marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(927回)親愛なるMへ:お話のメモ(その3)

2021-09-23 08:08:08 | 手紙

 昨日からの続き・・・◆宗教改革をなしたルターは、聖書を当時の大衆が読めるドイツ語に訳しなおした。神の言葉は、すべての人に聞かれるべきである。それは開かれていると示されたからだ。〔聖書主義、万人祭司、信仰義認〕 ということを提示します。〔聖書主義〕永遠の命について書かれた書物は世界にこの一書しかない。〔万人祭司〕神の言葉は、地球上のすべての人に開かれているものである。特権を持った人のものでは決してない。〔信仰義認〕神を信ずること、その独り子我らの罪のために十字架に掛かられたイエス・キリストを信ずることが義認とされるというものである。彼は「キリスト者の自由」という手引き書を書いて、その中に、これをまず読みなさい、と示したのが、ヨハネによる福音書とガラテア人への手紙でした。そこには、「永遠の命」が第一に書かれているからだと彼はいうのだ。周辺知識がどうだとか、歴史がどうのこうのというより、まず第一に自分の言葉で読んでみなさいと。今、生きて働き給声が必ずや誰にでも聞こえたもうであろうと。

◆ルターは、こうもイエスを信ずる人々に語っている。お祈りをしなさい。み言葉に対する黙想をしなさい。(語りかけるイエスとお話をしなさい) そして、神を知っていくには、試練が必要である、と語っているのだ。カトリックと戦うことになり、異端となり下手をすると焚刑もあったろう試練で、彼はその苦労故、多く神から教えられることがあり、それは実に多くの恵みでったとさえ言っているのである。試練を恐れてはいけない、そこにこそ十字架の故にそれを知る多くの学びがあるのだ、と開き直ったのだ。

◆それを支える「自分」とは何なのか、ある人には、信仰とは体験することであると言えるだろう。それは、普段の私たちの生活にも当てはまることではないだろうか。その中で、事実、彼の言葉に励まされる多くの体験があるのだと。神の言葉は文字ではなく、生きて働くものだからである。我々は、生きている、普段の生活で世界には、まだ人権さえ守られず、困難の中にある人々がいる。これほどまでの平等や平安は、世界の微々たる進みの中にあり行きつ戻りつしているようであるが、人の命に関しては決して後退させるようなことがあってはならないだろう。聖書が語る「生きる者」とは「神の霊に常に繋がって天に帰還すべく霊(命)」のことを言っているのである。


世界のベストセラーを読む(926回)親愛なるMへ:お話のメモ(その2)

2021-09-22 20:08:08 | 手紙

  昨日のつづき・・・◆本日の御言葉の中には「自分の命」という言葉がある。普段、私達は生きていながら、自分の命などということを普段、考えたりしているものは殆どいないだろう。誰でも死亡率は100%であるのだが。コロナ禍の外出自粛が促されているにもかかわらず、ニュースでの町に溢れる人はどうしたものか。肉体にて現実に生きることと、その中で死を思うことは、その体験を同時に受けつつ、考えたりすることは不可能なことですから、死を考える(そのことは危険である)ということが、普段に生きて生活していることが、実に難しいということだろう。初めは外出自粛を守るが慣れが生じて特に目に見えない相手では、自分は大丈夫と思うのか、少し体験しようとでも間違って思う若者が出てきてしまうのか。
◆ここで、しっかり「自分」というものを考えることが大切なことだと思われされる。むしろ毎朝、祈りの前に自己点検をすること、そうすると、罪という問題も分かるようになるのかもしれない。さて、イエスは、「自分を棄て私に従いなさい」と言われる。この言葉に多くの人々は、正直、嫌な思いを抱くし薄気味悪さを覚える。実は重要な投げかけをイエスは聞くわれわれにしているのである。第一、誰でもが自分そのものを理解できていないのではないか。棄てる自分とはなにか、そもそも、自分とは何なのか。宗教の怖さの多くは、この言葉にあるようだ。学歴のある若者がなぜオーム真理教などという得たいの知れない宗教に走ってしまう時代があったのか。
◆僕は別のブログでこの怖さを大脳生理学的に解明しおて見たい。集団心理か、信ずれば同調圧力が生ずるのか、宗教の怖さでもある、その現象は、自分という者を理解せんとして、哲学者キルケゴールやニーチェが戦ってきたことなのである、と僕は思う。したがって、彼らをかじっていない牧師を僕はあまり信ずることができない、というか、此の世の悪魔との戦いに言葉が足りなくなるかもしれない。簡単な大脳生理学や、精神身体医学や言葉や言語、人の成長期の心理など少しでもかじっていない牧師は危ないかもしれない。なぜなら、背後に神がいて自分の考えを阻害するものがなく、そのことに「自由」を感じ、知的雰囲気に漂っている者とすれば、それは「多くの者が教師となってはいけない。教師は特別厳しい裁きを受けるであろう」との言葉があるくらいだから、むしろエリート気分ではなく、降りかかる試練を十字架の故に喜ばねばならないとすべきだろう。ここで話していることは、この世の悪に対抗すべく魂の防衛するためにそう人生で選ばれている人が居るということで、それをまったく免れている人もいることも優先して考慮すべきことだ。霊的戦いに生まれつき優位に立たれる方もおられることは知っておくべきだろう。「我らの戦いは、血肉にあらず、支配と権威、闇の世界の支配者、天における諸々の悪の諸霊に対するものである」(エペソ6:12)


世界のベストセラーを読む(925回)親愛なるMへ:お話のメモ(その1)

2021-09-21 08:08:08 | 手紙

◆8月22日ピンチヒッターで話したことの内容のメモを残しておきます。結局、僕は殆ど書いた要旨を見ないで話したので、その下原稿であるが、とくにこういう話は「生きた神から来る」のであって、「人の書いた紙から来る」のではないから(これは洒落ではなく、身体に染みついたものという意味で内容は語るべきということ)。メモだから話していない少し過激な言葉つかいもあるので、注意されてください。話して分からないだろうことは、省かれていることを了解ください。◆以下、お話メモ
○聖書を読むとき、いつどういう時に、誰が、誰に話されたものであるのかということを踏まえて読まないといけない。取り上げた聖書の言葉は、ヨハネによる福音書12:25-26、マタイ10:39、ルカ14:26 です。〇民衆に語ったのは無論イエスである。○語る時:12章1節 過越の6日前である。イエスが死から甦らせたラザロの家族が居られたベタニアであった。12節には その翌日であると、これが36節まで続いている。過越のまつりですから、多くの民衆が集まっていて、異邦人(ユダヤ人の信仰を持たない者)も多くいた。○聞く者達:弟子と群衆達である。祭りの時、礼拝するためにエルサレムに上ってきた人々の中に何人かのギリシャ人がいた。先祖伝来の体験的な言い伝えではなく、そのような謂れのない異邦人にもイエスを訪ねる方が起こされていた。イエスはそれら全員に語った言葉あるということになる。イスラエル人は、すでに救い主の来られることを(旧約)聖書から知っていた。本当にそう思ったいたかはどうかだが、いずれ先祖伝来言われて聖書にも書かれていた、長い伝統、先祖が第一に肉体で体験し、荒野を旅し導かれ、なお現在、そして未来までも導かれているという方の物語があった。ここで、そうではない異邦人であるギリシャ人がイエスを訪ねてきたのだ。ギリシャ神話という言葉があるように、非常に根強い異邦人の神信仰という物語があった人々である。◆このときからイエスは、異邦人にも宣教される時が訪れたと自分の死の意味を明らかにし始めるのである。それは故、後で思わされることは、過去のつまり旧約時代の長い時代において、全人類世界に福音を広めるために父なる神は、ユダヤ人を離散に導かれたのだろうと壮大な計画を思ってしまうのである。離散したユダヤ人が各地でシナゴーク(集会)をもち、救済の神の話をし礼拝を持っていたからである。無論、そこには異邦人キリスト者も多く参加しはじめていたのである。そして、今朝、私達も先祖が体験し異なる国において、異なる時間、そして信じてきた先祖伝来の土地柄のもとに我々は、生きておられる神の声を聞こうとしている。イエスは全人類の救済に関わるという事件、神のあからさまな介入が開始されたのである。


世界のベストセラーを読む(924回)親愛なるMへの手紙(その3)

2021-09-20 08:08:08 | 手紙

◆追加で実際話した仏教のことは、ここに長々と書きません。煎じ詰めていえば、本来仏教は、葬式仏教ではない、それは僧侶も知っているのだということ、本来の仏教は、今生で修行をしなければ、涅槃にはいけないということを釈迦は語っているのだということ。それから、前回、話をさせていただいたように、アブラハム、イサク、ヤコブの神と言われて、死んだものの神ではなく、生きている者の神であると言われた、そのヤコブもその子ヨセフもエジプト式の葬儀(ミイラになった)でなくなったということ。全世界の人々の救済を導く神は、ここで葬儀は決めてなどはいないということをよく考えてみなくてはいけない。

死後どこに行くのかを明確にすること、その手段(十字架)もしっかり認識すること。そして、厳しい仏教の決められた僧侶の修行などではなく、毎週日曜の復活を思う祈り、礼拝に出席し、献金を捧げ、毎週あらたに生まれ変わって人生を成功の内に歩むこととして前進するべきである、というのが被創造物たる人類の務めであるということです。キリスト者は天のエルサレム、永遠の命の故郷へ帰還するのだということ、このことを明確に言って、書いておきさえすれば、どのような葬儀をしても天の戸籍簿には名前が記されて、再び次の世界で永遠の命にあずかり、会食し、会話し、疲れることも、いやなこともないということである。(これは輪廻転生や霊の障害や悪魔の働きなどそれは闇の世界として実際の世界の出来事、政治の世界まで後ろ向きの話からも語ることはいくらもできるが。それは製造言語で言えばFMEA程度に思っておくことだ。)

◆実はそれは、実に高い次元での霊のシステム・プログラムでもあるのである。なぜなら、神は人を創造し、霊を吹き込み、実に生きた人となったのである、とあるから、造ったからにはそのプログラムもシステムもあるということなのだ。しかし、それはようやくさ地につき始めたばかりなのだ。細胞を人為的に作ることができ、ゲノム編集もできるようになり・・・とようやくさ物質による創造物の操作への取り掛かりができたばかりなのである。


世界のベストセラーを読む(923回)親愛なるMへの手紙(その2)

2021-09-19 08:08:08 | 手紙

◆大人になれば、時代が異なるし、当然、子供の誕生というのは親から出てきたのだから当然、先に生きて来た分、文句は言えないということもあるでしょう。けれど、一社会人ともなっていますから、対等に意見を言うことは必要かと思われます。ただ、そこで困難なのは、親子いかんに関わらず、一人の人間として生きてきたその内面的な宿題というのは、子供に金銭に関わる従属が切れれば、まったく無関係な訳で、これが基本的人権の尊重となっている訳ですね。実は夫婦などもそうなのだね。親子に限れば、先んじての経験から教示することは多くあるだろうけれど、その他のことは大いに子供から教示されても可能かと思っています。ですから、いろいろ問題のある親父だと思えば、すべてのことは返答することができるかと思われますので遠慮なく尋ねていただければと思います。人はそれぞれ人生において神様から宿題を与えられているのである、というのが小生の思いです。

◆さて、8月22日にどんなお話をしたかというと、題は「永遠に至る自分の命」というものでした。以下(次次回)は、お話前のメモです。今回は、原稿はなく45分ほど話しました。従って、お話の原稿はありません。8月は日本のお盆の季節ですから、第一その死生観についてきちんとこの国の人々が認識しなければ宗教の一種としてだけでしかキリスト教(第一こういう書き方しかできないのだが)を考えないので「永遠の命」にはほど遠いというものだろうという反省から、信徒がきちんと話さなければ、牧師では仏教をあからさまにおかしいとは講壇で話さないでしょうし、けじめとしてそのことをお話したいと思っていたことなのです。◆聖書の中で、パウロだったか「この方以外に救い(永遠の命)はない」と書いてある言葉があって、これを、それは無いのじゃないか、とか、あるいは傲慢だとか、思っておられる方がおられればの話だが、是非調べて欲しいのです。第一、そういうことはそもそも、言葉にすること自体が不謹慎なことなのだ・・・と考えが尊いことなのだ、とこの国では言われてきた歴史があるありますからね。しかし、言葉の宗教と言われるキリスト教は、人の言葉になって多いなる責任を負わせられたということになるのだ。天になるごとく地にもならせ給え、とは、実際のならせるのは地上の啓示を受けた人々なのであったのだから。