学度保育の仕事を始めて半年になる。
昨日、村のプールが村民には無料で開放されているので、泳ぎに行った。この夏4回目。
いつも千メートル泳いで繋ぎに200メートル水中歩行する。この日、泳いでいたコースの飛び込み台の方にニコニコしている女の子がいるのに気付いた。
泳ぎを止めてよく見ると学童に時々やって来る○○ちゃんではないか
「○○ちゃん、来ていたの」と声をかけると、笑顔で「おじいちゃんと一緒に来ました」と。よく見ると隣のコースでおじいちゃんが歩行している。
おじいちゃんにも挨拶した。小学校2年生の○○ちゃんが泳ぎ始めた。平泳ぎで一生懸命に25mを泳ぎ切った。よく見ると手と足が殆ど一緒に動いている。
「○○ちゃん、足で蹴るときには手はまっすぐ伸ばしていた方が前に進むよ。蹴りで進む力が感じられなくなってから手を掻いて顔を上げて息をするんだ」
教員とは悲しい性がある。子供を見るとすぐ教えたがるのだ。
折角遊びに来ているのに、先生にあって教えられる・・・「ホッといてくれい」と思っているのかもしれないが、彼女はとてもいい子でにこにことして教えられたことを一生懸命練習し始めた。
あんまり遊んでいるのを邪魔しても悪いから、予定の距離を泳いで「それでは先生先に帰るね、バイバイ」とプールを後にした。
学童の仕事を始めて、気付いた一つの問題。保育指導員の存在が社会的に認知されていないこと。学童保育は親の仕事を保障するために放課後子供を預かって保育する仕事。ここは第二の家庭になる。子供かが学校から帰ってくると「ただいま」と挨拶して来る。これを指導員は「お帰り」と迎える。
そしてここでは指導員は「先生」と呼ばれている。そう呼ばせている。二番目の親であり先生なのだ。
宿題をやらせ、遊ばせ、おやつを出す。まさに家庭であり、一方勉強も教えることもあるし、トラブルが発生することがあるとその仲裁したり、心の指導(道徳的な)をする。だからここは封建時代の学制が整っていなかった頃の「学塾」に近い形でもある。
だから教育的にも重い意味を抱えているし、社会的には親の労働を下支えしているのだから随分社会貢献しているはずだ。
しかし、これが周囲に認知されていない。この春、保護者運営の学童を村営に替えたのだが、どうも村もおざなりで、任せっぱなし。指導員は今3名、夏休みの時期だけ現在4名で運営しているのだが、皆アルバイトで責任者が不在。所謂専任指導員がいないので責任をもって指導する者がだれもいないのだ。全員1時間700円で雇われている。
私はこの村に引越してきて、地域に馴染んでいくために社会貢献をしようと考えて手伝っているのだが、仕事の意義が伝わっていないことに苛立ちを覚えるのだ。
学童の先生は子供のいのちとこころを預かっている。小学校にも何回か行って、担任や管理職とも話したが、学校でもその意味をしっかり捉えていない。学校から帰ったら「後はそっちに任せる」。きっちり線引きしているのだ。私は教師に言った。「私達は学校の教育のサポートをしているのです」、「だから学童は学校としっかり連携を取っていくべきです」
話し合いの後、先生が何度か学童に顔を見せるようになった。どうも学校教育が硬直しているように感じるのだがー
行政ももっとしっかり学童のこと考えることが必要だ。
発達障害を抱える児童を預かっているので、この間ずーっとトラブルが続いた。いじめの状態が続いて悩んできたのだが、必死にお願いして「指導員1人体制」(児童は10名程度と小さい規模)を「2人体制」にしてもらったけれど、現在夏休みに児童は15,6人と増え、保育時間も一日10時間と長くなるのに指導員は逆に1人体制になってしまった。
広報で募集をかけても希望してくる人がいないのだ。高校生を夏の期間アルバイトで雇っても給与は私達と同じ時間700円。
こんなんで日本の教育大丈夫なのだろうか?
学童保育って教員だった私にしてもまったく知らなかったのだから、これは今後もっと社会的にしっかり声を出して認められるようにしなければならないと思う。
昨日、村のプールが村民には無料で開放されているので、泳ぎに行った。この夏4回目。
いつも千メートル泳いで繋ぎに200メートル水中歩行する。この日、泳いでいたコースの飛び込み台の方にニコニコしている女の子がいるのに気付いた。
泳ぎを止めてよく見ると学童に時々やって来る○○ちゃんではないか
「○○ちゃん、来ていたの」と声をかけると、笑顔で「おじいちゃんと一緒に来ました」と。よく見ると隣のコースでおじいちゃんが歩行している。
おじいちゃんにも挨拶した。小学校2年生の○○ちゃんが泳ぎ始めた。平泳ぎで一生懸命に25mを泳ぎ切った。よく見ると手と足が殆ど一緒に動いている。
「○○ちゃん、足で蹴るときには手はまっすぐ伸ばしていた方が前に進むよ。蹴りで進む力が感じられなくなってから手を掻いて顔を上げて息をするんだ」
教員とは悲しい性がある。子供を見るとすぐ教えたがるのだ。
折角遊びに来ているのに、先生にあって教えられる・・・「ホッといてくれい」と思っているのかもしれないが、彼女はとてもいい子でにこにことして教えられたことを一生懸命練習し始めた。
あんまり遊んでいるのを邪魔しても悪いから、予定の距離を泳いで「それでは先生先に帰るね、バイバイ」とプールを後にした。
学童の仕事を始めて、気付いた一つの問題。保育指導員の存在が社会的に認知されていないこと。学童保育は親の仕事を保障するために放課後子供を預かって保育する仕事。ここは第二の家庭になる。子供かが学校から帰ってくると「ただいま」と挨拶して来る。これを指導員は「お帰り」と迎える。
そしてここでは指導員は「先生」と呼ばれている。そう呼ばせている。二番目の親であり先生なのだ。
宿題をやらせ、遊ばせ、おやつを出す。まさに家庭であり、一方勉強も教えることもあるし、トラブルが発生することがあるとその仲裁したり、心の指導(道徳的な)をする。だからここは封建時代の学制が整っていなかった頃の「学塾」に近い形でもある。
だから教育的にも重い意味を抱えているし、社会的には親の労働を下支えしているのだから随分社会貢献しているはずだ。
しかし、これが周囲に認知されていない。この春、保護者運営の学童を村営に替えたのだが、どうも村もおざなりで、任せっぱなし。指導員は今3名、夏休みの時期だけ現在4名で運営しているのだが、皆アルバイトで責任者が不在。所謂専任指導員がいないので責任をもって指導する者がだれもいないのだ。全員1時間700円で雇われている。
私はこの村に引越してきて、地域に馴染んでいくために社会貢献をしようと考えて手伝っているのだが、仕事の意義が伝わっていないことに苛立ちを覚えるのだ。
学童の先生は子供のいのちとこころを預かっている。小学校にも何回か行って、担任や管理職とも話したが、学校でもその意味をしっかり捉えていない。学校から帰ったら「後はそっちに任せる」。きっちり線引きしているのだ。私は教師に言った。「私達は学校の教育のサポートをしているのです」、「だから学童は学校としっかり連携を取っていくべきです」
話し合いの後、先生が何度か学童に顔を見せるようになった。どうも学校教育が硬直しているように感じるのだがー
行政ももっとしっかり学童のこと考えることが必要だ。
発達障害を抱える児童を預かっているので、この間ずーっとトラブルが続いた。いじめの状態が続いて悩んできたのだが、必死にお願いして「指導員1人体制」(児童は10名程度と小さい規模)を「2人体制」にしてもらったけれど、現在夏休みに児童は15,6人と増え、保育時間も一日10時間と長くなるのに指導員は逆に1人体制になってしまった。
広報で募集をかけても希望してくる人がいないのだ。高校生を夏の期間アルバイトで雇っても給与は私達と同じ時間700円。
こんなんで日本の教育大丈夫なのだろうか?
学童保育って教員だった私にしてもまったく知らなかったのだから、これは今後もっと社会的にしっかり声を出して認められるようにしなければならないと思う。