marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(834回) 『その方面』とは、どの方面なのか:”魂の<G>”

2021-03-28 18:08:26 | 小説

◆難しいような事が書いてあるような思想書でも、例えば、先に引用した井筒俊彦の「意味と本質」の紹介に、「人と言う生き物は、誰でも『本質』を求めようとする内的性向が誰にでもある」とか、ライフワークに「本居宣長」をしたためた批評家小林秀雄が、「文科の学生へ」と紹介した中の「日常の深く道徳の中に隠れている・・・」というような”人の生きるべく究極の深層の基軸を求めることを意味するであろう言葉”などはいずれも、その個々人の思考の基盤となる動かぬ自己というようなもの(僕はその基軸これを<G>と読んでいる)が無ければ思考対象として観念的なことは言葉では捉えきれないものだということを意味していると僕は読み取る。◆しかし詰まるところ、これは自分が他人の言葉の上に載り、なんとなくそれで他人の言葉の上で生活していいというものではなく、これ(自分を信じて生き、死にを語るという次元の話)は、簡単なようで実は、難しいのではなかろうか。けれど、小林に言わせれば「自分を信じれなくてどうしてものが言えるんだ」という常に、一度、自己の思考の深層に落とし込み、動かぬそこから評論を始める訓練ができている人は、簡単な言葉で処理されてもしまうことなのだ。◆地上に一度きりしかない人生に対して、神学者は「自分」と「自己」とは、などと区分して考察するが、そもそもの”わたしの軸”とはどこにあるのだろうかという考察なども語られるが、それは誰にもあてはまり、実は本来難しくはなく、それは”ただひとつ”なのだということを世界のベストセラーは語っているのである。◆「種を蒔く人」の例えがある。「だれでも御国のことばを聞いて悟らなければいけなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。・・・石ころだらけのところに蒔かれたものとは、み言葉を訊いて喜んですぐ受け入れるが、自分には根がないので、しばらく続いてもみ言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐつまずいてしまう人である。・・・」(マタイ13:20-21)「自分にある根」とは・・・それが”求める方面”であり、その根を僕は”魂の<G>”と呼んでいるのだ。