今朝、花谷幸比古の書いた『幕末入門書』(展転社)を読了した。
明治維新の重要人物のうち草莽の志士達の思想的バックボーンになった人のことを集めて書き表わしている。
吉田松陰、橋本景岳、真木和泉、西郷隆盛、高杉晋作、平野國臣、藤田東湖、選択した視点は著者が神社の宮司であり、皇学館出身の神職家であることから発していると思う。みな徹底した尊王思想家である。
何を学んだかというと、ひとつは学問に賭ける情熱。そして『大義』に殉じたパトス。
平野國臣という福岡藩(筑前)=黒田藩出身の尊王思想家であり、国学を学んだ尚古主義者で、普段から烏帽子、直垂、毛鞘のついた太刀を身に帯び、横笛を吹きながら歩いたというから江戸時代とはいえ一風変わった人物であったらしい。
西郷と月照が相抱いて錦江湾に身を投げた時に一緒に舟に乗っていてその最期を見届けた人物でもある。(西郷だけが跡で息を吹き返す)
有名な「わが胸のもゆる思いにくらぶれば 煙はうすし桜島山」を残した。
福岡藩の因循固陋な当局から弾圧され、不当な刑を受けていた1年間の獄中生活は至難の極地で読書をすることも字を書く事すら許されなかったという。
そのなかで國臣は、ちり紙でこよりを作って、それを文字の形にして飯粒で別の紙に貼り付けて著述をものにしたという。
その時に作った歌。
年老いしおやのなげきやいかならん 身は世のためと思いかへても
よみがへりきえかへりても尽くさばや 七たび八たび大和魂
吉田松陰、横井小楠とも交流のあった藤田東湖、御三家の一つ水戸藩の出身だが、烈々たる尊王思想家で斉昭のもとで藩政改革を断行したり、斉昭の幕政参与していく中で国体の変革を助言していく。
しかし、頑迷な幕府首脳が突出する水戸藩を弾圧、斉昭を隠居謹慎にし、東湖を蟄居処分する。蟄居は厳重な監視下、部屋の襖を全て板で被って釘付けにしていた。この中で、意気阻喪することなく 文天祥の『正気歌』を常に愛唱しながらという。身を支えた。この境遇のなかで作った漢詩の文中に次のような文句がある。
邦家の隆替偶然に非ず、人生の得失あに徒爾(とじ)ならんや
自ら驚く塵垢の皮膚に盈(み)つるを、猶余りの忠義骨髄をうずむ
いやしくも大義を明らかにして人心を正さば 皇道なんぞ興起せざるを憂えん
この心奮発して神明に誓う 古人云ふあり 斃れて後已むと
國臣も東湖も大義に殉じた。大義に生き、東湖は公に命を捧げただけでなく、最期は江戸の大地震で被災した時、崩れかかる家屋の中に母親を求めて飛び込んで命を落としている。忠孝の情厚き人物でもあった。
本を読んでいて思い出すのは、卒業した鹿児島県立出水高等学校で常に暗証させられた出水兵児修養掟のことである。
薩摩が全国に先駆けて維新の大業を成し遂げたのは何といっても青少年の教育に力を注いでいたからだ。その武士の教育の一環で郷中教育があり、北薩出水にも徹底した兵児教育が行われていた。それが修養の掟として今も語り伝えられている。
たしかに時代と齟齬するところはある。しかし、そのエトスを学ぶことは決してアナクロではないと確信する。
士ハ節義を嗜み申すべく候。
節義の嗜みと申すものは口に偽りを言ハず身に私を構へず、
心直にして作法乱れず、礼儀正しくして上に諂らハず
下を侮どらず人の患難を見捨てず、己が約諾を違ヘず、
甲斐かいしく頼母しく、苟且にも下様の賤しき物語り悪口など話の端にも出さず、
譬恥を知りて首刎ねらるゝとも、己が為すまじき事をせず、
死すべき場を一足も引かず、其心鐵石の如く、又温和慈愛
にして、物の哀れを知り人に情あるを以て節義の嗜みと申すもの也。
現代の若者に「死して後已む」というその大義というものがどこにあるだろうか?楠木正成の「七世報国」の七度生まれ変わっても「国」のために尽忠奉公するというその「国」が現代、七世報国に値するものであるのかどうか。菅さん、もう少し考えなければいかんぞ
国家、天皇、政治権力、会社、郷土・・・命を賭けられるか?ここをもう一度しっかり考えていかなければ国は道を過つのではないか。若者は経済の前に生きる指標を見失うのではないか?
学ぶ=教育がいまや「いい大学に入って、いいところ(会社、役人、医者・・・)に就職する」ためのものにすりかわっている。教育から節義が失われてしまっていることを嘆く。
明治維新の重要人物のうち草莽の志士達の思想的バックボーンになった人のことを集めて書き表わしている。
吉田松陰、橋本景岳、真木和泉、西郷隆盛、高杉晋作、平野國臣、藤田東湖、選択した視点は著者が神社の宮司であり、皇学館出身の神職家であることから発していると思う。みな徹底した尊王思想家である。
何を学んだかというと、ひとつは学問に賭ける情熱。そして『大義』に殉じたパトス。
平野國臣という福岡藩(筑前)=黒田藩出身の尊王思想家であり、国学を学んだ尚古主義者で、普段から烏帽子、直垂、毛鞘のついた太刀を身に帯び、横笛を吹きながら歩いたというから江戸時代とはいえ一風変わった人物であったらしい。
西郷と月照が相抱いて錦江湾に身を投げた時に一緒に舟に乗っていてその最期を見届けた人物でもある。(西郷だけが跡で息を吹き返す)
有名な「わが胸のもゆる思いにくらぶれば 煙はうすし桜島山」を残した。
福岡藩の因循固陋な当局から弾圧され、不当な刑を受けていた1年間の獄中生活は至難の極地で読書をすることも字を書く事すら許されなかったという。
そのなかで國臣は、ちり紙でこよりを作って、それを文字の形にして飯粒で別の紙に貼り付けて著述をものにしたという。
その時に作った歌。
年老いしおやのなげきやいかならん 身は世のためと思いかへても
よみがへりきえかへりても尽くさばや 七たび八たび大和魂
吉田松陰、横井小楠とも交流のあった藤田東湖、御三家の一つ水戸藩の出身だが、烈々たる尊王思想家で斉昭のもとで藩政改革を断行したり、斉昭の幕政参与していく中で国体の変革を助言していく。
しかし、頑迷な幕府首脳が突出する水戸藩を弾圧、斉昭を隠居謹慎にし、東湖を蟄居処分する。蟄居は厳重な監視下、部屋の襖を全て板で被って釘付けにしていた。この中で、意気阻喪することなく 文天祥の『正気歌』を常に愛唱しながらという。身を支えた。この境遇のなかで作った漢詩の文中に次のような文句がある。
邦家の隆替偶然に非ず、人生の得失あに徒爾(とじ)ならんや
自ら驚く塵垢の皮膚に盈(み)つるを、猶余りの忠義骨髄をうずむ
いやしくも大義を明らかにして人心を正さば 皇道なんぞ興起せざるを憂えん
この心奮発して神明に誓う 古人云ふあり 斃れて後已むと
國臣も東湖も大義に殉じた。大義に生き、東湖は公に命を捧げただけでなく、最期は江戸の大地震で被災した時、崩れかかる家屋の中に母親を求めて飛び込んで命を落としている。忠孝の情厚き人物でもあった。
本を読んでいて思い出すのは、卒業した鹿児島県立出水高等学校で常に暗証させられた出水兵児修養掟のことである。
薩摩が全国に先駆けて維新の大業を成し遂げたのは何といっても青少年の教育に力を注いでいたからだ。その武士の教育の一環で郷中教育があり、北薩出水にも徹底した兵児教育が行われていた。それが修養の掟として今も語り伝えられている。
たしかに時代と齟齬するところはある。しかし、そのエトスを学ぶことは決してアナクロではないと確信する。
士ハ節義を嗜み申すべく候。
節義の嗜みと申すものは口に偽りを言ハず身に私を構へず、
心直にして作法乱れず、礼儀正しくして上に諂らハず
下を侮どらず人の患難を見捨てず、己が約諾を違ヘず、
甲斐かいしく頼母しく、苟且にも下様の賤しき物語り悪口など話の端にも出さず、
譬恥を知りて首刎ねらるゝとも、己が為すまじき事をせず、
死すべき場を一足も引かず、其心鐵石の如く、又温和慈愛
にして、物の哀れを知り人に情あるを以て節義の嗜みと申すもの也。
現代の若者に「死して後已む」というその大義というものがどこにあるだろうか?楠木正成の「七世報国」の七度生まれ変わっても「国」のために尽忠奉公するというその「国」が現代、七世報国に値するものであるのかどうか。菅さん、もう少し考えなければいかんぞ
国家、天皇、政治権力、会社、郷土・・・命を賭けられるか?ここをもう一度しっかり考えていかなければ国は道を過つのではないか。若者は経済の前に生きる指標を見失うのではないか?
学ぶ=教育がいまや「いい大学に入って、いいところ(会社、役人、医者・・・)に就職する」ためのものにすりかわっている。教育から節義が失われてしまっていることを嘆く。