帯はここでは使えません。ちょっと焦っていました。(出発が1日延期になったという連絡が確実には取れていなかったのです。時差7時間の影響もあり)

一旦ゲートを出て娘たちをオフィスに連れて行き後は娘に任せて事務手続きをしてもらいました。
荷物は現在パリにあり、翌日の早朝自宅まで届けてくれるということでした。

それにしても孫に会ったとき私は一番に「しょうく~ん」と言って孫を抱き上げるイメージでいたのに娘を見つけると一番に「荷物が届かないのよ~・・・」となり翔くんが後になってしまったのがちょっと残念。
荷物は翌日無事に届きました。


*途中まではスイス滞在中に書いたので少し文章が???って思うところもあるかもしれませんがあまり気にしないで読んでください。









今年のゴールデンウイーク

2011-05-16 01:02:42 | 旅行
サェンバェノー!

私にとって人生初めての大型連休をバッチリ取って日本でゴールデンウイークを楽しく過ごしてきました。
何が楽しかったかと聞かれると勿論日本語で心置きなく人とおしゃべりができたということです。

今回は甥っ子の結婚式に出席するための帰国でした。
結婚式はアットホームな感じでとても素晴らしいものでした。
お嫁さんは日本舞踊を愛する上品で落ち着いた人です。
甥っ子との相性はぴったりだと感じました。
二人の末永い幸せを祈ります。

4月27日(水)の早朝ウランバートルを出発し4時間10分で成田に到着、機内はガラガラで3席を使うことができラッキーでした。
翌日は東京で買い物、28日新幹線で九州へ。
ゴールデンウイークがスタートする前日の午後だったためか新幹線もガラガラ、ここでも3席を使うことができました。

「行きはよいよい、帰りは恐い~」です。

戻りは5月5日(木)、この日はまだ連休の中日なので新幹線もそれほど混んではいないだろうと甘い考えで指定席も取らずにいました。
ところが前日のニュースで「明日はUターンラッシュのピークになります。」と言っているのです。
えっ!Uターンラッシュって今度の土・日じゃないの?と少々焦りました。
朝一番に指定席を取りに行きましたが終日満席(グリーン車とも)で買えません。
仕方がないので博多まで行って始発の自由席に並ぶことにしました。

小倉駅まで見送りに来てくれると言ってた人たちに急遽変更の連絡です。
荷物が多いのを見て甥っ子夫婦が車で博多駅まで送ると言ってくれ申し訳なく思いながらも甘えてしまいました。
息子と2人で大きな5個の荷物(ほとんど私の物ですが)、本当に助かりました。
新幹線は増発されていたためかホームで20分待ってすんなり乗車でき2人とも並んで座って行くことができました。

成田からの出発は5月7日(土)13:30分の予定でした。
ところがウランバートルが悪天候で出発が遅れるとのこと。

夫からの電話で早朝に飛び立つはずの飛行機は強風のためまだUBから飛び立っていないとのことです。
このモンゴル航空成田行きはゴールデンウイーク中の最終便、しかも満席とのこと。

夫の分析によりますとある程度の強風でも最終的には今日中に飛ぶはず・・・とのことです。
もし飛ばなかったらこの満席の乗客のホテルと食事を用意し移動のためのバスをチャーターしなければいけません。
モンゴル航空にとってそれは多大な出費になります。

私もその分析に納得です。
モンゴル航空のパイロットは空軍上がりの人たちばかりで少々の悪天候でも”なんのその”と定評があるのです。
他社の航空機が出発を見合わせているときでもよく飛んでいるそうですから。

成田空港が使用できるのは午後11時までです。
逆算すると夕方5時半くらいまで様子を見て見切り発車(離陸)するのではないかと思いました。

そして予想通り現地時間の午後5時30分(日本時間午後6時30分)UBを離陸したと夫から連絡が入りました。
搭乗予定のこの日のフライトはキャンセルとなり1,000円分の空港内での食事券を渡され空港近くのホテルにバスで移動しました。
翌日21時間遅れで成田を出発しました。
機内はガラガラで3席使って横になれラッキーと思っていたらやはり強風で着陸できず空港の上空で1時間旋回し帰りは6時間45分もかかってしまいました。

さすがに今回のフライトでは疲れが溜まって自宅についてもなかなかエンジンがかからず3日間は何もやる気がせず馬頭琴も休んでしまいました。

しかし今回は21時間遅れたもののこれが日本で良かったとしみじみ思いました。
土曜日だったため息子もずっと付き合ってくれたので話し相手もいたし、荷物も見てもらってウインドウショッピングも楽しめたのです。
3回の空港内での食事も1人ではなかったのでそれもありがたかったです。












一人旅(ハラホリン) 3日目(その1)

2010-12-13 01:14:03 | 旅行
サェンバェノー!

8月18日(水)、8時起床。昨夜の豪雨はすっかり治まって静かな朝を迎えました。
外に出てみたらそれほど寒くはありません。薄手の長袖シャツで大丈夫でした。
空気がとても美味しく湧き水ならぬこの辺りに湧き空気があるのでは?と思えるほどでした。
ふと山を見ると雪が積もっていました。
そういえば昨日は雹も降っていたのでした。
川辺を散策する時は真冬に着るダウンのコートを着ていたのを思い出しました。
旅行には寒さ対策のコートが必要と言われていたので出発前に薄手、中間、厚手のコートから運転手にどれが良いか選んでもらったのです。その時はまさかこの厚手のコートが本当に役に立つとは思ってもみませんでした。密かに薄手のレインコートも持参していたのですが使わずじまいでした。


今日は予定を変更して直接運転手の実家に向うことになりました。
今日はこちらに泊めてもらうことになっています。
私は言葉も出来ないのに随分大胆な行動だと思うでしょう?
運転手は10年前から日本人(モンゴル語が上手な人たち)の運転手をしているので沢山の日本人が彼の実家に宿泊しているそうです。
ご両親も日本人が大好きで是非是非泊まってくれとのことでしたのでお言葉に甘えました。(まさかモンゴル語が出来ない日本人とは思ってもみなかったことでしょう)

道中時々お父さんから電話がかかってきます。
昨日から大雨が降っているとの事でどこどこは川が増水して流れも速いところ、危険なので迂回してくるようになどと指示がきます。
運転手は苦笑い。当然そういうことは分かっていて実家まで7・8時間かかると思うので予定を変更したそうなのです。
こんなことを聞いて自分の親をふと思い出しました。子供と言っても既に大人、分かりきっているようなことでもしっかりアドバイスをされていました。そして自分も同じような事を子供達に言っているんだろうなって。
国が違っても親が子を心配する気持ちはどこも同じなんだなと思いました。

9時少し前に出発。
2時間ほど走ったところで右側にドライブインのような造りの建物が1軒目に入りました。
左には展望台のようなスペースがあります。でも見るような物はこれと言って何もありません。
少休憩かと思っていたらここも観光スポットでした。
展望台から真下を見ると川がL字型に流れていてちょっとしたオアシスです。しかし私(日本人)にはさほど感激とまではいきません。むしろここから見る大草原の方が魅力的でした。真っ白い雲が沢山出ていたので青空が少なく少し残念でした。

またしばらく走っていると「近くに温泉があるのでそこに寄って行きます。私は車で待っていますのでゆっくり入ってきてください」と言われました。
そこはホジルトという町でした。某力士が負傷したときここに来て療養したことで私も知っていました。
迂回をしたのでそこを通過することになりせっかくだからとお風呂好きの日本人に気を使ってくれたようです。
彼が家族と一度利用したことがあるという所は生憎この日は休みでした。
町の人に聞いてみると皆温泉療養所を薦めるのです。
運転手は普通の温泉を探してくれたのですがもう観光シーズンは終わっているのでどこも営業はしていませんでした。

療養所には着いたのですが運転手も少し不安そうなのが伝わってきます。
誰か出てきたら聞いてみようと思っているみたいですが誰も出てきません。
意を決して中に入って行きました。私も後に続きます。
受付で聞いてみたらOKのようです。
怪我もしていないし何処も悪くはないのに本当に使えるのかと思ったのですが大丈夫、誰でも使えると言うのです。
今は混んでいるので1時頃まで待つように言われました。
30分くらい待つことになります。その間もう止めてしまおうかとも思いましたが、モンゴルの国立温泉療養所なるものを見るチャンスはそうはないだろうと思い30分待つことにしました。

しばらく車の中で待っていると偶然運転手の知り合いが中から出てきました。
何やら話をしていましたが時々私に対してもとてもフレンドリーな感じの笑顔を向けています。
その時運転手が彼を紹介してくれました。
彼は以前夫と同じ職場で働いていたローカルスタッフでした。日本語も上手でした。
お父さんが体調を崩したため田舎に帰って来たそうです。
今回は気分転換に昨日からここに泊まっていると言っていました。

そしてこの偶然はとてもありがたっかったのです。
彼は1時に予約をしているのでその時使うよう言われました。
「シャワー室はここだから」と言われたのですが書かれているのはモンゴル語だけです。
どこが男か女かわかりません。
彼に助けを求めました。彼は中に連れて行ってくれいろいろ細かいことを教えてくれました。

ここは男も女もないとのこと。みんな一緒です。
カーテンで仕切られただけのシャワー室?(正確にはシャワースペースと言うべきか?)が10ヵ所くらい並んでいます。
手前がシャワースペースでもう一つカーテンで仕切られた奥にベットが一つ置かれていました。
ここが更衣スペースですがその先はカーテンもドアもありません。1ヶ所が3畳くらいの広さでした。

彼はその1つ1つのカーテンを開け「どのくらいで終わりますか~?(推測)」みたいなことを一人ひとりに聞いています。
そして真ん中くらいのところで「ここの人が出てきたら入っていいよ。」と言うのです。
そして出てきたのは女の人でした。私はチョウ、チョウ、驚きました。
彼は何事も無かったかのように行ってしまいましたがその女性はまだシャワーを使っているときだったのです。出てきた中年の女性も何事も無かったかのように出て行きました。(唖然!)

ここは言わばオープンスペース。このベットの上に洋服など置いていて大丈夫かな?と少し心配でしたがまぁ貴重品はないしここで心配しても仕方がないと覚悟をしました。
運動靴で来てしまったことを後悔していると直ぐにお掃除の人が来て手には健康サンダルも持っています。
足元を見て人が変ったことでも察しているのかその行動は素早いもので手際よく掃除もしていきました。

気持ちよくシャワーを浴びましたが途中で誰か(女性)がカーテンを開け何か声をかけられましたが分かるはずもなく聞こえないふりをしました。
着替えを終えお化粧をしているとさっきの助っ人の男の人が少しだけカーテンを開けて覗きました。(既に洋服を着ているときでよかった~と安堵)そして私が終わったことを知ると中に入ってきました。
少しばかりお互いの自己紹介程度の話をしていると彼は洋服を脱ぎながら話を続けるのでした。
(おい、おい、ちょっと待ってよ。貴方にはとても感謝していますけど私は貴方の裸は見たくありませんから…と思いながら)
最後にお金はどこで払ったらいいのかと聞くとお金はいらないとのことでした。
お礼を言って逃げるように出てきました。

後日この驚きの話をするとこちらの人はあまり男とか女など気にしないと言う返事が返ってきました。それが本当かどうか正確にはわかりませんが少なくともこの療養所の中では誰も気にしていないことだけは事実でした。


一人旅(ハラホリン) 2日目(その2)

2010-12-05 01:26:57 | 旅行
サェンバェノー!

一人旅から随分日にちが経ってしまいましたがこの旅ではモンゴルのあまり知られていない文化を沢山吸収してきたのでそれをお伝えしたいと思い頑張って書き続けることにします。
また自分の貴重な思い出でもありますので最後までお付き合いください。(最後はいつになるのやら?)

8月17日(火)エルデニーゾーを見学の後「トッフン寺院」に向います。
ここはこの旅で私が一番楽しみにしている場所でもあります。
海抜2,000mを超える岩山に立っている木造の仏教寺院でその寺院の裏の険しい崖をよじ登ると洞窟が2ヵ所あってそこは聖地とされています。
そのうちの1つは人がやっと通り抜けることができるくらいの大きさです。
その洞窟は胎内と同じでここを回ってくると身も心も洗われて新しく生まれ変わると信じられています。
ここもオボー(1日目参照)と同じで時計回りに回るそうです。
そしてこの岩山の頂上にもオボーがあるそうですがこの頂上は女人禁制なんだそうです。

車は一路この「トッフン寺院」を目指して快調に進みます。
1時間くらい走って大きなオルホン川を渡りました。
こんな大きな川を車で渡るのは初めてです。
興奮して「すごーい!、すごーい!」を連発しながら川面を見ていたら写真を撮るのをすっかり忘れていました。
帰りにこの道は通らないと言うので運転手にお願いしてUターンしてもらい車での川渡りを3度も楽しんできました。
下はその1枚です。写真をクリックすると大きい画像になります。


その後山越えをし2時間くらい走ったら次第に雲行きが怪しくなってきました。
遠くで雷の音も聞こえます。
入山のための料金所で今年は雨が多かったから山頂までは車で行けないと言われました。
目的地は下の写真のほぼ中央、はげ山のように見えるあたりの少し左の岩山です。
そして画面では見えませんが左の方には真っ黒い雲と稲光が見えます。
ちょうど着いた頃には最悪な状態ではないかと嫌な予感。


20分くらい走ると山の麓に着きました。
やはりここからは地盤が緩んでいるので車では難しい、馬か徒歩で登ってくれと言われました。
この時点ではまだ雨は降ってはいないけど完全に雨になること間違いなしの状態です。しかもかなり激しい雷付きで。

馬でも徒歩でもいいけれど途中で雨になるのが怖くて私は「雷が怖いのでせっかくここまで来たけれど今日は諦める。モンゴルに住んでいるのでまた来年来ます。」と言ったのです。運転手と係りの人がなにやら世間話でもしているのかと思ったら急にゲートが開いて車はそのまま進んで行きました。ダメかもしれないけれど行けるところまで行ってみようと言うのです。
正直ラッキーと思いました。雨は避けられないだろうけれど雨が止むまでは車の中で待機していればいいんだからと。

ところが・・・・・。
思った以上に山道はぬかるんでいてランドクルーザーでもタイヤが空回りして先へ進めなくなってしまいました。20mくらい離れたところでもジープが立ち往生してタイヤの空回りの音だけが聞こえます。
私はもうここまででいい、引き返そうと思いましたが運転手はせっかくここまで来たんだからここから歩いて行こうと言うのです。あと500mくらい歩けばいいだけだというのです。

そんな話をしている時にとうとう雨と雷がやってきました。雨と言うより豪雨です。
この豪雨もすぐ通り過ぎると言うし500mと言う言葉に心が揺れ動き雨が小降りになるまで待つことにしました。
クッキーで腹ごしらえをしながら待っていると何と今度は直径1cm位の雹が降ってきました。
う~ん、残念! 私はこの時点で本当にこの「トッフン寺院」に行くのを断念しました。
本当に残念でなりませんでしたがここでかなりの時間を費やしてしまったという思いもあったので諦めることを選択しました。

しばらくすると天気も回復してきたので下山することにしたのですがこの下山がとても大変なことになるとはこの時点ではまだわかりませんでした。
車がやっと1台通れるくらいの山道は多少のカーブはあるもののほぼ直線というかんじです。
左右に潅木が生い茂る山道は川のようになっていました。幸いなことに崖はないので怖くはありませんでした。

天気はすっかり回復し陽が照ってきたので私は車から降りて誘導係りです。
小枝や石が道をふさいでいます。私はそれらを取り除いたり深くえぐられてできた水溜りにその石や小枝を投げ入れたりして少しでも走りやすいように道を整えていきました。
運転手は10mくらいバックで下り樹と樹の間が少し広いところで何度も何度もハンドルを切り返して方向転換し少しは楽になったようです。
スリップもするので2・30cmくらい進んでは止まり進んでは止まり、5mくらい進むと車から降りて道の状態と道幅を確認し、また同じ事を何度も繰り返しながら下山してきました。

登り30分、下り2時間くらいかかりました。後で考えると登ったのはわずか300mくらいだったと思います。
ゲートの前の茶屋?で暖かいスーテー・ツァエ(ミルクティー)を飲みホーショル(揚げ餃子)を食べて遅い昼食にしました。
下の写真は下山した時に撮ったものです。空がきれいでしょ?


次の目的地は「オルホン滝」見学、今日の宿泊地でもあります。
山越えをし草原を2時間走って18時ちょうどに目的地に着きました。道中時々雹が降り外気はー1℃でした。
この滝はモンゴルでは最大の滝ということでモンゴル人は是非見てくるようにとお勧めの観光地なのですが日本ではおそらく無名の滝の部類に入ると思われるほど小さな滝なのです。落差24m、巾5~10mくらいなのですから。

しかし草原の中に突然滝を目にするのですから驚きました。
運転手に「もうすぐです。あそこです。」と指を指されても見えるのはゲル(家)だけです。
すぐ近くまで行ってやっとわかりました。
それは草原の中を流れる川の水路が突然陥没して大きな穴が出来たのかと思うようなものでした。
資料によると「オルホン川が溶岩台地を浸食してできた滝」と書かれていました。
写真ではちょっと分かりづらいと思いますが回りは平坦な草原です。
柵やロープなどは何もありません。(お子様連れは充分ご注意を)


上の写真の右側に滝壺まで降りていける所があるので下まで行ってきました。某ガイドブックには下まで行けるようだがどこから降りるのかは不明と書いてありましたがそれも納得です。
日本だったらとても危険でそんなところを降りて行こうなんて誰も思わないでしょう。
私は75歳のおばあさんがそこを降りて行く写真を見ていたので私も大丈夫だと思い下まで行きたいと思ったのでした。


下に降りて川辺を歩いているとき流れる水の色が違うことに気付きました。
聞いてみるとここは2つの川の合流地点で、奥の方の水が濁っているので北の方には雨が降ったけれどこの辺りは降らなかったということでした。確かに北の方は雨でした。


1時間ほど散策をして車に戻ると1人のおじさんがやってきてミュージアムを見ていかないかと言うのでちょっと覗いてみました。石や潅木などで自然に出来たオブジェが並べられていました。動物や人の形をした物ばかりですが見事な物ばかりで楽しめました。おじさんが手品をしてくれたり楽しい人でした。

しかし何か気になるのですが、このおじさんの他に奥さん?息子?孫?と言う人も私たちと一緒にこのミュージアムに入ってきて一緒に私たちの話の輪に入っているのです。
車でこの滝に到着した時10人くらいの人が来て今日はウチに泊まってくれと客引きに来ていましたがその人たちはもういませんでしたがこの3人はずっと離れないのです。
見学を終え外に出て別れを告げた後運転手がおじさんとヒソヒソ話を始めました。(私はモンゴル語はわからないのに何もここでヒソヒソ話なんかしなくてもとちょっとムカッ!)
車に乗って事情がわかりました。奥さんと息子だと思っていたのは実は宿の人でした。2人ともが自分のゲルに泊まってくれと言ってずっと離れなかったので運転手はどちらかに決めかねておじさんにどっちの方が評判がいいかを聞いていたそうなのです。

おじさんが言うには男の方は普通、女の人の方は食事が美味しいと評判がいいと言っていたそうです。
先に男の人のゲルを運転手が偵察「ダメだ、部屋が汚い」と言うことで少し離れた女の人の宿に泊まることにしました。
評判通り食事も美味しく部屋も綺麗だしとても感じが良く気持ちよく泊まれました。
娘さんが9月からウランバートルの大学に入るそうで観光業を勉強し日本語を専攻するそうです。片言の日本語ですが日本人と話ができて嬉しいと言ってくれました。

寒いので夕飯はゴリルタィ・シュル(肉うどん)にしました。
外は豪雨です。時折雹も降っているようです。
雨がゲルにしみ込んでくるのではないかと心配でしたが大丈夫でした。(ゲルはフエルトで出来ているのです)

ハラホリン2日目も静かに更けていきました。





















一人旅(ハラホリン) 2日目(その1)

2010-10-12 01:11:45 | 旅行
サェンバェノー!

前日部屋(ゲル)に入ったら寝る時の説明がありました。
朝は寒くなるので毛布と毛布の間に寝袋を入れその中で寝るようにと。
寝袋は持参してきました。
でも前日は気温が30℃もあったので「まさか~そんな~」と笑って返事をしていたのですが運転手も真顔でマフラーも枕元に置いていた方が良いと言うのです。
現地の人の言うことは聞いておこうと枕元にマフラーと懐中電灯を置いてベットに入りました。

そしてこの日は早朝5時ごろ寒くて目が覚めました。
外はすでに明るく小鳥もさえずっています。
ストーブとマキも用意されていましたが寒くてベットから出ることができません。
マフラーをしっかり首や肩に覆って8時までウトウトしていました。(現地の人の言うことは聞いておくべきと痛感)


8時起床、近くの川原を散歩。
小鳥の鳴き声と川のせせらぎ、遠くで人の笑い声がかすかに聞こえるだけ。
空気はひんやりしていますがとても美味しく、空も澄んでいて爽やか、気温も既に20℃まで上がっていて寒くはありません。
今日はずっとここに居てもいいなと思う程でした。







食堂のゲルで朝食。
朝はあまり食べられないから量は少しとだけ言って運転手にお任せしたら大好きなホーショルでした。

ホーショルは小ぶりのオムライスの大きさをした揚げ餃子のような物(中は羊の肉のミンチだけ)ですが、なんとこれが5枚もお皿に並べてありました。
それで1人前なのだそうです。
1枚でお腹いっぱいです。(写真を撮るのを忘れていました)





エルデニー・ゾーの全景。(前日の夕方撮影)
400m×400mの正方形で108個の塔と外壁で囲まれています。
境内にはモンゴル最古の仏教寺院もあります。
この境内にはチベット仏教の寺院が沢山建てられていて多くの僧侶が寝起きしていたそうです。
しかしモンゴル革命以降の1930年からソ連の政治的圧力で仏教は弾圧され多くの僧侶が殺害されたそうです。
このエルデニーゾーでも60棟あった寺院も18棟になり550人いた僧侶もほとんど殺害され残った64人の僧侶は全員還俗(げんぞく)し、エルデニーゾーは1938年閉鎖されました。
しかし1989年のソ連崩壊後モンゴルは民主化され現在のエルデニーゾーは昔のように寺院として使われ僧侶達も居住し修行しています。



16世紀後半から18世紀にかけて建てられた物が18棟現存しています。
インド仏教伝来の仏舎利塔や中国式寺院と同じ建物ですが中の装飾や色彩はモンゴルそのものです。










日本の門前町のように土産物店や食堂、カフェが並んでいます。
早朝(時間外)だったため客足はまだです。

臨機応変と言うかどうかわかりませんがまだ開門前だったのですが運転手が関係者のような人と何か話していたら中に入ってもいいと言うのです。チケットも買わずに中に入ったので写真を撮っていいものかどうか迷いました。(カメラは別料金となっているためです)






境内にあったしびれ草(正式な名前は忘れました)
この草に触ると高圧電流が流れたように体中がしびれるそうです。
でも命には別状はないそうですが。
出発前に日本人に注意をされていました。


一人旅(ハラホリン) 1日目

2010-08-25 03:28:53 | 旅行
サェンバェノー!

8月19日無事に我が家に帰ってきました。自分の予想以上に収穫の多い一人旅でした。

8月16日(月)午前10時我が家を出発、ウランバートル(UB)より西380kmに位置するハラホリンというところに向かいました。
ここは昔モンゴル帝国の首都があったところです。
また2005年には「オルホン渓谷の文化的景観」として世界遺産に登録されています。8箇所の遺跡や建物がありますが今回はその内4箇所を見て回る計画です。

UB市内の西のはずれにあるスーパーで食パンとクッキー(自分達用とお土産)を買い込みました。勿論この日の昼ご飯用におにぎりと漬物も持参しています。

最初の休憩は午後1時。大きな「オボー」があるところでした。
「オボー」とは日本のお地蔵様のような存在で、木の枝を立てその周りに小石を山の形に積み上げ木の枝にハダクというシルクの布を巻いたものです。
小石を9個拾って時計回りに石をオボーに1個づつ投げ旅の安全を祈りながら1周(正式には3周)します。私も旅の安全を祈念して行きました。(オボーは設置されている場所によっていろんな意味があるそうです)
どの車もオボーの前を通る時必ずクラクションを3回鳴らして通過していました。


3時少し前、車を止めた運転手が遠くを指差しながら「写真」と言っています。私のガイドブックを開いて示しました。そこは世界遺産の一つ「ハルボヘン・バルガス遺跡」というところでした。10世紀の城跡と17世紀の石積みの建築がある遺跡です。今回の計画には入っていませんが行ってみたくなりました。別の1ヶ所をキャンセルしてこちらを見ることに予定変更です。500mX500mの正方形の城跡は小さな石を積み上げたものでとても綺麗でした。壁の厚さは1mくらいありました。



この遺跡の直ぐ側に小さな博物館がありました。期待は持てそうにありませんでしたがちょっと覗いてみました。入って一番に目に入ったものは日本語でした。なんとこの遺跡の保存のためにとある企業がお金を贈呈していたのです。そういえば十数年前日本が遺跡の調査をしたと聞いていました。管理人らしき人が日本語が読めない外国人に英語でそのことを説明していました。日本人としてちょっと嬉しい瞬間でした。


その後は幹線道路から外れ草原の中を走ります。2時間ほど走ると目の前に湖が見えてきました。風もなく静かで聞こえるのは水鳥の声だけです。
今夜の宿まではここからまた2時間くらいで、着いた時夕食はないかもしれないと言うのでここで夕飯を食べてから出発することにしました。しかし1軒だけあるレストランで聞いたら「食事を予約している宿泊客の分しかできない」とのことでした。残っていたおにぎりを1個づつ食べ出発しました。



30分ほど行くとまたまた草原の中に立派な建物が出現しました。運転手が何か説明していたのですが理解できなくてあまり興味を示さずに通り過ぎました。綺麗に舗装された道なのに急にのろのろ運転になっています。どうしたのか聞くと「ちょっと早い」と言うのです。何が早いのか分かりませんが時間があるならさっきの建物を見てみようと言うと嬉しそうな顔でUターンしました。そしてまた私のガイドブックを開いて示しました。そこは世界遺産の中の1つ「ホショーツァイダム遺跡とビルゲ・ハーン遺跡」でした。
ここは第2チュルク帝国の英雄キョルテギンのお墓と石碑があります。石碑には中国唐時代の玄宗皇帝が送ったビルゲ・ハーンの功績や賛辞がチュルク文字でかかれ、裏には漢字でそのことが書かれています。


7時50分に明日見学予定のエルデニーゾーに着きました。その時ちょうど山に夕日が沈むところでした。
運転手が「ちょっと早い」と言ったのは旅行の計画を練っているとき私が「夕日が沈むところを見たい」と言っていたからでした。走っているとどこからでも夕日は見えると思っていたのですが彼なりのベストポジションがあったのです。


夜8時過ぎにハラホリンの中心地に到着です。いくつかのゲル(移動式住居)ホテルを見て今日の宿を極めました。どこのゲルも夕食はできないとのこと。仕方ないのとせっかくだから朝青龍の親族が経営する「ドリームランド」(宿泊施設)で夕食をとることにしその直ぐ近くのゲルに決めました。1つの敷地の中に下の写真のようなゲルが沢山あります。これが私が泊まった部屋?ゲルです。



クラクフ(ポーランド)

2008-09-29 13:42:14 | 旅行
ドブリーデン!

8月4日、アウシュビッツ(オシフィエンチム)に行ったついでにクラクフという街まで足を伸ばしました。
ここはオシフィエンチムから東に54kmのところにありポーランド王国全盛期時代(14~16世紀)の首都でした。
戦災にあうことなく残った歴史的な街並みは世界遺産に登録されています。

ヴァヴェル城

角を曲がったらすぐ目の前にお城が。

大きすぎて全体の写真が撮れなくて残念!
 

旧王宮の中庭

東西南北4棟の建物で囲まれた中庭は思いのほか質素。

3階が王の居室部分で一般に公開されている。

建物はコの字型につながっていてかなり広く見ごたえあり。

1日の入場者数が制限されていて私達は残り173人というところ。

しかも入場時間も決められていて午後3時からの入場。


武具博物館

写真では見えにくいが建物がとても素晴らしい。


聖イジー教会

8人の聖人の石像が並んでいる。


旧市庁舎の塔と織物会館

旧市庁舎は取り壊し塔だけが残っている。

織物会館は14世紀に建てられ当時は衣服や布地の交易所だった。

現在1階は小さなショップが並び2階は美術館。


聖マリア教会

昔、塔の上から敵の襲来を告げるラッパが吹き鳴らされていたがモンゴル軍が攻めてきたとき兵士が放った矢がラッパ手の喉に刺さり殺された。

そのことを悼んで今でも1時間ごとに塔の上からラッパが吹き鳴らされている。

うかつにも買い物に夢中で私はそのラッパの音を耳にしていない。残念!


ビールの着ぐるみ

珍しい歩く広告。

可愛らしくて観光客が一緒に記念撮影をする合間にパチリ!



私達は思いがけなく暇つぶしの時間ができたのですぐそばにある旧市街広場まで行ってみることにしました。
広場には小さな露店(日用生活用品、観光土産物など)がたくさん出ていて結構楽しめました。

後日ガイドブックを良く見るとこの広場の周りだけでも興味を引く見学ポイントがいくつもありました。
是非また行って見たいところです。



学習:アウシュビッツと言うのはドイツ語でポーランドではオシフィエンチムといいます。
ガイドブックや地図にもアウシュビッツという文字はありません。
勿論カーナビにも表示されないのでなぜなのかとても不思議でした。
負の世界遺産にも登録されているというのにです。
日本では普通に知られているアウシュビッツでも近くにいても誰も知らなかったりします。
個人旅行をされる方は要注意です。























小旅行(ポーランド)

2008-08-19 02:21:42 | 旅行
ドブリーデン!

念願叶って行ってきました。負の世界遺産アウシュビッツに。
ここは第2次世界大戦中ナチス・ドイツが、占領した土地からユダヤ人だけでなくポーランド人や共産主義者、反ナチス、同性愛者などを強制収容し直ぐにガス室で殺したり過酷な労働の後殺したりした場所です。
28の民族、150万人の人がここで殺されたそうです。

あまりの残酷さにかなりの衝撃を受け2・3日は食事もできないかも? なんて話も聞いていたのでかなり覚悟をして行ったのですが私はそれほど衝撃は受けませんでした。
むしろ衝撃などは何もなく「今まで自分が知っていたことの事実確認をして来た」と言う感じでした。
残酷さは小学生の頃読んだ「アンネの日記」に始まり新聞や雑誌・テレビや映画などでよく見聞きしていたのでほとんどのことをすでに知っていたからだと思います。
ただユダヤ人というだけで強制収容され殺された人たちのことを思うと言葉では言い表せない複雑な気持ちになります。
可哀想という言葉を飛び越えてもっと違う言葉があるんじゃないかな?といつも考えてしまいます。

アウシュビッツの建物はそのまま保存され今は博物館になっています。
建物の中は撮影禁止なので写真はありませんが私が想像していたより明るくきれいだったので少しイメージが違ったなと思いました。
でも建物の中は修復されたものだそうです。
この修復はドイツの工科大学の学生さんが毎年休みを利用してボランティアで作業をしているそうです。とてもいいことだと思いました。

鉄の門の奥がアウシュビッツ強制収容所

 門の上に「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になれる)」の文字

収容者が蒔いた種から育った木

このアウシュビッツから約2km離れたところに第2のアウシュビッツと言われているピルケナウ強制収容所があります。
アウシュビッツに収容しきれずに改に作ったそうでかなり広い敷地に当時300棟以上のバラックが建っていたそうです。(アウシュビッツは28棟)
ここは映像でもよく見たことがある場所でした。
列車の引込み線があり当時貨物列車にすし詰め状態でユダヤ人達が連れてこられ下車と同時に強制収容所行きとガス室行きに選別されたところです。
真っ直ぐ数分歩いたところにガス室があるのです。
赤ちゃんや子供連れの人もそのままガス室に送り込まれたそうでここをガス室まで歩いた人の気持ちはどんなだったのだろうと思うと・・・・。

「死の門」を通りここで貨物列車から降ろされた
 
「死の門」を入って左側はレンガ造り。ほぼそのままの状態で残っている

右側は木造の収容棟 風化されて一部しか残っていない

機関車はまた収容者を運ぶためここで向きを変えた

 引き込み線の終点
 
画面右側にガス室と焼却炉があったが終戦時にドイツ軍が慌てて破壊しその状態で今も残っている。
今日も遺族が花を手向けていた。
画面手前には大きな国際慰霊碑がありそのそばには28の言語で書かれた慰霊の石碑がある。

レンガ造りの収容棟に入ってみました。
ここは復元ではなく当時のままの状態で残されています。
復元された所とはまた違った、ずっしりと重いものを感じました。
アウシュビッツを見学した人は是非ここも見ておくべきだと思います。
ガイドブックには「蚕棚のようなベッドにぎゅうぎゅう詰めで寝かされていた」と書かれていましたが蚕棚の方がよほどきれいだと思います。

私がとても驚いたことが一つあります。
アウシュビッツ強制収容所の330Vの電気が流れていた有刺鉄線のすぐ隣に司令官の官舎があるのです。今もそのまま残っています。
終戦後この司令官は裁判にかけられたのですが夫人はずっとここに住み続けたそうです。
そしてこの両方の強制収容所の周りには民家が沢山あり人が住んでいるのです。
有刺鉄線の奥は木が生い茂っていましたが石造りの立派な家が立ち並んでいます。
150万人の命が奪われたところなのに嫌ではないのかな?と考えてしまいます。

でもここで働いていたドイツ人の人達は悪いことをしていると言う思いはなくむしろ誇りに思っていた、だから夫人もずっとそこに住み続けることができたのではないかと聞いてものすごい衝撃を受けました。

多くのアメリカ人が日本への原爆投下を「やって良かった」と思っているのと少し似ているのかな?と思いました。(一緒にするとアメリカ人は憤慨するでしょうが)
戦争とは何か? 平和とは何か? を全く違う視点で考えたひと時でした。

世界中の人たちが争いのない穏やかな気持ちで毎日を過ごせる日が来るのだろうか?
そんな日が来るのをより強く願う今日この頃です。













小旅行(モロッコ)

2008-06-30 04:42:39 | 旅行
ドブリーデン!

6月19日(木)~23日(月)まで娘夫婦の住むモロッコへ夫と2人で行ってきました。
プラハ~パリ(1時間20分) パリ~ラバト(3時間弱)
待ち時間のほうが長く自宅を出て約10時間後に娘の家に到着です。

モロッコはアフリカ大陸の北の端にあり地中海の入り口ジブラルタル海峡を挟んでスペインに面しています。
西は大西洋に、南はサハラ砂漠です。

娘はモロッコの首都ラバトに住んでいます。遠いようで近い?、近いようで遠い所です。
お土産はプラハで買える日本食材を手荷物分40kgと機内持ち込み可能なスーツケースに一杯でした。
やはり海外にいると日本食が1番嬉しいのは良くわかっているので全部日本食にしました。

首都のラバトは政治都市のためかとても洗練された綺麗で落ち着いた都市で緑も多く空気も綺麗でした。

プラハもいいところだけれどいつかラバトにも住みたい!と本気で思いました。

写真で旅の様子をお伝えします。

  モロッコの地図

  娘夫婦の住む家。


 20日、娘婿(S君)の車(ランドクルーザー)でカサブランカ経由マラケシュに向かう。
チェコは海に面していないので海を見せてあげようとカサブランカまでは高速道路ではなく海岸線を走ってくれた。心憎い演出に感激!
カサブランカはラバトより南西に約90km。


  映画「カサブランカ」の舞台となった「Rick's Cafe」


  中に入った途端何だか懐かしいような気がした。
ビデオで見たあの場面だ~、ピアノもあったな~と嬉しい。


  ここで昼食。夫が頼んだサラダマルシェ(市場のサラダ)これだけでお腹一杯になりそう。勿論シェアーして食べました。


  マラケシュの街並みマラケシュはカサブランカより南に234km。

建物はすべてこのピンクにしなければいけないと決められているそうです。
最初は「え~、これってピンクー?」なんて皆思っていたけどずーと見ていると確かにピンクと思えるようになりました。不思議!


  夜の「ジャマ・エル・フナ広場」

テレビなどでも見たことがあるかもしれませんがまるでお祭りのような賑わいでアラブ音楽と太鼓の音があちこちで鳴り響き、大道芸や蛇使い、占い師やゲームがあり、屋台のお店も多く活気があってとにかくにぎやかな広場です。


  アラブ風 ストリート・ミュージシャン?みたいな人


  コーラ釣り。 私には一番興味深いものでした。簡単そうでもなかなか取れないのです。

  紐の先に丸い硬いゴム製の輪がついていました。

  今日はこの屋台で夕食。

  テーブルに着くと紙をテーブルクロス代わりに敷きソースとパンを持ってきました。
私達のオーダーは勿論火の通った物だけです。飲み物は水、4人分オーダーすると1,5リットルのペットボトル(未開封)を持ってきました。
1人ずつ違う飲み物を頼むと500ccのペットボトルのようです。

  帰りは観光客用の馬車をタクシー代わりにホテルまでのんびりと帰りました。(15分くらいかな?)

  観光スポットを巡回している2階建てバス。

1日乗車券を買うとどこでも乗り降り自由。

  翌日も馬車で移動。 S君が行き先と値段の交渉。相場を知っているのでとても安く移動できました。
馬車に16回乗ると赤いバスの1日乗車券と同じくらいでした。


  昼間の「ジャマ・エル・フナ広場」

  広場に面したレストランの2階席より。
食べ物屋さんの屋台はまだあまり出ていませんが音楽は鳴り響いていてお祭り気分になります。 夕方から本格的ににぎわうようです。
この日の気温は37℃。
私達がプラハに帰ってから気温は43℃となっていました。

  モロッコの「タジン」
  
「タジン」を頼んだらチュニジアの「クスクス」の上にのっている物と同じような物でした。
チュニジアの「タジン」は玉子料理なのです。
これにはちょっと驚きましたが美味しかったです。


  12人でカンパーイ!

娘達がお世話になっている親しい日本人2家族とタイ人ご夫妻が自慢の手作り料理を持って集まってくれました。
みんなとても明るく楽しい方達ばかりでお会いできてとても嬉しかったです。

あんぱん、のりで目、鼻、口をつけ顔の表情をつけたおにぎり、タイのグリーン・カレーも病み付きになりそうです。
娘達が作ったプチ・アメリカンドック、とてもふんわり、しっとりしたケーキ、その他いろいろすべてがとても美味しかったです。

それからデンちゃん(タイ人の奥さん)がバラの花びらで作ってくれた腕につける花かざり。とても感激しました。


  食後はリビングでおしゃべり


そして翌日の午後の便でプラハに戻りました。
久し振りに娘達に会い、親しい人たちにもお会いでき楽しく充実した日々でした。
今度はいつ、どこで会えるか解らないけれどお互い健康で夫婦仲良く楽しく暮らしていきましょう!







小旅行(フランス・2)

2008-06-18 01:51:11 | 旅行
ドブリーデン!

「モナリザ」さんのことが気になっている人が多いので少し書いておきます。(モナリザさんは幸せですね。多くの人に気にかけてもらえて!)

今回の彼女は大きな部屋の中に彼女専用のパネル(一見大きな壁)に目の高さくらいの位置に飾られていました。
部屋の両サイドではなく部屋に入ったらすぐ目に付くように真正面の奥の方です。
奥は別の展示室につながる通路もあるため壁より2~3m手前に巨大なパネルを造っているのです。
彼女はそこにただ1人でいました。
そして半径5mくらいの半円状にロープが張られていました。
下の2枚目の写真でわかるかと思いますがパネルは30㎝くらいの凹みがありそこは上から下まで強化ガラスで覆われています。

前回(約20年前)は他の絵画と同じように展示されていましたが彼女だけ額縁ごと強化ガラスで覆われていました。
しかしロープなどは無く至近距離で観ることもできました。
ただここだけは黒山の人だかり(ほとんど日本人でしたが)
この時は彼女に再会して感動したことを覚えています。

彼女が日本に来たときはもう30年以上になりますね。
長蛇の列で係りの人が「立ち止まらないでくださ~い」なんて何度も拡声器で叫んでいました。

  「モナリザ」



小旅行(フランス)

2008-06-15 04:50:41 | 旅行
ドブリーデン!

先週の土・日に1泊2日で友人とパリに行ってきました。
なぜまた急に、しかも1泊2日なんて・・・と思うでしょう?
実はこの小旅行は友人の夫婦喧嘩の最中に出てきた話しなのです。
子育てでストレスが溜まっている友人は喧嘩の最中に

「・・・!!!そんなこというなら私はリョウさんと泊りがけでどこか旅行に行ってくるから~~~!!」
「あ~どこにでも行きなよ!! リョウさんと一緒なら行ってもいいよ!! どうぞご自由に!!」

と怒鳴りあったらしいのです。(笑)

翌日方向音痴の友人は興奮気味に私にどこでもいいから連れて行って欲しいと言うのです。
彼女は前回パリに行ったとき2才と5歳の子供にぐずられベルサイユで何を見たかも思い出になくホテルで子供と遊びラーメンを食べたことしか覚えていないと言うのでパリにしました。
朝1番(7:15)の便で行き翌日の最終便(8:40)で帰ってきました。
片道の飛行時間は1時間20分です。

下の写真はマリー・アントワネットが結婚式を挙げたベルサイユ宮殿内の教会です。
彼女はこの式の最後に婚姻誓約書にサインをする時ウェディングドレスに黒いインクのシミをつけてしまったそうで、後に処刑される不吉な暗示だったのかもと言われているそうです。

ベルサイユ宮殿は2度目ですが以前は「鏡の間」がすすけて黒い感じだったのでがっかりしたのですが2年くらい前に綺麗に磨き上げられて元の輝きを取り戻したとニュースで知ったのでまた行って見たいと思っていました。
「鏡の間」はピカピカでした。(残念ながらここでの写真にはリョウが写っていたのでUPできませんでした。行って観てください)

ベルサイユ宮殿内の教会

下の写真は1番有名なシャルル・ド・ゴール広場の凱旋門(パリには4つの凱旋門があります)で高さ約50m、巾約45mあります。
夏は夜11時まで272段の螺旋の階段で上まで上がれます。(お年寄りや身障者のみエレベーターで)
戦いに勝ったフランス軍を称えるためナポレオンが依頼して建築が始まり30年後に完成。
しかしナポレオン自身は凱旋することはできずセントヘレナ島より遺骨となってこの門をくぐりました。
その日ここで彼の盛大な葬儀が行われたそうです。

  
シャルル・ドゴール広場の凱旋門

下の写真はルーブル美術館の中です。
昔は国王が住んでいたルーブル宮殿だっただけに絵画は勿論、建物自体もかなり見ごたえがあります。
この部屋は館全体からみてほんの一部分です。
ルーブルは本当に広くて今回2度目ですが以前は時間がなくて見ることができなかった部分が見れて良かったです。
またパリは毎月第1日曜日はどこの美術館や博物館も入場無料なので混んでいるかと思っていましたがそれほどでもなくラッキーでした。
  ルーブル美術館の内部


下の写真はダヴィッド作の絵画 「皇帝ナポレオンの戴冠式」 です。
大きさは 縦6,21m、横9,79m あるそうです。
皇帝になったナポレオンはローマ教皇から王冠を取り上げて自ら冠をかぶり妻ジョセフィーヌにも自分の手で冠をかぶせたそうです。
この絵はその時の様子を描いたものです。

今回私が始めて知ったとても興味深い絵があります。
この絵と同じ絵がベルサイユ宮殿にもあります。
偽物ではありません。どちらもダヴィッド作の本物なのです。
ダヴィッドはこの絵が火事などで焼失した時のことを考えもう1枚描いていたそうです。
しかし当時は同じ物を描いてはいけないという法律があったのである一部分だけわざと違うように描いたのです。
それは左側前列に同じ白いローブ・デコルテを着た女性が5人並んで立っています。(ちょっと見にくいかも)
その5人の内、左から2人目の女性のドレスの色を白ではなくピンクにしているのです。

ベルサイユ宮殿の中にその絵があるのですが写真を撮ってこなかったのをとても残念に思っています。
もしこの戴冠式の絵を観て全員白のドレスならルーブル美術館にある1作目、1人の女性だけピンクならベルサイユ宮殿の2作目と思って観てください。
(ダヴィッドはピンクのドレスの女性に恋をしていたので2作目は彼女に捧げるために描いたとか週刊誌ネタのような話もあります)
こんなことを知ってしまうと私の興味がまた広がってしまいます。
一つ一つの絵にもいろんな思いが込められているんだと思いただ綺麗だね~、上手だね~ だけではなく絵の時代背景などにも興味が湧いてきます。

  
ダヴィッド作の絵画 「皇帝ナポレオンの戴冠式」





旅の途中

2007-07-15 16:39:10 | 旅行
ドブリーデン!

まだ旅は続いていますが気になっていることを聞いてみました。
ベロニカさんが食事中にいつも飲んでいるワインの事です。
レストランで飲み物を注文する時ドイツ語なのでわからないのですが彼女のだけ特注なのか会話が複雑なのです。

「それは何?」 「白ワインの水割り」 「えっ?!」と言う驚いた顔を見て説明してくれました。
白ワインと水を5:5で割った物とのことです。安いワインはこうして飲むのが美味しい。良いワインでも酸化させてしまったらこうやって飲むと美味しく飲めるそうです。
また 「炭酸割り」 というのもあるそうです。
6:4という割り方もあるそうですが「私はこれ5:5が好き」と嬉しそうな顔をしていました。

ついでに気になっていた「ホットビール」についても聞いてみました。
ホットビールはビール好きが冬の寒い時でもビールを飲みたくて考え出された物で今ではそれ専用のビールがあるとのことです。

原材料にさくらんぼやハーブが使われているそうです。
暖めても低温で飲むと臭くて美味しくないけど50~60度くらいまで暖めると甘くて美味しくなるとのことでした。
また昔から 「風邪をひいた時に飲むと良い」 と言われているそうです。

ビール党の方、真冬の寒い時期にお試しあれ! 早く試してみたいと言って風邪などひかないように!
「甘い」 と言うのがちょっと気になりますが私も試してみたいと思います。

ちなみにヤーン氏は全くアルコールはダメで 「ドイツ人だからといって誰もが飲むわけではない」と強調していました。



シュツットガルト2日目

2007-07-11 08:52:10 | 旅行
ドブリーデン!

6月17日(日)朝起きて1番に外を見たら夜中のどしゃ降りの雨がうそのように空は雲一つない青空で気持ちの良い朝でした。

しかし実はプラハを出発する時からMさんが軽い腰痛になりSさんが持っていたベルトを借りて巻いていたのですが痛みがひどくなったようで座るのも辛いという状態でした。

前日も午後からはホテルで休んでもらっていたのです。
1日中ホテルに残すのも心配なのでこの日は一緒に移動しそのつど見学するか車に残って横になっているかすることにしました。
幸いヤーンご夫妻は我々のために8人乗りのワゴン車を3日間借りてくれていたのです。

10時にヤーンご夫妻が迎えに来てくれ午前中は3つの小さな町(村?)を訪ねました。
まず「Hessigheim」という所です。ここはあたり一面ぶどう畑。ワイン工場は休みで見学はできませんでしたが1件だけあるワインバー?で試飲させてもらいせっかくだから夫へのお土産にと1本買いました。

先週ベロニカさんからメールが届き「週末にワインを飲みに行ったらあの時のおじさんが私たちのことをとてもフレンドリーな人たちだと楽しそうに話していました。」と書かれていました。
そのおじさんにとって私たちが初めて見る日本人だったそうです。観光スポットではない山の中なのでそうかもしれませんね。

次は「Besigheim]と言う所です。ここは中世の街並が今もそのまま残っていて人が住んでいるのです。
この日は夏祭りでフリーマーケットのお店がいくつも並んでいました。
めぼしい物を見つけ帰りに買って行こうと思っていたら帰りは別の道を通ることになり買えなくて残念!

最後は「Bietigheim」と言う所です。ここは「草津」と姉妹都市と言うことで日本庭園がありました。
メイン通りの1つ手前の一人しか通れないような小さな道に入っていったので近道するのかと思ったらここは「魔女」が通る道と言い伝えられているそうでちゃんと「魔女通り」と通りの標識もありました。どの家も玄関に魔女の人形を飾っていましたが魔よけだそうです。

ランチにヤーン氏お勧めの白いソーセージを食べました。皮をはいでいただくのですがこれがまた美味しくてクセになりそうです。
チェコでも白いソーセージを見るのですが食べたことはありませんでした。

その後は・・・。長くなったので次回にします。

写真は2つ目の町の写真です。町の名前はそのつど聞いたのですがドイツ語なので難しくて書き留められませんでした。ごめんなさい。