昨日からの続き・・・◆宗教改革をなしたルターは、聖書を当時の大衆が読めるドイツ語に訳しなおした。神の言葉は、すべての人に聞かれるべきである。それは開かれていると示されたからだ。〔聖書主義、万人祭司、信仰義認〕 ということを提示します。〔聖書主義〕永遠の命について書かれた書物は世界にこの一書しかない。〔万人祭司〕神の言葉は、地球上のすべての人に開かれているものである。特権を持った人のものでは決してない。〔信仰義認〕神を信ずること、その独り子我らの罪のために十字架に掛かられたイエス・キリストを信ずることが義認とされるというものである。彼は「キリスト者の自由」という手引き書を書いて、その中に、これをまず読みなさい、と示したのが、ヨハネによる福音書とガラテア人への手紙でした。そこには、「永遠の命」が第一に書かれているからだと彼はいうのだ。周辺知識がどうだとか、歴史がどうのこうのというより、まず第一に自分の言葉で読んでみなさいと。今、生きて働き給声が必ずや誰にでも聞こえたもうであろうと。
◆ルターは、こうもイエスを信ずる人々に語っている。お祈りをしなさい。み言葉に対する黙想をしなさい。(語りかけるイエスとお話をしなさい) そして、神を知っていくには、試練が必要である、と語っているのだ。カトリックと戦うことになり、異端となり下手をすると焚刑もあったろう試練で、彼はその苦労故、多く神から教えられることがあり、それは実に多くの恵みでったとさえ言っているのである。試練を恐れてはいけない、そこにこそ十字架の故にそれを知る多くの学びがあるのだ、と開き直ったのだ。
◆それを支える「自分」とは何なのか、ある人には、信仰とは体験することであると言えるだろう。それは、普段の私たちの生活にも当てはまることではないだろうか。その中で、事実、彼の言葉に励まされる多くの体験があるのだと。神の言葉は文字ではなく、生きて働くものだからである。我々は、生きている、普段の生活で世界には、まだ人権さえ守られず、困難の中にある人々がいる。これほどまでの平等や平安は、世界の微々たる進みの中にあり行きつ戻りつしているようであるが、人の命に関しては決して後退させるようなことがあってはならないだろう。聖書が語る「生きる者」とは「神の霊に常に繋がって天に帰還すべく霊(命)」のことを言っているのである。