おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

新燃岳の噴火と読書

2011年01月29日 09時45分12秒 | 日記
細雪という言葉があるが、今北風に乗って細かな雪が降り始めた。五岳も雪雲で全く視界が閉ざされている。今日も寒くなりそうだ。

新燃岳が突然爆発した。九州にある活火山の内、現在活動が活発なのは桜島だけだと思っていた。すぐお隣の霧島が噴き出したのだから、自然はわからない。あれはいつだったか教員時代、まだ終礼前に時間、突然暗くなった。外に出ると灰が降っている。車はその灰で真っ白。
それは普賢岳の噴火による火砕流だった。

江戸時代にあった噴火では多くの被災者を出しているのだが、それは対岸の肥後にまで影響が及び、「島原大変、肥後迷惑」と言われた。

この時にもたいへんな量の火山灰が熊本の地に降り注いだ。それ以前には静かな山で、家内の実家の熊本市の西部海岸線からは真正面に山が見える。雲仙温泉に泊まりに行った時はこの河口付近まで見学に行っていた。頂上付近には社があってお参りしたものだ。
これがある日を境に、噴火活動を再開する。そして大火砕流が生じ、40数名の命が失われた。

そして、今度の霧島。自然の力の巨大さを痛感する。しかし、霧島は宮崎と鹿児島の境界、火山灰は風に乗って今宮崎の都城を襲っているらしい。道路に5cm程も降り積もっているというから、被害は甚大だ。

霧島火山帯というそうだがその北端に阿蘇山があり、南には琉球硫黄島がある。霧島の爆発があって、五岳を見る。活動している中岳は見えないのだが、烏帽子の奥にあるのだからその方向を注視するけど、煙は見えない。現在は大丈夫そうだけど、地下のマグマは繋がっているだろうから、噴き出している所があるなら影響がないはずはない。

数年前に湯之谷付近で突然水蒸気が地下から噴出して、今でもすごい量の水蒸気を吐き出しているのが見える。村史を調べているが、江戸時代には湯之谷の現在も温泉宿(古い湯治場)が存在するのだが、この近くで水蒸気爆発あって湯宿に死者を含めた被害が出ている。

阿蘇も日本を代表する火山、どこかに不安がある。



最近読んだ本。水野肇の「医療はどこへ向かうのか」(草思社)、五木寛之の「元気」(幻冬社)、原の「私が殺した少女」(早川書房)。
水野の書に書かれていた日本医療費31兆円の額の大きなに愕然とする。そうだろうな、私は病院にかかる度合いが他に人よりも随分多いと思うが、そこに支出される保険の額も相当のもの。身を縮めるしかないのだが、日本人ほど病院好きの民族は他にないのではないかー大学病院も民間病院もお年寄りばかりで一つの社交場になっている。先日、待合室で隣にいた老いた患者さん、夫を早く失って一人暮らしらしい。看護婦にこういった。

「ごめんね、私帰っても誰もいないから話す相手がいないので、ここで話をさせていただいているの。迷惑だけど許してね」

なんか心に暗く響く言葉だった。日本という社会の現状が具に表現されている言葉だ。独居老人、介護、医療、保険・・・

五木の本は今年になって二冊目。「不安の力」、そして「元気」。元とはおおもとのこと。気は氣でありつくりが米になっている。米を生み出す大地の力。五木は「万物の原初。天と地を生み出した始原のエネルギー」を元氣と呼んでいる。元氣から宇宙が生まれ、宇宙から地球が、地球に人間が生じた。だから人間は元気の一部なのだという。心身のエネルギーが尽きた時に命=魂は元氣の海に帰っていく。落葉帰根という言葉を始めて知った。自然法爾(ほうに)。すべて元気に帰ることを表現している。なんかちっぽけなことで思い悩む自分がいる。小さなことにストレスを感じてしまう自分がいる。しかし、人間なってそう「元氣」のほんの小さな一部なのだ。もっとおおらかに生きたらいいではないかー

原の「私が・・・」は推理小説として面白かったというのが感想。少しだけ言えば、情景描写がしつこすぎる。表現の巧みさはこの作者は純文学を書いてもいいものができるのではないかと予感させるものがある。誘拐事件に巻き込まれて、否応なく事件にもみくちゃにされながら、しかし複雑に絡んで糸の一本一本を解いていく緻密な展開。読み応えがあった。

現在は芭蕉と島尾敏雄のヤポネシアを読んでいる。



さて今日というか明日というかアジアカップ決勝だ。十分昼寝の時間をとって、恐らく終了するのは3時頃だろう。気合を入れて見たいと思う。香川は残念だった。しかし何とかなるのではないか・・・