2014年のノーベル物理学賞を受賞した名古屋大学名誉教授の赤崎勇さんたち3人の受賞式報告会が、2014年12月中旬に東京都千代田区内で開催されました。
当然ですが、受賞された赤崎さん、名古屋大学教授の天野浩さん、カリフォルニア州立大学サンタバーバラ校教授の中村修二さんは多忙なので、この報告会には出席されませんでした。その時の主な報告者は、青色LED(発光ダイオード)を事業化した豊田合成の担当者の方と、天野教授をリーダーにして現在進めているGaN(窒化ガリウム)のパワーデバイスの開発チームの一員である名古屋大学の助教の方などでした。
豊田合成のご担当者は、赤崎さんとの共同研究を開始した経緯をお話になりました。
豊田合成のご担当者は、赤崎さんと天野さんが出席するノーベル賞授賞式(晩餐会・舞踏会)の日である12月10日の前後に、豊田合成がスウェーデンのストックホルム市内のホテルに、同社としてお祝いの懇親会などを開催する拠点を設け、文部科学省や大使館の主要メンバーと懇親会を開催した話などを伺いました。当然、同拠点を中心に受賞準備を進めた話を伺いました。その際に、くつろがれている赤崎さんと天野さんの個人的な写真などを拝見しました。
1981年8月に、赤崎さんは勤務していたパナソニック(当時は松下電器産業)の研究子会社だった松下技研(川崎市)から、名古屋大学に教授として移籍します。
そして、窒化ガリウムの結晶成長用のMOVPE(有機金属化合物気相成長法)などの装置を手作りし、窒化ガリウムの結晶成長の研究を進めます。当時は、青色LEDを製品化するための基板としては、SiC(炭化ケイ素)やCeS(硫化セレン)の方がいくらか光る試作品ができていて、ほとんどの研究者は基板材料にこれらを用いて、実用化を研究していました。
ところが、赤崎さんは窒化ガリウムの方が結晶成長温度が高く、高圧にしないと結晶がつくれないことから、将来電流をたくさん流す際には、より安定した結晶の窒化ガリウムの方が適していると考えました。つまり、結晶をつくりにくいということは、その分だけ結晶が安定していると考えたそうです。
この結果、青色LEDの実用化を狙って、窒化ガリウム基板で研究開発を続けているのは、赤崎さんたちの研究グループだけになったそうです。この時の状況を、赤崎さんは「われ一人荒野を行く」と語っています。
1986年に、赤崎さんの研究開発グループは“低温バッファー層”という窒化ガリウムの結晶欠陥を大幅に減らす技術を開発し、高品質な窒化ガリウム単結晶への道を切り開きます。
さらに、1989年にp型の窒化ガリウム結晶を開発した結果、青色LEDの実用化の大きく前進します。窒化ガリウム結晶を用いた高性能青色LEDの試作研究に進みます。このp型(ホールが電気伝導を支配)の窒化ガリウム結晶を開発では、当時、大学院生だった天野さんが貢献します。
時間を前に戻すと、赤崎さんの研究グループは1985年から1986年までの2年間、文部科学省から研究テーマ「混晶の物性とその制御・設計に関する研究」として科学研究費を受け取り、さらに1987年から1989年までの2年間、研究テーマ「高性能GaN系青色LEDの試作研究」として同科学研究費を受け取ります。
こうした大学での研究経緯の中で、赤崎さんは自分が研究している高品質単結晶の研究成果を、名古屋市の名古屋商工会議所で講演しました。企業側は名古屋大学の研究成果を聞いて、事業化のシーズにしたいという意図でした。
1985年11月に赤崎さんが名古屋商工会議所で講演した時に、豊田合成の方が聴講していました。当時、豊田合成は新規事業分野を探査中でした。豊田合成は、プラスチック製やゴム製の自動車用成形部品を製造する事業を進めていました。青色LEDの研究の話から、将来は自動車用ヘッドライトなどに適用できるのではないかと考えたようです。
こう考えた豊田合成は、名古屋大学の赤崎さんの研究室を後日、訪問し、「青色LEDの製品化をやらせてほしい」とお願いしました。何回か、赤崎さんを訪問し、当時の豊田合成の社長もお願いにいったそうです。しかし、当時は赤崎さんは半導体用結晶の研究開発に没頭していたので、「企業の製品化の研究開発を指導する時間がない」と考え、お断りしたそうです。
ここで、1985年当時の半導体産業を考えると、日本の大手電機メーカーはDRAM((ダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ)を中心に世界で一番多くのシェアを持つ半導体産業全盛期でした。米国が「日米半導体構造協議」と称する輸出制限を頼んだ時代でした。
当時の半導体事業を推進していた大手電機メーカーの研究部隊は、窒化ガリウムという主流から外れた材料で、青色LEDを製品化できるとは考えてもいませんでした。このため、半導体を製品化していない豊田合成が共同研究を願いでるという傍流同士の組み合わせが浮上したようです。豊田合成という半導体門外漢の企業は、大学の研究成果を基にした“オープンイノベーション”を実践するしか手段はなかったようです。イノベーションは辺境から産まれるとの実例です。
長くなったので、続きは次回に。
当然ですが、受賞された赤崎さん、名古屋大学教授の天野浩さん、カリフォルニア州立大学サンタバーバラ校教授の中村修二さんは多忙なので、この報告会には出席されませんでした。その時の主な報告者は、青色LED(発光ダイオード)を事業化した豊田合成の担当者の方と、天野教授をリーダーにして現在進めているGaN(窒化ガリウム)のパワーデバイスの開発チームの一員である名古屋大学の助教の方などでした。
豊田合成のご担当者は、赤崎さんとの共同研究を開始した経緯をお話になりました。
豊田合成のご担当者は、赤崎さんと天野さんが出席するノーベル賞授賞式(晩餐会・舞踏会)の日である12月10日の前後に、豊田合成がスウェーデンのストックホルム市内のホテルに、同社としてお祝いの懇親会などを開催する拠点を設け、文部科学省や大使館の主要メンバーと懇親会を開催した話などを伺いました。当然、同拠点を中心に受賞準備を進めた話を伺いました。その際に、くつろがれている赤崎さんと天野さんの個人的な写真などを拝見しました。
1981年8月に、赤崎さんは勤務していたパナソニック(当時は松下電器産業)の研究子会社だった松下技研(川崎市)から、名古屋大学に教授として移籍します。
そして、窒化ガリウムの結晶成長用のMOVPE(有機金属化合物気相成長法)などの装置を手作りし、窒化ガリウムの結晶成長の研究を進めます。当時は、青色LEDを製品化するための基板としては、SiC(炭化ケイ素)やCeS(硫化セレン)の方がいくらか光る試作品ができていて、ほとんどの研究者は基板材料にこれらを用いて、実用化を研究していました。
ところが、赤崎さんは窒化ガリウムの方が結晶成長温度が高く、高圧にしないと結晶がつくれないことから、将来電流をたくさん流す際には、より安定した結晶の窒化ガリウムの方が適していると考えました。つまり、結晶をつくりにくいということは、その分だけ結晶が安定していると考えたそうです。
この結果、青色LEDの実用化を狙って、窒化ガリウム基板で研究開発を続けているのは、赤崎さんたちの研究グループだけになったそうです。この時の状況を、赤崎さんは「われ一人荒野を行く」と語っています。
1986年に、赤崎さんの研究開発グループは“低温バッファー層”という窒化ガリウムの結晶欠陥を大幅に減らす技術を開発し、高品質な窒化ガリウム単結晶への道を切り開きます。
さらに、1989年にp型の窒化ガリウム結晶を開発した結果、青色LEDの実用化の大きく前進します。窒化ガリウム結晶を用いた高性能青色LEDの試作研究に進みます。このp型(ホールが電気伝導を支配)の窒化ガリウム結晶を開発では、当時、大学院生だった天野さんが貢献します。
時間を前に戻すと、赤崎さんの研究グループは1985年から1986年までの2年間、文部科学省から研究テーマ「混晶の物性とその制御・設計に関する研究」として科学研究費を受け取り、さらに1987年から1989年までの2年間、研究テーマ「高性能GaN系青色LEDの試作研究」として同科学研究費を受け取ります。
こうした大学での研究経緯の中で、赤崎さんは自分が研究している高品質単結晶の研究成果を、名古屋市の名古屋商工会議所で講演しました。企業側は名古屋大学の研究成果を聞いて、事業化のシーズにしたいという意図でした。
1985年11月に赤崎さんが名古屋商工会議所で講演した時に、豊田合成の方が聴講していました。当時、豊田合成は新規事業分野を探査中でした。豊田合成は、プラスチック製やゴム製の自動車用成形部品を製造する事業を進めていました。青色LEDの研究の話から、将来は自動車用ヘッドライトなどに適用できるのではないかと考えたようです。
こう考えた豊田合成は、名古屋大学の赤崎さんの研究室を後日、訪問し、「青色LEDの製品化をやらせてほしい」とお願いしました。何回か、赤崎さんを訪問し、当時の豊田合成の社長もお願いにいったそうです。しかし、当時は赤崎さんは半導体用結晶の研究開発に没頭していたので、「企業の製品化の研究開発を指導する時間がない」と考え、お断りしたそうです。
ここで、1985年当時の半導体産業を考えると、日本の大手電機メーカーはDRAM((ダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ)を中心に世界で一番多くのシェアを持つ半導体産業全盛期でした。米国が「日米半導体構造協議」と称する輸出制限を頼んだ時代でした。
当時の半導体事業を推進していた大手電機メーカーの研究部隊は、窒化ガリウムという主流から外れた材料で、青色LEDを製品化できるとは考えてもいませんでした。このため、半導体を製品化していない豊田合成が共同研究を願いでるという傍流同士の組み合わせが浮上したようです。豊田合成という半導体門外漢の企業は、大学の研究成果を基にした“オープンイノベーション”を実践するしか手段はなかったようです。イノベーションは辺境から産まれるとの実例です。
長くなったので、続きは次回に。
当時の半導体大手企業は、DRAMや組み込み向けLSIなど儲かる事業向けの研究開発に没頭していたからです。
まったく門外漢の豊田合成も半導体事業を一から学ばれ、事業化した点は賞賛に値します。
まだ青色LEDは実用化まで時間があると考えていた大手企業は無警戒だったようです。
独創的な製品を、本業の半導体大手企業が手がけていないことが面白いです。
こうしたチャレンジ魂を再び、持とうではありませんか!