◆本棚を整理し18歳の頃から書いた(書き殴った)ノートは、自分の根が見つけられないで悶々としているというか、何やら自己の足がかりを見つけようと悪戦苦闘の痕跡だ。青春とは疾風怒濤の時代なのだなぁ。情報過剰で、目に写る、耳にする、口にする、様々な事柄に「自己の礎」を見いださないで(否、見いだしているのかもしれないが)生きるのはシンドイのではないだろうか、と今更ながら思う。学生運動の下火のころ、経済成長のころ、少なくとも世界では、キィエルケゴールから始まる実存主義とは、地上に生きる「人間とはなにか」「自分とは何か」の問いかけを、今更のように問い始めたのだった。無論、このノート、茶色、青、赤のノートには、不条理の哲学を語ったカミュ、「厳粛な綱渡り」とか「鯨の死滅する日」などのエッセイを読んだころの大江健三郎のことも書いてある。
◆このような暗中模索の時代に、やはり貫くために自分の命をかけた、そのために、という・・・それは若者は、誰でも自己の肉体の煩雑さをを頭脳に総括して律儀に生きたいが為に、修道院(男女とも)、あるいは、僧の修行に憧れを持つ人も出てくるのとか、怪しげな宗教に走り始めるのは、ひとえに自分とは何か、の答えを見いだそうともがくからであろう。そういう、人の成長期の一過性のプロセスが時代により、ある(あった)ということなのである。こういう悶々としていた時に、工学系の学生なのに心の中では自分探しで躍起になって暗い青春時代なのであった。
◆若い時代には、誰でも普遍性なる清いものにあこがれるものだろう。それがあるのであればと・・・キィエルケゴールが模索したように。「私とはだれか」・・・その探求に答えのすべてが隠されていたのである。