marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(930回)親愛なるMへ:お話メモ(その6)「自分の根」

2021-09-26 20:30:00 | #日記#宗教#思想・哲学#宗教#手紙#小説

・・・続き ◆更に種まきの例えにこういう例えもありました。マタイ13:20-21 石ころだらけのところに蒔かれたものとは、御言葉を聞いてすぐ喜んで受け入れるが、自分の根がないのでしばらくは続いても、み言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまづいてしまう人である、とある。ここでの「自分の根」とは何か。
◆注意しなければいけないことは、ただ信じなさいと言われると、すべて放置して自暴自棄的に無責任になることではないだろう。また、他力本願的に全部投げやりになることでもないだろう。信じるというその自分の根があって、初めてそれから、その核心から、神の導きにゆだねるということです。すべて他人任せというのでは、決してない。つまるところ、神の愛する本来の「自分の核」なる永遠の世界に神が迎える霊を持つ「自分」が、肉にまとわりつく自分の選択できないDNAの不純物もまとわりつかせて、自由になれない自分が、イエスを信ずることにより、その肉が彼の十字架で消滅され、新しくキリストという礼服を着て(つまりイエスの体を食するという聖餐)にあずかり、まったくピュアな本来の自分となって天に迎えられる、天の故郷に帰還する(ここにモーセの脱出<エクソダス>が古来から絡んでいるという創世記以来の壮大な物語があったのである)ということなのである。その「自分の根」は神の言葉を受け容れるに足るものか、と自省するときに、その言葉のズレ=自らの「罪」というものが現れてくるのではないだろうか。主イエスはその解消のために十字架に掛かられた。主の十字架は、解消できない私の罪のためにあったと、深い理解が生じてくるのではないだろうか。彼の言われた「自分を捨て」や「自部の命を憎み」との言葉と「自分を愛するように」とのそのズレ、矛盾がここで、イエスの十字架で解消されることが、理解されるのです。・・・続く