marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(825回) (その23)③あのような小説が批評家に受け入れられると思っているのか?

2021-03-17 16:46:39 | 小説

「・・・それなら君はノンキ坊主だ。おれは二ページでやめたよ。」と、批評家小林秀雄に言われたことだと大江自身が述べている文章です。小林が言った理由は、ブログの815回の「文化の学生諸君へ」の小林秀雄の言葉であろうと書いたのですが、どちらかと言えば、批評家の大家だからという訳ではないが、このブログもそっちの方面なので同感なのですが、それはいずれ。◆大江は、多くのあらゆる作家作品からインスピレーションを受けた文章を引用して(つまみぐいと書いてしまいました)自分の作品に採用しているが珍しくも自分の文章を長々と採用しコケにされたの文章は『新しい文学のために』の<10 読むと書くとの転換装置(二)>に引用したローベルト・ムジールの『特性のない男』第三部ぼ主題、主人公ウルリヒとその妹アガーテが、どのように近親相姦としての愛を達成し、しかもそれをとおして、愛の千年王国をいかに実現するかというものだったと説明し、そこの『夢』となづけられた草案の一節に出てくる、そのまんまの文章の採用ではないかと推察されたのです。***《しばらくして、夢はあらためて始まった様子だった。彼女は、自分の肉体をまた離れた。この時もすぐに兄に出会った。またしても、彼女の身体は一糸まとわず、ベットの上に横たわっていた。ふたりはその姿を眺めた。この魂の離れた身体の恥毛は、大理石の墓石の上の小さな黄金色の炎のように燃えていた。》<「新しい~」p128>)◆次は大江の文章です。***《・・・妹よ、きみがジーン・パンツをはいた上に赤シャツの裾を結んで腹をのぞかせ、広い額をむき出して笑っている写真、それにクリップで重ねた、きみの恥毛のカラー・スライド。メキシコ・シティのアパートの眼の前の板張りにそれをピンでとめ、炎のような恥毛の力に励ましを求めながら。》(「私という~」同時代ゲーム<p95>)****どこが? はい、<炎のように燃えるように見えた恥毛>の部分です。大江は、ローベルト・ムジールの文書から「異化」を読み取り、かなりのインスピレーションをうけたのでしょう。その毛の部分から。(違ったらごめんなさいデス!)


世界のベストセラーを読む(824回) (その22)②畏れ多くもノーベル賞作家を批評する

2021-03-17 16:12:16 | 小説

 ◆添付写真も今から半世紀以上前にBookOff100円コーナ-で購入したものだ。きちんと購入してたが『小説の方法』(岩波現代選書)、それは薄青色の表紙だったが、よりハンディ版にとさらに書き改めたいとのことで出版されたもの。中に時折、鉛筆でメモ書きがしてあったから、やはり、大江を知りたいと願う方が多くおられるのだろうと。2006年4月24日第33刷発行となっているので結構、読まれたのだろう。これも当然、めちゃくちゃ引用が多い。知識が増すには助かるが、彼自身の作品自体からすれば引用される作家、思想家、音楽家、画家、建築家・・・までが、当然と言えばそれまでだが、引用文そのものは分かりやすい。◆そもそも、つまるところ彼自身が見出した小説の方法、その『異化』する、されるということ自体、引用された方々は『異化』などとは改めて考えてもいないわけで、彼自身がその引用文で、自らの方法、見方を用いてグタグタ(愛する健三郎さんごめんなさい)と解説しているものである、と考えれば分かりやすい。先に書いた彼の『私という小説家の作り方』(新潮文庫)のそれぞれの引用を用いての解釈、説明にも実に僕は、いろいろ述べたくなってしまうのだったが、それ以上に、この本にもいろいろお尋ねしたくなる分部があれこれと出てくるのだった。ご自分の作品を引用としてこう用いたなどとは決して種明かしはでてこないのだ。「同時代ゲーム」の養護施設で主人公が語る場面や、まさに、あの批評家小林秀雄からコケにされた妹に手紙を出す冒頭の主人公が述べる部分(彼はめずらしく自己の作品を引用している<p95>)が、学生時代から職業作家とならざるを得なかった語学万能、知識豊富な多読家の彼は、こんな作品から引用してたんかと、それにしても、まんまちかいな、と思われる文章が掲載されている(と僕には思われた)・・・次回、紹介。

 


世界のベストセラーを読む(823回) (その21)①ノーベル賞作家、大江健三郎を批評する

2021-03-13 19:08:28 | 小説

◆言葉に与えられるノーベル賞作家において、受賞すればすでに過去の人でその内容も定かならずで、未だこのようにブログで、彼の名前が出てくるとうのは、やはり彼が、知的に小説の方法にあがきながらも悪戦苦闘して、作品だけではなく、たとえ歪に解釈されようともその方法、システムの序論を提示せんとしてあがき生きているからである、と僕は考える。大江健三郎賞という文学賞ができたくらいだからシステムをそれなりに軌道にのせたことになるのかなぁ。◆しかし、これまた僕にとっては、確かに歳をとったせいでもあろうけれど、いくらでも彼の作品はともかく、彼自身、フィクション(うそ)だと言っているのだから文句をいいたくなるような、つつきたくなるようなその方法のうんちくに、引用された内容(おつまみ)への彼の解釈なのだ。だからというか、無論、僕は普通の人で作家稼業でもないわけだが、そういう志ある人と違って、途中から読めなくなったためもあるが、それは彼が、あくまで小説の内容はともかく、小説の知的手法にこだわったと思われるわけで、ロシア・フォルマリズムの「異化」についてをしきりに述べるところにあるのであった。◆しかし、この見いだし感激したであろう小説の方法「異化」のノウハウを説明するに、できあがって流布され知られている文章、ダンテはじめ歌人俵万智や夏目漱石や、ニーチェまでを持ち出しては否、引用好きな彼は実に多くの詩人、作家や思想家を持ち出して言わんとするところは、それなりの「異化」についての理由付けではあろうけれど、最終ご自身の小説自体については採用せず、よく分からないというのはどうしたものだろうと思ったのだった。ところが、そこには逃げ道があって、「異化」には難解な文章にもなるのであって、そこに読者が主体的な読みをする努力もする要求することがある、と述べているのである。


世界のベストセラーを読む(822回) (その20)好きな作家「大江健三郎」は、おつまみセット

2021-03-09 10:24:07 | 小説

◆「読書には時期がある」と彼は述べているが、確かに世間も知らず、人生経験もそれほどなく、他人という生き物から自分も含めた人と言う生き物の生き様を見、経験を積んでいけば、やはり頑張っても途中から、若いころ好んで読んだ大江健三郎は、読めなくなるのだった。歳をとったせいだろうということだ。欧米の詩人、思想家、作家の作品を引用して自分のやる気のヒントが沸き起こりイメージし、奮起することは、確かに未経験の社会、可能性のあるであろうと想像する世間に夢を持っている若い内は、彼の作品から想像力の可能性としての輝かしいインスピーレーションの突然の訪れを感じたものであった。◆大江がその作品の題名にもした深瀬基寛の訳したオーディンという作家の「見る前にとべ」などは、僕が仙台にいて予備校のアルバイトをしていたころに、卒業生にひとことというので、その詩をみんなに送ると読み上げたことがあったのだから。大江健三郎は面白いぞ!と。僕が24か25歳の時だったかと思う。◆その詩と言うのは「危険の感覚は失ってはならない。道は確かに短い、また、険しい。ここから見るとだらだら坂みたいだが・・・・見るのもよろしい、だが、あなたは飛ばなければなりません。」確かそんな文句だった。彼は、その詩の題名まんまの小説をしたためたのだった。日本版のボーイズ・ビー・アンビシャスというところか、イメージとしてはね。何となく、わかるでしょう。見る前にとんだらケガするわな・・・けれど、夢に向かって飛ばなけれないけない、と。いずれ、彼は小説やエッセイの中にも多くの引用をしてくれたので知識が増し加わったこと、それに第一に、彼は「知的に小説の方法(としきりに書くが)」それが又、ボンクラの僕の頭をかき混ぜてくれるのが快感ではあったことには大いに感謝しなくてはならないと思っているいるのだ。

 


世界のベストセラーを読む(821回) (その19)ノーベル受賞作家カズオ・イシグロの新作が出たけれど

2021-03-09 09:23:23 | 小説

◆2021年3月6日(土)の日本経済新聞の文化欄に紹介された作品名は「クララとお日さま」である。買い物ついでにイオンモールの大型ショッピングにある書店に行くとクララであろうかわいい表紙のその本が新刊として並べられていた。・・・買わない。今後、この路線の内容の本が多く出るだろうなぁ、SFではすでにそのようなのがあったけれどと書いたのは僕のブログの818回(その16)にであった。◆紹介文:「人工知能(AI)を主人公に、最先端の科学が不平等を生み出すジレンマを描く。人はいかに生きるか。魂とは、愛とは何か。<科学が生む残酷な不平等>・・・思考や感情の実験 小説を通じて・・・>」◆詰まるところ、人工知能や遺伝子情報の編集などができるようになって、人様は大きな次元の思考の、感情の、愛情と呼ばれるものなどのすべてにおいて、人という生き物の「思考」が変わって行くかもしれない、と。「・・・人を人たらしめるのは条件とは何か。私たちには魂のようなものがあるか。十分なデータさえあれば同じ性格や個性をもった存在を複製できるのか、そんな問いを改めて投げかける時に、我々は来ているのではないか。」「私は、AIについてはあまりおそれや懸念を感じていません。太陽光がエネルギー源のクララは太陽に全幅の信頼を寄せ、決して希望を棄てようとしない。それは人間と神の関係に似ている。いずれ機械にも宗教に似た感情が芽生えるんじゃないかという想像はとても魅力的で、小説のタイトルを『クララとお日さま』にしたのも、それが理由です。」とカズオ・イシグロは述べる。・・・◆僕のその作品への創作活動の原動力とその悪戦苦闘の思考を推察できる、それはあの時代、学生運動が終息しつつもまだ、かなりくすぶっていた時代に大いに彼の文章に鼓舞されたが、後にノーベル文学賞を受賞した大江健三郎という作家が、カズオ・イシグロを読めばどう言うだろうかと思った次第。あくまで≪小説の方法≫を追求してきた大江であり、僕のような者が推測できるようなストーリーなど通俗的であると述べるのではないだろうか。そこが又、僕らの知的刺激を受ける理由でもあるのだが。しかし、また結局の落とし所は、世界の文学は娯楽小説とはちがって、もともと、やはり『そちらの方面』(魂のありようや創造されし「人とは何か」)ではないのかと思うのだ。