・・・つづき、そしてメモの終わりです。
◆イエスが語られるみ言葉を受け容れるには、受け取る自分という根があり、点検してみなくてはいけないのだということになる。他力本願的に、漫然と委ねるのではなく命を得るためには、それに呼応する「自分の根」を持たなくてはいけない、ということになる。そのためには、自分の言葉で、み言葉を読む、ということが必要になるのではありませんか。ここで、一息で理解できない言葉を主が語られるのは、人はそれぞれ、さらに異なっての自分があるし、み言葉に教えられる自分というものも、地上に命を受けた人々はそれぞれに異なって宿題を与えられているからと教えられます。イエスの言葉は、命を与えられている万人の救済です。しかも、個々人の「自分の根」があるということは、神の言葉は、全人類のひとり一人に語っているということになるのです。黄金律で述べられた「自分を愛するように」とは、前半の「心を尽くし、精神をつくし、思いをつくして主なる神を愛せよ」と、並列の言葉では決してなく、そのことが「主なる神を愛するということが先にできているからこその自分」であり、「その自分を愛すように」ということと理解されます。それが本当の「自分」であり、本当の「自分の根」になっているということだと。ここに讃美歌の「我ならぬ我の現われ来て・・・」が分かってくる。又、「自分の命を憎む」その行為とは、このみ言葉の最後の「永遠の命に至る」、という言葉に関わり初めて「憎む」という意味が分かるようになっていることです。◆「自分を愛するように」とか、「自分の命を憎む」とか、そしてまたたとえで語られた「自分の根がある」とは、それぞれ文字としては同じ「自分」のという言葉がありますが、それぞれを関連づけてみると、真の自分を愛することは、神の言葉につながろうとしている本当の自分であり(信仰)、地上にのみ関わる肉の欲求のみ満たそうとするという「自分の命を憎む」ことであり、そのためには神と結びつこうと日々、祈る「自分という根」を持たなくてはいけないのだ、ということになるだろう。◆ここでは民衆に語っているのですが、おそらく何を言われているのかがよく分からなかったのではないかと思われる。しかし、永遠の命については、イエスは、それに続く語り掛けに隠れているのです。「私に従いなさい」これは、弟子だけでなく、その時の大衆、ユダヤ人、ギリシャ人、その他、異邦人に語りかえているのです。そういうことを踏まえて始めたここに、この言葉が理解されてくるのだ。天上に帰還した彼に言わせれば、代わりにあなた方に送った聖霊に繋がっていなさい、それに聞きなさい、それがすべてを教えてくれるであろうと。というのは、こういう手順を踏まえた人々に語り掛けるのだろうと。あるいは、そもそもそれが身についた神の目から見ればふさわしい人には、手順如何もあるやなしやも無関係だろうが。
◆ここでパウロは、このような言葉をどのように解釈したかというと実際の言葉上のあれこれではなく、肉と霊とに分けてそれを多く手紙に書いているように思われる。パウロの究極の言葉と言うものに触れてみ、締めくくりたい。
「私はイエスと共に十字架につけられた。(自分の命を憎む)もはや、私が生きているのではなくイエス様がわたしの中で生きているのである(本当の神を第一に愛する自分)。私が今、肉において生きているのはわたしを愛し、私の為に身をささげられた神の子に対する信仰によるのです(体験からの信仰)。」ガラテア2:19a-20
人からではなくイエスからの直接啓示を受けたというパウロの信仰の根底には深い内省した結果の罪の自覚があったのだということが手紙から分かる。まず、第一に直截の主の弟子ではなかった。第二に、福音を信じた人々を迫害しようとしていたから。これは多くの試練にあった彼にとって、根本の試練にあたるものだったでしょう。新約聖書で最も最初に文字にされたのは、彼の書いたテサロニケの手紙だった。彼は生前のイエスには会っていない、復活のイエスにあっていたのだ。今の新約聖書は本としては影も形もなかったのだ。ただ、イエスの送られた聖霊が充満していたのある。それが、時代を経た現在、世界に充満し希薄になったというのだろうか。・・・イエスは、今も私に繋がっていなさいと語り掛けている。(END)