marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(834回) (その32)ニーチェ:「ツァラトゥストラはかく語りき」

2021-03-22 09:11:12 | 小説

(その32)として余談>・・・◆ニーチェが著した「神は死んだ」「善悪の彼岸」「ツァラトゥストラはかく語りき」etc・・・などを読めば、彼が肉体を賛美したことは、当時のキリスト教を背景にしたものだったことが理解されるはずである。相手にされることがなくても、どうしても書かねばならない動機があり、牧師の息子でもあり、非常に優秀で若くして大学教授までなって、当時の社会に大いに悩みを抱えていた時代背景に最後は狂ってしまうのだが、我らは今でも普遍的にも感動的な啓示をうけるのは、僕にしてみれば、その表現の「異化」よりも「人が霊を持つという異界」に触れていたからであろうと思う。その苦悩を思えば、彼が悩み、神の言葉を引き下ろし満足する人と言う生き物は何なのか?観念的に救済の空論として上ばかり見ている人という生き物は何様なのか?彼は大いに悩んだ。”神は死んだ”のだ、と。この地上の肉体に試練の中にも我々が力強く生き、権力志向、超人を求めたのは故の無いことでは決してなかった。これに近いことをにおわせているのは大江も〔A〕(四章 詩人たちに導かれて<p77>)にも書いていることでもある。◆こういう時代背景とニーチェの苦悩を知り、若いころに見た映画、アサー・C・クラークの”2001年宇宙の旅”に出てくるモノリス(時間の壁であろうと思われる)が現れるバックミュージックのR・シュトラウスのツァラトゥストラをyoutubeでも聞いてみて欲しい。サラウンドなどお持ちの方は、大音量で聞いて欲しい。歳をとった僕などは涙腺が緩んでしかたがない。批評家小林秀雄が言っている危険とは、そういう背景は表面的なつまみ食い的な読みからは決してその深層に触れることができない、と言っているのである。


世界のベストセラーを読む(833回) (その31)僕が求めてきたのはその方面への個人の核(芯)

2021-03-22 07:16:33 | 小説

<(その31)としての余談>。人と言う生き物は、無神論と表明してもそれは所詮無理なのだ。ここで突然にそもそもの判断既定としての人の言葉についての話にのめり込む。それは、伝言するという機械的な言葉から、コンピュータ言語の(0・1)などのマシン言語でもいいのだが、無論それを越えたものであるのだから。哲学は、その言葉の厳密さをも追求してきた。科学(経済でも)ではマクロからミクロという言葉があるように言語学では、論理哲学のウットゲン・シュタインのそれは記号までいくか、戦う言語学者チョムスキーの言語学まで行きつく。それは僕が半世紀前に思ったことだから今はもっと進化している内容だろうけれど。それは有機的なそれが醸し出している人と言う生き物の磁場というものさえ削いでいく。しかし、その学問の動機は、心情的に推測するなら、人とは何か、言葉によって共有化が図られれば、相手との相違も理解でき、より平和になるのではないかとすべてこの地上に住む人に係わるものなのだと僕は考えたい。◆自信を語るには、成熟が必要で、あちこちつまみ食いをするには危険でさえあると解釈できる批評家小林秀雄の言葉は、理解できるところである。自己を知るには成熟が必要な、その自己を知る「核」を求めるということが、もともと僕がこのブログで求めてきたことでもある。で、その危険性がどこにあるかと言えば、その例を示したい。また、大江さん出番。***〔B〕(4章 基本的な手法としての「異化」(二)<p4>)「ニーチェの遺稿の中の、肉体を方法として尊重する言葉のうち、次のような「異化」の働きを考える上でヒントを与える。《本質的なことは、肉体から出発し、肉体を手引きとして利用することである。・・・肉体を信ずることは、精神を信ずることよりもずっとしっかりした根拠がある》(白水社全集版)文学において、精神や魂に関わることを表現する時には、ものを提示するわけにはゆかない。ただ、言葉しか頼りにすることができない。その際、ずっとしっかりした根拠をもとめるために、僕らは肉体的なものを言葉につき合わせる仕方で、表現を確実にしようとする。そのような仕方で、「異化」を行うのである。」***◆書かれた文字からどのようなインスピレーションを受け活用しようとも構わないだろうが、ニーチェが聴いたらくしゃみするかもしれない。・・・・