marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

日本の伝統工芸についてすぐ浮かんだ物

2016-06-08 21:30:31 | 日記
それは JAPAN です。漆器。英語そのものが示しているので僕と同じ答えの方が多いような気が致しますがどうでしょう。本日、失われる日本の技能とかで漆器のことがTV放映されておりました。漆器について英国から学びに来た女性が3ヶ月のつもりが30年たったという・・・斬新なデザインの漆器を考案しているのが示されていました。伝統工芸で日本という名称そのものからも失われて欲しくない工芸であります。こちらの地方では、杉の板材を曲げての弁当箱とか、物入れ、「曲げわっぱ」というのがあります。それから、桜の木の皮を貼りつけた茶筒などの「桜の樺細工」が知られているかな(これが日本という国名が付くのかと言われるとなんですが・・・)

世界のベストセラーを読む(18回目)

2016-06-08 20:12:57 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 同志社大の神学研究科を出られた佐藤優さんは、「神学は役に立つ!」、「神学は人生を変える!」(いずれもNHK出版)と本の帯に述べられています。写真掲載します。それから、「神学部とは何か」(新教出版社)も出されてますね。で、岩波現代文庫から「獄中記」なども出しています(その他沢山)。    今日は、本の紹介などではなくて、彼が聖書を読む(購入する)のであれば、索引、引照つきをお勧めしますと言っていることなのです。引照つきというのは、16回目の中央部に聖書の見開きページを掲載しましたが、とじ目の左右に、小さな文字が書かれていますが、それは、その見開きの節の数字のテキストに関連する、旧約や新約聖書の他の箇所が書かれてますよ、ですからそこも読んでねということを示しているのです。特別に16回目の写真は、いのちのみことば社(です、ます調文のもの)で出版のチェーン式(これが写真下の文字での説明が他の箇所とつながっているのでその説明を書いているのが売り?)という厚い高い本ですが、大切なのは引照の意味。日本聖書協会から「口語訳 聖書 引照つき」の持ちやすいのも出ています。立ち読みOKのところもありますが、子ども向けの聖書の物語ではなく、きちんとイエスの言葉が「」で掲載されているものですよ、読まれるのは。いままで聖書を自分の言葉で読みなさいと奨めてますが、我等、此の国の者にとりましては、それまでの神の民の歴史を知らない異邦人の国の者でありますから、いきなり聖書を読みましても、入り込めないところがありますが(でも、理解できることもある・・・これも内容は神学論争で言われて来たことだ、これについてはいずれ)その引照を読むと、過去何千年もの昔に(当然、それぞれの著者は異なるのだが)今、読んでいる聖書の箇所を示していたのだ?? という、永遠のパラダイスから離れてしまった人間が、神の深い底を流れる水脈を堀起こしているという思いにさせられるのですね。例えば、イエスは、「自分はアブラハムが生まれる前からいるのだ」という言葉など、聖書の最初、創世記にでてくるアブラハムですよ。イエスのその箇所を見ると、引照に旧約聖書のその箇所が、示されているということです。そのように、今読んでいるヨハネ伝の中にから、イエスの言われた言葉、群衆が今まで我々は先祖伝来こう聞いているなどの箇所があった場合、その引照をみると過去に言われた聖書の箇所が示されていることになるのです。イエスの生まれる前の先理解が無い我々もそのように、自分の言葉で引照を探ることによって、バックトー・ザ・フューチャーになった思いにさせられるのですね。そのように、イエスは、聖書は私について書いてあるのだと言われ、当時、聞いていた群衆、そして論争した祭司などは何を先理解していたのかは、引照を調べることにより理解出来るようになって来るのです。・・・Ω

世界のベストセラーを読む(17回目)

2016-06-07 19:55:06 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 今日もイエスの語られたというひどい話について。ルターさんの言われたとおり福音書はまずヨハネ伝ということで読み続けております。一通りのキリスト教会で言われています肯定的な内容について、イエスが話された箇所から、父なる神と御子イエスとの関係、そして聖霊について調べました。今日は昨日の続きで「ひどい話だ」と言われた続きです。その箇所は第6章54-55節が究極的な該当の言葉とお見受けしました。しかし、これは現在もキリスト教会で行われています「聖餐(せいさん)」についての実に重要と思われます箇所なのです。僕が思うに重要な箇所であれば、話の内容から第6章の29節と30節の間から切り離してもいいように思われたのだが、この第6章は良く読むと食べ物のことについて総括された話となっているのですね。「私は命のパンである」(48節)と書かれているとおりに、その総括的な意味あいが全体にわたって書かれている。それにしてもストレートに肉を食べ、血を飲むなどと言われたらびっくり仰天だろうな。実際、僕の土地でも宣教師が来たとき、聖餐は秘儀だったから公に行われないので、人をたべたりその血を飲んだりしている大変な邪教と言われたこともあったような。その家の前を通るときは口をふさいでそそくさと早足で通り過ぎたり、石まで投げられたりといろいろあったようだ。◆今日、お話ししたいことは、人が言われたことを理解するという思考は、聴く者に先理解のインプットがあるのが普通で、そのことが後で体験したり聞いたりして、その意味が分かるということでした。31節に「わたしたちの先祖は荒野でパンを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。(31節)という群衆の言葉から、このひどい話が引き出されていくということなのです。ですから、創世記からのかれらの当時の聖書の意味を深く理解していた者たちのみが、イエスは天からの命のパンであるということを理解したということになるのです。永遠の命、人を創造されて命を吹き込み、イスラエル人を導いてきたという深い水脈の流れがあって、その流れの中で真の命(イエス)が現れ出、それを食べると死なないという理屈になっているわけであります。ヨハネ伝には、父なる神の導いた旧約の話が(当時ではそのまま聖書)引用され、アブラハム、モーセ、預言者イザヤまた、群衆が話された31節の引用も、先祖が読んできた聖書からひっぱてきたものだ。我等、異邦人は、その神の民の伝統いわれは持っていない。しかし、その歴史を少しかいま見ていかないと、先に進んでいけないところまでそろそろ来たようだ。どうぞ、ヨハネ伝、線を引くなりして自分の言葉でいろいろ整理されて見て下さい。次回は、その導きとなる索引付き聖書についてのお話です・・・Ω


世界のベストセラーを読む(16回目)

2016-06-06 23:00:08 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 会社で昼飯の時に若い奴に「一週間の7日間は、神さんが天地を造ったときに1週間掛けて7日目に休まれたから、日曜日は休みになったんだな・・・」といったら、「へぇ~そうなんですか」と言われた。ついでに「クリスマス知ってるだろ、その神さんのひとり子なんだよな」といったら、それも初めて聞いたような顔してたな。大丈夫かなこれからの日本、少し不安になったぞ!いつまでたっても新聞の広告欄にはスピリチュアルな本が掲載されるしなぁ、少なくともこれからの若者はこのような物には巻き込まれませんように。さて、最後に写真載せた、いのちのみことば社の聖書は、新改約で新共同訳(こちらの共同とはプロテスタントとカトリックが共同で約したという意味、これも先に写真掲載)とは少し口調が異なり「です、ます調」で書かれていますね。宗派によってこちらを採用しているところもあり、さらには、新共同訳より前の口語訳というのを使用されている(これは宗派より、教会により異なるようですね)ところもあります。いずれ、イエスの話された内容は変わりませんので、いずれでもいいので、まずその大枠を自分の言葉で捕まえられますように。      そこで、今日は、キリスト教会で秘儀となっている「正餐」について、ヨハネ伝から拾ってみましょう。これは、ひどい話だという内容です。これは、6章の中頃から始まっているので、どの辺から始まっているか捜して見て下さい。そうすると究極のひどい話は何と言ってもイエスのことば、第6章55、56節だろうね。ところが、いきなりこれを我等が聞くと畏れおおくもと一瞥するか、内心知りませんとポーカーフェイスでににこするでごまかすかになるだろうけど、当時の聖書から読み抜いていた人達は、「天からのパン」ということは、その中に言われてきていたことだからピンと来たのだったのよね。だから、何をイエスが言わんとしていたかは永遠の命との突拍子のないことの結びつきを察したのですな。で、現在、信者が正餐の儀式を行うのは、この今の肉体が復活してリアリティーを持って生きるだろうことを感ずるのですね。で、これ以上たちいると僕もようわからなくなるので、今日の共に覚えたいのは、旧約時代から言われきた「天からの命を与えるパン」ということがイエスのことに例えられことを分かる人(弟子)は分かったということになるのです。分からない人は分からない。ひでぇ話だ。ですから、そのいわれは、神がユダヤ人を自分を伝えるための役割を担う民族として選んだということなのよね。かたくなにモーセの言われを死守してきた。それは、イエスを伝える深く流れる水脈として、それが枯れないような役割をその民が担ってきたとうことなのでした・・・。Ω写真は新改約の索引部分を掲載。

世界のベストセラーを読む(15回目)

2016-06-05 21:10:53 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆  「聖書」の後に「自分の言葉」でという文言が隠れておりますことをご理解ください。「読む」という行為に対して、そんなことは当たり前ではないかと普通は思われるでしょうが、小難しいことを言わせていただければ、聖書に関しては、内容がなにぶん神様の言葉らしいのでだいぶ趣が変わってくるのであります。「聖書」は、普遍的で内容はともかくも、先の回にも書きましたが、「自分」とか「言葉」とかに読まれる方が疑問を生じさせて来られたとするならば(何故か、このような事を考え始めるのは悩むという、まさに壁にぶつかった時に客観的に自分を見つめるような時に立ち現れるらしいのですが)、相当のレベルでそのような方はイエスの語られる「真理」とやらの秘密の扉を開く資格に近くあると感じて欲しいものです。しかし、本来、そのようなことは、こちら側(人間側)の言い分でありまして、小難しいことは一切考えずに、一回だけその道を伝える方の話を聞いて洗礼(これは後で)を授けてくださいと願い、その後、教会の奉仕をされ人生をまっとうされた方を身近に知っておりますから、その領域につきましては、このブログでは畏敬の念を感じ踏み込まないことに致します。さて、ヨハネ伝から、三位一体(こういうまとめ方も難点、これも後で)と、その中の聖霊について拾いました。すべて、イエスという方の言葉からさがしました。そして、真理の霊=聖霊がすべてを教えてくれるであろうということも話されたことも見つけました。今後、条件はイエスの言われたことから離れないこととなります。これは別に宗教的な抹香臭いお勧めではなくて、そのことを意識しないとおそらく、父なる神が御子イエスを通して話されたことを思い起し、聖霊がその伝達をされたのであろうとの推察はできないだろうから ということになりますね。何度も書きますが、生きている動いて活動されている聖霊が導いてくださるであろうということをイエスが話されたのですから試されることをお勧めします。いいですか読むのは自分の言葉です。他人の言われたことではない。ぼんやりしているものではなく、少なくとも命ある今という時にいつかは消滅必須のこの肉体を持つ私が、「生きて私を信ずるものは死ぬことがない」(ヨハネ伝第11章26節)と言われたイエスの言葉を読むという行為のなかに、自分の言葉でそれを見つけ整理して理解することは「真理はあなたがたを自由にする」(同第8章32節)のパスポートを手に入れられた事になるということになります。少し先を急いでしまいました・・・そう、読み取れるということだけです。・・・Ω