◆「自分を捨て、我に従え!」と彼が古代から話されてきたことは、いきなりこの言葉を普遍的な言葉として受け入れるには、他力本願が常識となっているこの国の人々には、むしろ、危険な言葉であったのかもしれない。キィエルケゴールとは、社会基盤がすでに出来合ったキリスト教国であった中での自分探しの苦闘だったわけであったのだから。つまるところ、神の言葉というものを読むには、誰が(それはイエスの言葉であろうし、手紙ではイエスの啓示によるという使徒パウロの言葉であろうけれど)、いつ、どこで、誰に語ったかをまず、考えるべきであって、それ自体もそもそも今という時を生きている「自分という根」がある人に限って(多くはなんとそのことにも気が付かないで、受け容れたり、はじいたりしているのであるが)、理解される言葉といえるのではないだろうか。
◆したがって、「自分の根」の問題は、僕にとっては、大げさに言えば生まれた時からの重大な課題なのであって、この国に生まれたその歴史などが、教えられなくてどうして自分の根をもつことが出来るだろうか。敗戦国となって、人類という普遍的な言葉さえようやく受け入れる国となって、では、その人類の歴史はどうなのか、その考えとなる土台すらはっきりしなで、多くのその民主的な(一応)判断が、普遍的な考えとなる基礎がようやく人々に流布されるようななったからこそ、あれやこれやの評価が言えるのであるが、その土台はどこにありや、しかもそれは人類に普遍なのかといえば、世界は決してそういう訳ではない世界が未だあるのである。アメリカが匙を投げたアフガニスタンを見よ。
◆日本国憲法の第97条だったか、僕の好きな基本的人権の尊重「・・・人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって」、ここでの人類とは一応世界人類なのであるが、タリバンの人たちは、どうなのか、宗教を国の政治に適応させること自体が、そもそも限界があるのであって、人類救済の歴史から言えば、かなり遅れながらの体制で政治は決してうまくはいかないだろう。第一、媒介としてミャンマーの軍事政権もそうだが、武器を持っていること自体、もうアウトと言えるだろう。
◆時代のあらゆる歪は顕著になってくることは、聖書預言ではないが、グローバルに世界のニュースを目に、耳にすることができるようになった現在、確かにこの地球は人類は顕著に病んでいることが理解されてるように感じないか。いずれ人類は、一人とりが主体的に「自分の根」を見出すという努力、そこから出発しない限りは、平和は決して来ないだろう。「救われる者は少ない」とある。