marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(819回) (その17)永らく探し求めた来た小説の方法論

2021-03-05 09:31:30 | 小説

◆彼が発見したというその方法は、ロシア・フォルマリズムのキーワードともなる次の定義であったという。「《そこで生活の感覚を取りもどし、ものを感じるために、石を石らしくするために、芸術と呼ばれるものが存在しているのである。芸術の目的は認知、すなわち、それと認め知ることとしてではなく、明視することとしてものを感じさせることである。また芸術の手法は、ものを自動化の状態から引き出す異化の手法であり、知覚をむずかしくし、長引かせる難渋な形式の手法である。これは、芸術においては知覚の過程そのものが目的であり、したがってこの過程を長びかす必要があるためである。芸術はものが作られる過程を体験する方法であって、作られてしまったものは芸術では重要な意義を持たないのである。》(現代思潮社版『ロシア・フォルマリズム論集』)」◆ ”芸術がものが作られる過程を体験する方法であり完成品が重要な意義を持たない” とするならば、ノーベル文学賞作家大江健三郎を読み解くには、副読本ともいえるこの「私と言う小説家の作り方」が共に読まれなければ、彼の作品と又、小説を読むときに感ずるひっかかりと吐き気の意味が理解できないということになるだろう。


世界のベストセラーを読む(818回) (その16)『この方法を永らく探し求めてきた』

2021-03-05 08:46:59 | 小説

◆この表題は、あのノーベル賞作家の「私という小説家の作り方」の第5章の表題の言葉である。僕らにも大いに引用が赦されているとすれば、彼が求めていたのはひたすら<小説の方法>だったということが理解できるが、やはり時代だったのかAIやDXなどというものが蔓延して、これからの僕らは言葉で思考すること自体が不要になってくるのじゃないかと思われる昨今において、あくまでまた新たなる小説の方法を開拓しようと思えば、SFのようになるか、深層心理が表層に現れるというような、きわめて困難な内容になっていくだろう。それは、黴臭い宗教性にはさよならをした人類普遍の真の気づきに近いものになって行くか(これは、あの批評家がより深いものと呼んだもの)か、人間というものが生理医学的にも心理学的にも解明されていることが、ひとりひとりが自分のそれを理解されていき、しかもそのギャップが実は大きな事件を起こすというような物語ができあがっていくのではないだろうか。<個人と集団>ということも大きな課題となるはずだ。SFにはすでにそんなのがあったけど。◆それはともかく、当時の彼の言葉を聞いてみよう。「小説の方法の方法については考えながら読むこと、その方法を意識しながら小説を書くこと、つまり方法論にそくして読み・書くことというだけの、その方法論という言葉の一般的な使い方も通用しないのが、この国の文壇だった。作家たちが方法論を手探りすることはなく、批評家たちが方法論を読み取って、次に書かれるべき小説への指針を与えてくれることもなかった。そこで、私は自分で思い込んでいる小説の方法論について、独学するほかなかったのである。・・・」(p84)ここには、この国の批評家への反論ともとれる言葉が書かれているが・・・。◆彼が卒論で書いた哲学者J・P・サルトルもその哲学如何より、彼、大江健三郎自身の創作の方法論として読まれていたということになるのだろうか。サルトルの中に無理があると先に僕は書いてしまったが、その模索の中で彼が見出した小説の方法が、この章の中ほどに書かれていた。(次回へ)・・・・そして、批評家小林秀雄から直接声を掛けられコケにされた話が後半に出てくるのである。