marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(14回目)

2016-06-04 16:19:01 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 朝のNHK連続ドラマ「まっさん」のニッカ・ウ#スキー創設者、竹鶴さんの放映があったころ、2104年でしたかイギリスでスコットランドを独立させようと運動があったのをニュースでご覧になりご記憶の方がおられるかも知れません。イギリスの中でもスコットランドは、カルヴァン(カルヴィン)さんの長老改革派(プレスビテリアン)で、方やイングランドは国教会(アングリカン)ですから、あまり仲良くないのよね、歴史を見ると。    さて、今日はその原因推察・・・。初めに戻り気を取り直して、プロテスタントの開祖、マルチン・ルターさんの福音書をよむんだったらまずヨハネ伝との言葉に準じ、他の3つの福音書は後回しにして今日は、その中から、「聖霊」についてイエスが語られたところを2,3最後に。その前に、三位一体ということをよく言われますがそれは、父なる神、御子キリスト、御霊なる聖霊のことでこれらは一体であるということでした。ヨハネ伝から、もう一度、イエスの言われたことを整理して自分の言葉で読んで見て下さい。そんな感じした? 三位一体についてそれをイエスの言葉から整理するとそうなるだろうということで後の方が整理したので(ここ注意ですが)聖書の中に三位一体という言葉が出てくる訳ではありません。いろいろ、イエスの言われたことに対して、整理して人の言葉で総括するようになり、神学云々が始まりますが、これが難しくなってくる原因、そして、時代、時代に聖書の言葉のどこを特化するかによって、声を高く上げ、時代に受け入れられればそれが普遍的な意味合いを持つと後の時代の人は勘違いして、何とか主義とか派とかができあがってくる。おい、それでは、イエスの言葉は杓子定規に言われている訳ではないから、無数に出てくるような気がしてしまうでしょう。それに、当時の名前の知られていないお弟子さん達は、少なくとも全部を知っている訳ではなかったから、後の時代の人は、できあがった組織や教派に従属してしてしまい、それを肯定してしまう。何となくすっきり聖霊なんか感じないけど、まぁいいか ということになってしまう。後でパウロの手書にもあるけれど、当時すでに誰それにつく、あっちだこっちだと仲間われができて、人間というのはどうしてこうなんだと思わされるところがあるのですね。今の時代も変わらないのね。僕は何を言いたいのか、そう自分の言葉でまず読むということを強調したいのです。横目を振らず、イエスが聖霊により教えてくれるといっているのだからねぇ。ヨハネ伝:第14章26節、第15章26節、第16章13節を上げておきます。他にも言われておりますので線を引いてご確認を。分からないところが出てきたら、チャンスと思いなさい。本当に恵みは大きいぞ!・・・Ω 今日の写真は いのちのみことば社 「聖書<新解約>聖書」です。

世界のベストセラーを読む(13回目)

2016-06-03 21:51:20 | 日記

◆世界のベストセラー聖書を自分の言葉で読む◆  今日も脱線。「炎のランナー」という映画がありましたでしょう。ロンドンオリンピックでMr.ビーンのパロディーも流れましたけど。音楽もとてもいい音楽ですね。映画も良かった。実話です。今は、you tubeで見れますから是非ご覧なさい。DVDもお安く手に入ります。映画は教会でエーブラムの追悼記念の場面から始まります。そこで、旧約聖書のイザヤ書第40章28~31節が読まれます(この聖書の箇所は有名なところ)。エーブラムはユダヤ人で人種差別を受けながらも英国人であることを誇りにしていた。恋人は、最後に一人降りてくる(人種差別ありの時代の残骸だなを匂わせる)彼をプラットホームでまっている・・・泣けるな!落ち込む彼を元気つけるのも彼女だし・・・。映画ではもう一人、エリック・リデルの最後は映画ではえがかれていませんが、その後、宣教師となって中国で殉教しているのです。ところで、どうしてこのようなことを書き始めたかというと日本では「炎のランナー」となっていますけど、英語の題は「Chariots of Fire」ですね。聖書を英語で読んでいる人は(だから、欧米の人は常識となるのだが)、この箇所が旧約聖書に出てくる大預言者、エリヤとエリシャの間に立ち現れる日本語訳では「火の戦車」(列王記下第2章11節に出てくる)そのものの言葉だからです。昔の戦車というのは、大きな両輪があって馬に引かせるものでしたから、エリック・リデル(キリスト教プロテスタント宣教師)とエーブラム(ユダヤ人旧約の民の気質をもつ精神)の両輪が、この世界を牽引してきたんだよな、そういう暗示的な映画でもあったなぁと僕は勝手に思いこんでいるのです。その箇所、昨日紹介のオックスフォードとケンブリッジ大学出版のTHE NEW ENGLISH BIBLEからの写真をつけます。         日本聖書協会の新共同訳では、次のようになっています。「彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。」(旧約:列王記下第2章11節)。預言者エリアとエリシャの別れの場面です。・・・Ω

 フランスで客死した哲学者 森有正が子どものころ子ども向けの此の場面の絵を見せられて強烈な印象を持ったという文を何かで読んだことをふと思いだした・・・。

世界のベストセラーを読む(12回目)

2016-06-02 20:09:03 | 日記

◆世界のベストセラー聖書を自分の言葉で読む◆  12回目となりました。12という数字は、特有な数字で、それも旧約聖書から来ているようです。一ダースがそもそも12、何故? 一番分かりやすそうな指10本なのにね。12というのは、数字でいろいろ気になるところがありますね。1年は12ヶ月、半日は12時間とか。こじつけのようなところもありますが、イスラエルの部族が12部族あったところから来ているようです・・・1年は初め10ヶ月あったらしいのですが、ローマ皇帝のジュリアスが今の7月に生まれ、生まれた月JULYを割り込ませ、その後、皇帝アウグストスが今の8月に生まれてAUGUSTを割こませ、現在の12ヶ月になったとか。   さて、本筋からはずれっぱなしでしたが、その後、みなさまはルターさんの推奨された、福音書ヨハネ伝はお読みになりましたでしょうか。ルターさんは福音書はまずこれだとヨハネ伝を選ばれたのでした。父なる神とイエスとの関係、そして聖霊が分かりましたでしょうか。そして、何故、地上に誕生されたのかは、読んでも少し分からなくなってきそうなので、待てよ!そもそも読むということをする「自分」とは(それを前回、大きな壁があると書きましたが)、何なのかということにぶつかりました。わたしたちを含め、天地を創造された父なる神は、今も活きて働いているとカルヴァンさんは聖書の言葉を述べられ、プロテスタントでは大事件となった人間(自分)と神との関係を包括的、かつ体系的に神学書「キリスト教綱要」に著したのでありました。かのギリシャのソクラテスは「汝自身を知れ!」とのたまいましたが、実は、自分のことは自分で良く知らないのではないでしょうか。だから悩む・・・。(「悩む力」という本もありましたが、これにつきましてはいつぞや書きましょう。)「自分」という大きな壁、実は、この壁のことが理解できれば、イエスが何故、地上に父なる神からつかわされてきて、十字架に掛かったかが理解できるようになってくるのであります。自分の言葉で考え尽くしていくと、必ず、イエスの十字架にぶつかると僕は思っていますが、先を急ぐことはやめましょう。「人間に、自分自身を知ることを強くすすめる古い諺には、非常にもっともなところがある。・・・(「キリスト教綱要」 第10章 原罪 一、罪の事実 冒頭より)・・・Ω   昨日の写真は表紙見開き、今日は外から、オックスフォード、ケンブリッジ大学出版社からのもの)。英国のこの両大学も、仏のパリ大学も米国ハーバードもすべて神学から始まりました。「主を畏れることは知恵のはじめ(箴言第一章7節)」の言葉が定礎に刻まれている・・・。


世界のベストセラーを読む(11回目)

2016-06-01 20:18:30 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆  一日おいて、今日はとても寒いです。一昨日は、PCおかしくなるくらい暑い夜だったのに今日は北の方ではみぞれも降ったというニュースがありました。そこで、まずはお茶を飲みます。緑茶。さて、そろそろ、プロテスタントのもう一人の方のお出ましを願いましょう。その前に、大切なことを書かねばなりませんでした。「聖書を自分の言葉で読む」が主眼でしたが、そもそもそこに「自分」という大きな壁があったことに気がつきませんでした。キリスト教では、純真にその道を求めている人が、少しのきっかけでその道に迷ったり、外れてしまうことを石につまずき前に進めなくなるような例えで「つまずき」と言います。どうぞ、パウロさんと言う弟子が手紙に書いたように固い食べ物を食べられるようになってから、このブログを読むようにしてください・・・と一応責任を回避しておきます。たいした事書いてませんけど。 さて、宗教に何か答えを求めようとする方は、実際、自分探しに迷った方が多いのではないでしょうか。自分は何なんだろうとか、心の中の漠然とした不安とか、人生の生きる意味とか、自分(他人が)が嫌になったとか、自分の位置、心の確信のようなものが得られないなどの理由から、聖書を読んでみたいとか、キリスト教会に行って見たいと思う。このことは、人類が神から離れて以来の正常な感覚なのだと僕個人は思います。「神のもとに帰らぬ限り人は安らぎを得られない」といったのは、アウグスティヌスでありましたか。そのような事が、まず心の中に誰にでも起きるものである(起きない人もいるでしょうけど)ことが、第一に神はおられるとことでありましょうし、確かに自分の言葉で読み、求め続けようとの思いにさせられるならば、本当に心の安らぎを得あられるでありましょう。(でもま、人ぞれぞれなので・・・ね。)そうでした、そのような人は、イエス御自身、私が選んだのだと言わておられますから他の人は何やかやを言えないのでした。 「真実にして、実質的なる知識は、主として、神についてに知識とわれわれについての知識の二つの部分から構成されている。しかしながら、知識についてのこれらの二つの枝は、非常に密接に関係しているので、そのどちらが先であり、他のものを生み出すかということは、わかりにくい。何故ならば、先ず第一に何人も、自分自身を眺めようとするならば、直ちに自分がそのうちに「生き、動く(使徒言行録17:28)神を考えようとするのでなければならないからである。・・・」第一章神についての知識とわれわれ自身についての知識「(カルヴァン)キリスト教綱要抄より」。今日の写真は「THE ENGLISH BIBLE(OXFORD/CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS 1970)・・・Ω