marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(915回)考えてみれば実存主義とは「自分の根」

2021-09-09 08:08:08 | 日記

◆18歳の時のノートを読んで、自分探しをしていたころ、当時、まさにエリクソンの「自我同一」アイデンテティーなる言葉も流行ったなと。先立つ学生運動、樺美智子の不慮の死(この人の名前を刻んだのは小さい頃、母の弟がその人の顔の絵を描いていたのを見たことがあったからだ)。その後の浅間山荘事件や安田講堂の学園闘争、76年前の敗戦において毎年、戦争の悲惨さを語るが、この国内で行われた若い世代の諸々の総括などは、ただ一過性の歴史として語られるだけなのだろうか。あの時代の、あのころの若者の社会心理状態として・・・。しかし、結局のところ政治的にも自立はできていない。この地上に於いては、時代に抵抗すべく社会経済原理の流れの中で、むしろその(経済)駆け引きが平和のありようの手段になっていて、思想や哲学はその時代、時代に人が自己の位置、それは精神的安定の方便になっているということ。そもそも、そういうものだろうと言えばそうなのであるが。結局、経済の有効でありかつ効果的なメリットが、それを妨害するならその障害の削減を極力防いで自分が得をする、という原理につながっていると言えないこともない。すべては、この手段としてエリートの思考はあると。

◆しかし、シェアーできない自己、その時代、この時代、今という時、誰にもかえられない死亡率100%の自分が現にここにいるわけなのである。912回で書いたキィエルケゴールの言葉、今読めば青臭く思われるこの言葉には、それでは、あなた自身はどうなのかと問われた時に、気がつけば、ただ安穏として、労働して疲れる自分の肉体がだだ漫然とあるだけではないのかということ。彼が実存主義の走りで、今も我々に問うているのは、生き死にする自分のこと「自分の根」探しなのであった。もう一度書こう。「こうしてのみ私は私の思想の展開を私自身のものでないものの上に基礎づけることなく、私の実存のもっとも深い根源とつながるものの上に基礎づけ、例え全世界が崩れ落ちようともそれにからみついて離れることなく、(そのものの上に)基礎づけることが出来るのだ。真理とはイデーのために生きること以外の何であろう。」

◆つまるところ、当時のキリスト教会のメッセージは、これに回答を与えることが出来ていなかったのだ。今語れる牧師は多くはいないように思う。神が愛したもう時代に生きる個々人の人それぞれの「自分の核」は、まさにこの「自分の根」探しを奨励し、発見し、その障害と闘い、見いだしたその「本来の自分」を神は最も愛しておられていたのであるということをひとりひとりが発見することにあるのである。そのすべての障害は、キリストが十字架に掛かって取り除いてくださったということだ。「神は独り子をたもうほどに世を愛された。御子を信ずる者が一人も滅びず永遠の命を持つためである」(ヨハネ伝3:16)