◆だいぶ肌寒い朝となった。太陽が出てきて嬉しい。庭の赤いバラが一輪咲き始めた。買った時には10センチほどだった子宝草も大きくなって今ではグロテスクなほど。葉と思われる周辺に小さな芽が沢山でてきて、それがどんどん増えていく。季節感覚、それは人が勝手にそう思って草花は咲いたり枯れたりするかと思いきや、そうではなく、人の季節感覚以前に地面に植えられている草花木は、陽があたり地面の温かさや空気や湿度や寒くなり昆虫が自然から卒業しても、夏や冬にあわせてというより成長する基本の体調条件にあわせてに素直に生い茂るものなのだな、と思わせられる。
◆朝早くおき、窓に差し込む陽の光を見つめながら、僕個人が求めた来た自己の中の「G」への繋がりを思う。それは祈りか、黙想の始まりか、いずれ自己の確認である。これまた、全然面白くもない内容であるが、それはまた、僧が毎朝早く起きて、座禅を組むとか、早朝、寺の住職が教を唱え、お勤めをする意味も込めたものでもある。カトリックの故 井上洋治神父などの若き頃の西洋の修道院での生活は大層厳しいものだったと、昔、本を読んだことがある。僕の田舎の住職も朝6時には、本堂でお経をあげお勤めをする。お寺さんは、どこでもそうであろうと思う。臨済宗は特に厳しいか。いずれ、精神が肉体を超克しようとするその到達点を目指したもののようだ。
◆さて、日本もそうだが海外でもキリスト者の数は減少、この日本では1%に満たないとまだ言われている。経験あるキリスト者は、聖書の語ることは本来、宗教のジャンルに含まれる以前の次元の高いものであることを察知している。この世においては、そうせざるを得ないが。ところで、プロテスタントの牧師は、早朝の務めと言われる祈りをすべて行っているのであろうか。どうも頭でっかちのエリート意識でしか、道を追求していないように思われる。それは、みんなにはかなり高い壁となっているように思う。世界がこのようになって、その行為をなさねばならないという律法化ではなく、いつどこでも真摯なそれを祈りといおうか、早朝、「G」(これは僕なりの求心点)との繋がりを求め始めるならば、自分と世界は変わっていくだろうし、それは宗教臭さがまったくない人が生きるための法則として、科学的にも示されてくるだろうことを僕は信じているのである。