marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(830回) (その28)⑧「文学を力にする」とは「異界」からの声なのだ

2021-03-20 22:46:19 | 小説

先につづいてこう述べる。「・・・実際、その自分としての、この世界・社会・人間についての考え方・感じ方に根差して、一つの長編小説を書いたのだった。『文学とは何か、文学をどのようにつくるか、文学をどのように受け止めるか、生きていくうえで文学をどのように力にするか』ということを考えるこの本でも、まずひとつの仕方が自然に浮かび上がってくるように思うのである。」(〔B〕p2)◆このように評論でもまともなのが、作品では突然、読めなくなるのはどうしてか。彼の作品には、突然、主人公に闇のような穴が開い見える。思うに、文学を力にするには、彼の採用する突飛な主人公の「人」がまずかろうと思うのだ、書き方が。「人とはいかなるものか」が解明されつつある中で、その主人公やドラマを作る人が、なんでもいいとなれば、相模原事件でも、シュバラキ事件でも、人が苦しむのを見たかったの毒を飲ませた女学生やら、なんでも取り上げられるだろうということにならないか。彼の小説を真に受ければ、そのような人間が出てくるぞ。◆僕にとっては「人の異界」を突き破り破壊する人は主人公にはしてほしくない。人の生き様を表し、力となる文学は、突飛な行動をしなくても、人のそのような破壊の思いをむしろ消滅させるためにあると思っているのである。むしろ、その存在解明に「人とう生き物とは何か」という、その疑問に答えるために世界のあらゆる学問が生じてきたと僕は考えているのだ。無論、彼が知的に、知的にと書かれたその小説というものにも。◆「人は、自分のまいた種は刈り取らねばならない。(先祖がであれ自分であれ、過去からは自分が、現在からは子どもが子孫が)」これは、人が創造された時からの法則である。これが、大江自身が個人的に受難し、ドメスティックに苦労され疑問に思ったことの答えである。そして、(〔A〕四書 詩人たちに導かれて)に大江が書かれた次の文章への答えでもある。***「どうして人は、本当の回心にいたる前に、生命すら危うくしかねない異郷、アウグスチヌスの言葉を使えば、レジオ・ディシミリディニスにおもむかねばならないのか?それは人間の深奥に関わる、神秘的な秘密だと思う。しかもこれは単にユダヤ・キリスト教の世界にとどまらない。わが国で言えば、空海、道元の中国への旅。・・・」(p75)


世界のベストセラーを読む(829回) (その27)⑦文学とはなにか、どのようにつくるか、・・力にするか

2021-03-20 21:57:31 | 小説

◆〔B〕を書き始める前の理由が冒頭書かれているが、それは校正刷りの検討段階で編集者から問いかけがあったという。『懐かしい友への手紙』に出てくる二種の致命的な「事故」が出てきて・・・それは性的な殺人、そして不治の病になる癌、20世紀も終わりに近づいて、このような悲劇的な事故に、どのように主体的な責任をとりながら、力の及ぶ限り奮闘するか、ということがわれわれの時代の根本的な主題だと思う。いずれの事故の場合にも主体的に責任をとって、ついには死ぬのであるが、それは自己主張としての死です、と大江は答えたと書いている。・・・僕などは、若かりし頃、大いに彼に面白みを感じたけれど、殆ど読めなくなってくるのは、彼の語る「小説の方法」云々よりも、こういう題材の取り方なのではないかと思うのだ。◆それは、僕の個人的見解なのだが、やはり「人を扱う」には自分も含めて簡単に、切った貼った、つまりはそのドラマ悲劇のきっかけに「魂をもつ人」を事故を起こす人に簡単に採り上げるものではないだろうと思うからだ。普段の通常人の日常の多数に、困難は多くあるし、その中の心理描写や言い回しに、突飛な「異化」など持ち出さなくても多くの読者の魂をゆすぶられるものがあると信じているからなのである。それは「異化」ではなく「異界」であろうと。彼の「異化」は、彼が引用で解説に用いている他国の作家(無論、他の作家の引用は分かりやすい)より、突飛で出来上がった完成品から自己のインスピレーションを突然、書き表すためか分からないのである。作品を書き表す行為の方が、できあがった完成品より意味がるフォルマリズムの定義からすれば、むしろ、もっと深く作家に心情に触れる目に見えない有機的ともいえる動機を書きあらわすには、どういう表現があるのか、その方に目を向けるべきであろうと思うのである。それは、強いて言えば「異界」がどのようにその作家の魂に影響を与え、書くエネルギーになったか、ということである。その深奥に触れるならば、時代が経ても我々、地上に生きて命をつないでいく魂のある人にもっと大いに文学として残っていくように思っているのである。