marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(832回) (その30)⑩新しい書手へ・・・「最後の小説」

2021-03-21 19:54:14 | 小説

◆「新しい文学のために」〔B〕の結論ともなる、「15章 新しい書手へ(一)」の中にも引用を用いて大江は解説しているのだが、『建築文化』(彰国社版)建築家原広司の世界観と建築理論の要約が、文学を作り出そうとするこれからの若者への活性化の言葉となると紹介している。そして、最後の16章 新しい書手へ(二)には、欧米の「核の冬」を憂えるというジョージ・ケナンの文書をひきつつ、ようやく僕があいまいとして書いてきた大江健三郎の「その方面に向かっていく」内面の在り方が書かれているのである。***◆「・・・僕ら無信仰の者らは、何らかの宗教の伝統の中で祈る人々に学ぶべきではないか?・・・アジア、日本にも現に生きる伝統としてキリスト教の信仰はある。仏教についてはなおさらである。・・今日の日本人が―若い人たちをも含めて、むしろ彼らを中核においてー「核の冬」ではなく、「生命の春」の明日に向けての祈りの態度をつよく保ちうるように、無信者の者にも有効な基盤を求めたい。そして僕はその基盤こそがヒロシマ・ナガサキの日本人の経験だと考えるのである。・・・「最後の小説」・・人間らしい威厳・再生への希望について総ぐるみ表現するものとしたい。それをつうじてこの大きい祈りに自分の声を合わせるようにしたい。・・・障害のある息子との新しい苦しみとともに、ヒロシマの被爆者たちのーすでに多くの死者たちであるー懐かしい声への答えともしたい。それは僕の文学というより、このように生きてきた自分の生の結論ともなるだろう。」(〔B〕p217-218)***◆いずれいかなる人も、地上の命を終え、必然的に次の世界に行かねばならないのだ。グローバル世界となっても、自滅する行為をなぜ人は、是認しているのかという絶望は、気づけば世界いたるところに蔓延している。人間とはなにか、神に創造されたと言われる世界と人は何なのか、どうすればいいのか、あからさまに言葉にできなくても、文学はそういうものを人類がこの地上に生存して言葉を持ち続ける限り追求していかなくてはならないと思うのである。ノンキ坊主の若いころに大いに脳みそをゆすぶってくれた、そしてその後、ノーベル文学賞を受賞された大江健三郎さんへの偉ぶった批評は、まだ書きたいことはたくさんあるけれどこれで終わろうと思います。名前は時折、顔出すでしょうけれど・・・。


世界のベストセラーを読む(831回) (その29)⑨「自己を知るには成熟する必要がある」

2021-03-21 18:54:36 | 小説

〔B〕(「2章 様々なレヴェルにおいて」<p23>)の中には、多くのレヴェルという言葉が出てくる。糧の為に仕事で”ものつくり”に関わることができた僕にとっては、言葉の定義を定めない、これもばら撒きのようなこのレヴェルという言葉も何故か気に掛かってくる。一つの言葉のレヴェル、ひとかたまりの文章のレヴェル、人物のレヴェル、主題のレヴェル、全体のレヴェル・・・。見定められた領域での段階のステージという言葉と違っても、定義の書かれていない”レヴェル”ということばの使い方は、これでいいのだろうか? レヴェルという言葉は、その中でも細かな段階がつけられてからの用い方のように思うのだが。◆欧米のできあがった作品からの「異化」という小説の手法を聞き取ろうとすることは、そもそも引用する作品の、作家の本来のその意識までは入り込まず、完成品からのスタートだと大江は受け取っているのである、このこと自体が「異化」の手法を述べたシクロフスキーの語っている主旨〔A〕(p87)とは観点が違っているのではないかと思うのだが。だからというか、あらゆる引用の紹介は僕らにとっては、知識が増し、感謝なことではあるけれども、頭は冴えたとしても胃袋に吸収されてこないのだ(すくなくとも僕には)。◆「元来理屈から言って、自己の姿などというものはいつまで経っても見えるわけのものではない。己を知るとは自分の精神生活に関して自身を持つということと少しも異なった事ではない。自身が出来るから自分というものが見えたと感ずるのである。そしてこの自身を得るのにはどんなに傑れた人物でも相当の時間を要するのだ。成熟する事を要するのだ。」(「文科の学生諸君へ」:小林秀雄)◆文学を勉強するということは、いろいろなものの真似をする、そのような装をする、ふりをする習性を努力していくことである。それは大変いい勉強になり、大変役に立つことである。しかし、そのために実際自分で身をもって経験することの重大さを忘れてしまう。多くの小説を読みあさり、すべての経験は知っているような気持になってしまう。それが危険なのであって、実際の努力、忍耐が必要なのであり、この世は実際やってみなければ分からぬことがいっぱいあるということを、よく知らなければならない、と大江をコケにした(批評家、江藤淳もダメ出ししてたんだけれども)批評家小林秀雄は、文科の学生に申しておられているのでありました。